この映画にネタバレは禁物である。なぜなら鑑賞した後の感動に大きな差が生じるからだ。また推理小説を読むと早い段階で犯人がわかってしまうタイプの人も少し残念な思いをすることになる。幸運なことに私は最後の最後まで種明かしに気づかなかったが。
物語は精神科医の男とある少年との交流が軸になっている。二人以外の登場人物は背景のように影が薄く、それは少年の母親や男の妻さえも距離を置いた存在として一歩後ろにひいている。多分そう見えるのは、男も少年も彼らにとって一番身近な家族からさえ疎外感を味わっているからではないか。男の場合は妻が若い男と浮気をしている。はっきりとした理由はわからないが、妻の不倫の原因は仕事を重視するあまり家庭をあまり顧みられなかった自分にあると夫は解釈しているかのようだ。男は非常に仕事熱心で誠心誠意患者に尽くす医者の鑑のような職業人である。そして自分の患者が自殺した過去を引きずっており、その患者に似ている気弱で自信なさ気な少年の力になることで過去を克服 しようとしている。
一方、少年は霊感が強く死者ともコミュニケーションがとれるのだが、そうした特殊能力を誰にも打ち明けられずに学校では虐められ、母親からも少し不信感をもたれている。
男も少年も実に心優しい人間なのだ。そして人間関係において駆け引きなどしないタイプで、他人をだしぬくことを良しとせず潔く謙虚に生きている。ところがそういう人々が実社会においてはあらぬ誤解を受けたり、失敗や挫折が多かったりするのもまた事実だ。もっとも敗者に甘んじてはいても、彼らはそれを不遇とは感じていない。失敗や挫折に腹を立てる単純な負けず嫌いではないからだ。さらに云うなら、どのような局面でも反省と感謝の気持ちを忘れずに生きている。
私が映像で強い衝撃を受けたのは、そうした良心的な彼らとは真逆な存在が現れるシーンである。それは少年に助けを求めている幽霊の少女を救う為に二人が行動を共にするところで起きる。この少女は継母に毎日少量の毒を盛られて計画的に殺害されたのだが、こうしたおぞましい社会病理こそが、彼ら二人の良心の対極にあるものであろう。血のように真っ赤なドレスを来て映画のフレームの真正面に立った継母の冷徹な表情には暗澹たるものを感じてしまう。この後、この悪徳の象徴のような女性は男と少年の働きかけによって、隠蔽していた事実を暴かれてしまうわけだが、彼ら二人はその時にはもう何事も無かったかのようにその場から立ち去っている。この幽霊の少女の場合、自分が殺された真相を誰にも知ってもらえずにこの世に未練を残していたわけだが、こういう物語設定は日本の伝統芸能の能にどこか似ていなくもない。
この映画は登場人物も少なく実に小さな世界を描いているのだが、其処には人生への普遍的な問いかけがあるようだ。それは自信を持つ勇気の大切さではないだろうか。物語に即していうならば、自分に正直に誠実に生きているのであれば、自分に自信を持っていることに気付くべきだということになるのかもしれない。そのようなメッセージを少年は学校の先生ではない小児精神科医の男から受け取ったように思う。世の中、過信をしている人は多いが、本当に自信を持って生きている人は少ない。主人公である虐められっ子の少年は実は虐めっ子よりも自信を持って生きている。なぜなら気が弱くても幽霊が見える自分自身を心の根っこの部分では否定してはいないからだ。幽霊の少女は彼に助けを求めてきた。彼は彼女を助けようとし助けた人間である。虐めっ子は自分を大きく見せる為に過信しているだけで、その過信は虐め行為から発生している。強者が弱者をいたぶりぶちのめし叩きのめす。そして優劣や上下関係で勝者の位置に自らを置くことでしか自己確認ができない。つまり心が狭小で価値観が単一的である。それは偏見を生み出し、異なる者を排除しようとする。幽霊が現れるということは日常とは違う非日常、異世界への扉が開けられているということだ。虐められっ子の少年は価値観の多様性を認めている。
映画のラストには家庭的でささやかなハッピーエンドが訪れる。主演のブルース・ウィルスの微笑みは、家族ほど大切なものはないと気付かせてくれる。この映画に関しては、このぐらいにしておきたい。これ以上語るとネタバレになってしまう。
物語は精神科医の男とある少年との交流が軸になっている。二人以外の登場人物は背景のように影が薄く、それは少年の母親や男の妻さえも距離を置いた存在として一歩後ろにひいている。多分そう見えるのは、男も少年も彼らにとって一番身近な家族からさえ疎外感を味わっているからではないか。男の場合は妻が若い男と浮気をしている。はっきりとした理由はわからないが、妻の不倫の原因は仕事を重視するあまり家庭をあまり顧みられなかった自分にあると夫は解釈しているかのようだ。男は非常に仕事熱心で誠心誠意患者に尽くす医者の鑑のような職業人である。そして自分の患者が自殺した過去を引きずっており、その患者に似ている気弱で自信なさ気な少年の力になることで過去を克服 しようとしている。
一方、少年は霊感が強く死者ともコミュニケーションがとれるのだが、そうした特殊能力を誰にも打ち明けられずに学校では虐められ、母親からも少し不信感をもたれている。
男も少年も実に心優しい人間なのだ。そして人間関係において駆け引きなどしないタイプで、他人をだしぬくことを良しとせず潔く謙虚に生きている。ところがそういう人々が実社会においてはあらぬ誤解を受けたり、失敗や挫折が多かったりするのもまた事実だ。もっとも敗者に甘んじてはいても、彼らはそれを不遇とは感じていない。失敗や挫折に腹を立てる単純な負けず嫌いではないからだ。さらに云うなら、どのような局面でも反省と感謝の気持ちを忘れずに生きている。
私が映像で強い衝撃を受けたのは、そうした良心的な彼らとは真逆な存在が現れるシーンである。それは少年に助けを求めている幽霊の少女を救う為に二人が行動を共にするところで起きる。この少女は継母に毎日少量の毒を盛られて計画的に殺害されたのだが、こうしたおぞましい社会病理こそが、彼ら二人の良心の対極にあるものであろう。血のように真っ赤なドレスを来て映画のフレームの真正面に立った継母の冷徹な表情には暗澹たるものを感じてしまう。この後、この悪徳の象徴のような女性は男と少年の働きかけによって、隠蔽していた事実を暴かれてしまうわけだが、彼ら二人はその時にはもう何事も無かったかのようにその場から立ち去っている。この幽霊の少女の場合、自分が殺された真相を誰にも知ってもらえずにこの世に未練を残していたわけだが、こういう物語設定は日本の伝統芸能の能にどこか似ていなくもない。
この映画は登場人物も少なく実に小さな世界を描いているのだが、其処には人生への普遍的な問いかけがあるようだ。それは自信を持つ勇気の大切さではないだろうか。物語に即していうならば、自分に正直に誠実に生きているのであれば、自分に自信を持っていることに気付くべきだということになるのかもしれない。そのようなメッセージを少年は学校の先生ではない小児精神科医の男から受け取ったように思う。世の中、過信をしている人は多いが、本当に自信を持って生きている人は少ない。主人公である虐められっ子の少年は実は虐めっ子よりも自信を持って生きている。なぜなら気が弱くても幽霊が見える自分自身を心の根っこの部分では否定してはいないからだ。幽霊の少女は彼に助けを求めてきた。彼は彼女を助けようとし助けた人間である。虐めっ子は自分を大きく見せる為に過信しているだけで、その過信は虐め行為から発生している。強者が弱者をいたぶりぶちのめし叩きのめす。そして優劣や上下関係で勝者の位置に自らを置くことでしか自己確認ができない。つまり心が狭小で価値観が単一的である。それは偏見を生み出し、異なる者を排除しようとする。幽霊が現れるということは日常とは違う非日常、異世界への扉が開けられているということだ。虐められっ子の少年は価値観の多様性を認めている。
映画のラストには家庭的でささやかなハッピーエンドが訪れる。主演のブルース・ウィルスの微笑みは、家族ほど大切なものはないと気付かせてくれる。この映画に関しては、このぐらいにしておきたい。これ以上語るとネタバレになってしまう。
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