今年の東京オリンピックの開催は、正直なところ、その実現がまだ楽観視できない状況にあるのではないか。新型コロナウイルスの世界的な感染爆発で、開催時期が1年延期されてしまったわけだが、これは人類の英断である。仮に無理を承知で強引に開催していたとしたら、参加する選手団はおろか観客も含めて疫病による大惨事が発生していたはずだ。今後も予断を許さない展開が続くが、開催の最終決定は医学も含めた科学的見地から良識ある判断が下されることを望む。
東京でオリンピックが開催されるのは、1964年以来のことで、前回から振り返ると半世紀以上もの年月が流れたことになる。当時に幼少期だった私には全くその記憶はない。それゆえ記録された映像を視聴して、東京オリンピックの存在を知った。数々の感動が生まれたエピソードの中、初めて目にした映像記録で一際感動したのは閉会式の選手の入場シーンであった。実はこの1964年の東京オリンピックから閉会式における選手の自由入場が定着している。正確には1956年のメルボルン大会から閉会式の自由入場が実現したのだが、残念なことに大会最終日に帰国した選手が多く、祭典の盛大さに欠けてしまったらしい。この為、次の1960年のローマ大会では従来の整然とした国別の入場行進のスタイルに戻ってしまったのだ。そして当初は1964年の東京大会も同様にその厳粛な路線を継承するはずであった。
ところがである。この東京大会では、アジアで初めてのオリンピック開催という事情もあり、戦後復興した日本では歓迎ムードが非常に高く各地で選手たちをもてなすイベントも多かったようだ。これでは当然のこと、世界中から訪れた選手たちの多くが閉会式まで帰国しない自然な流れが生じたとしても不思議ではない。そして当日、整然と始まったはずの閉会式が、想定外の選手数の多さから列が列らしく無くなり収拾がつかなくなってゆき、いつの間にか国の代表として競技をしていた選手全てが和気あいあいとして談笑したり、手を取り合ったりして仲良く、4年に1度の最後の時間を楽しみながら自由気ままに歩いたり走ったりしていた。しかしこの光景こそが、性別も人種も民族も宗教も、そして国家さえをも乗り越えた瞬間であり、まさに平和の祭典の象徴であろう。実際、この1964年の東京大会に参加した選手にはもう鬼籍に入られた方々もおられるが、殆どの人があの自由な閉会式の体験については肯定的だ。
ここで暫しオリンピックの歴史について考えてみたい。その起源は紀元前の古代ギリシャにまで遡るのだが、そもそもはオリンピアで行なわれたギリシャの神々を崇める為の宗教行事がその原形である。ではなぜ、そのような宗教行事が存在したのかというと、実にシンブルに神様たちにお願いして平和を希求したからだと述べるしかない。古代のバルカン半島のギリシャ地域には、ポリスという大小の都市国家が乱立し軍事力を誇示して争うことが多かった。つまり戦時下である時間が非常に長いわけで、このような環境だと戦争で疲弊した人民には聖なる休戦期間、平和が無論のこと必要であった。実際、戦争の中断によって競技に参加する人々は敵地を横断したり、武器を捨てたりして、開催地のオリンピアを目指した。このようにオリンピックはその成り立ちからして平和志向そのものである。
その後、この古代オリンピックは数百年続くわけだが、ある時点で中断という歴史的局面を迎える。それはイタリア半島から領土を拡大して、バルカン半島のギリシャを呑み込みヨーロッパ全域や北アフリカ、中東をも含めた広大な版図を有して地中海世界全体に覇を唱えた古代ローマ帝国の皇帝テオドシウスの政策により決定された。時は紀元4世紀、この頃の古代ローマ帝国ではキリスト教が国教に定められており、古代オリンピックは異教禁止令により消滅したのだ。そしてその復活は長い時を経て19世紀末の近代まで待つことになるのだが、1896年にギリシャのアテネで開催されて蘇った民主的なオリンピックが、私たちに馴染み深く現在まで続いている平和の祭典である。
今月に女性蔑視発言により、国内外を問わず世論の大きな影響を受けて、東京五輪組織委会長が辞任したが、これは自業自得な当然の帰結であろう。このような開催国の失態は、情けない限りではあるものの、失言したトップが速やかに退場した事実は、オリンピックの理念が確りと生きている証拠である。オリンピックのシンボルマークは、アジアとヨーロッパとアフリカとアメリカとオセアニアの5つの大陸を5つの輪でデザインしたものだが、これは国籍のみならず性別、人種、民族、宗教の違いに関係なく、人類全てが仲良く繋がっている姿を表している。
ここ数年、世界では自国ファーストの風潮が強まっている。前回のリオデジャネイロのオリンピックの頃にはさほどそれを強く意識することはなかったが、米国の前政権のアメリカンファースト路線や、英国のEU脱退に見られるように、世界各国の指導者の中には国益重視を過剰に宣伝して勇ましく自己存在感をアピールする人物が増えてきている。またそのような指導者を熱烈に支持する国民が増えてきているのも危惧すべき点だ。また国と国が敵対し、民族や宗教や人種や性別による差別が半ば容認されているような現状も嘆かわしい限りである。
しかしながら皮肉にもコロナ禍によって、私たち人間は偏見など捨てて仲良く助け合わなければ生きてはいけない弱い生物でもあることを再認識できた。今年の東京オリンピックが無事に開催された暁には、東京に出向かなくとも平和の祭典に相応しいあの自由な閉会式の光景をリアルタイムで視聴できたらと思う。
東京でオリンピックが開催されるのは、1964年以来のことで、前回から振り返ると半世紀以上もの年月が流れたことになる。当時に幼少期だった私には全くその記憶はない。それゆえ記録された映像を視聴して、東京オリンピックの存在を知った。数々の感動が生まれたエピソードの中、初めて目にした映像記録で一際感動したのは閉会式の選手の入場シーンであった。実はこの1964年の東京オリンピックから閉会式における選手の自由入場が定着している。正確には1956年のメルボルン大会から閉会式の自由入場が実現したのだが、残念なことに大会最終日に帰国した選手が多く、祭典の盛大さに欠けてしまったらしい。この為、次の1960年のローマ大会では従来の整然とした国別の入場行進のスタイルに戻ってしまったのだ。そして当初は1964年の東京大会も同様にその厳粛な路線を継承するはずであった。
ところがである。この東京大会では、アジアで初めてのオリンピック開催という事情もあり、戦後復興した日本では歓迎ムードが非常に高く各地で選手たちをもてなすイベントも多かったようだ。これでは当然のこと、世界中から訪れた選手たちの多くが閉会式まで帰国しない自然な流れが生じたとしても不思議ではない。そして当日、整然と始まったはずの閉会式が、想定外の選手数の多さから列が列らしく無くなり収拾がつかなくなってゆき、いつの間にか国の代表として競技をしていた選手全てが和気あいあいとして談笑したり、手を取り合ったりして仲良く、4年に1度の最後の時間を楽しみながら自由気ままに歩いたり走ったりしていた。しかしこの光景こそが、性別も人種も民族も宗教も、そして国家さえをも乗り越えた瞬間であり、まさに平和の祭典の象徴であろう。実際、この1964年の東京大会に参加した選手にはもう鬼籍に入られた方々もおられるが、殆どの人があの自由な閉会式の体験については肯定的だ。
ここで暫しオリンピックの歴史について考えてみたい。その起源は紀元前の古代ギリシャにまで遡るのだが、そもそもはオリンピアで行なわれたギリシャの神々を崇める為の宗教行事がその原形である。ではなぜ、そのような宗教行事が存在したのかというと、実にシンブルに神様たちにお願いして平和を希求したからだと述べるしかない。古代のバルカン半島のギリシャ地域には、ポリスという大小の都市国家が乱立し軍事力を誇示して争うことが多かった。つまり戦時下である時間が非常に長いわけで、このような環境だと戦争で疲弊した人民には聖なる休戦期間、平和が無論のこと必要であった。実際、戦争の中断によって競技に参加する人々は敵地を横断したり、武器を捨てたりして、開催地のオリンピアを目指した。このようにオリンピックはその成り立ちからして平和志向そのものである。
その後、この古代オリンピックは数百年続くわけだが、ある時点で中断という歴史的局面を迎える。それはイタリア半島から領土を拡大して、バルカン半島のギリシャを呑み込みヨーロッパ全域や北アフリカ、中東をも含めた広大な版図を有して地中海世界全体に覇を唱えた古代ローマ帝国の皇帝テオドシウスの政策により決定された。時は紀元4世紀、この頃の古代ローマ帝国ではキリスト教が国教に定められており、古代オリンピックは異教禁止令により消滅したのだ。そしてその復活は長い時を経て19世紀末の近代まで待つことになるのだが、1896年にギリシャのアテネで開催されて蘇った民主的なオリンピックが、私たちに馴染み深く現在まで続いている平和の祭典である。
今月に女性蔑視発言により、国内外を問わず世論の大きな影響を受けて、東京五輪組織委会長が辞任したが、これは自業自得な当然の帰結であろう。このような開催国の失態は、情けない限りではあるものの、失言したトップが速やかに退場した事実は、オリンピックの理念が確りと生きている証拠である。オリンピックのシンボルマークは、アジアとヨーロッパとアフリカとアメリカとオセアニアの5つの大陸を5つの輪でデザインしたものだが、これは国籍のみならず性別、人種、民族、宗教の違いに関係なく、人類全てが仲良く繋がっている姿を表している。
ここ数年、世界では自国ファーストの風潮が強まっている。前回のリオデジャネイロのオリンピックの頃にはさほどそれを強く意識することはなかったが、米国の前政権のアメリカンファースト路線や、英国のEU脱退に見られるように、世界各国の指導者の中には国益重視を過剰に宣伝して勇ましく自己存在感をアピールする人物が増えてきている。またそのような指導者を熱烈に支持する国民が増えてきているのも危惧すべき点だ。また国と国が敵対し、民族や宗教や人種や性別による差別が半ば容認されているような現状も嘆かわしい限りである。
しかしながら皮肉にもコロナ禍によって、私たち人間は偏見など捨てて仲良く助け合わなければ生きてはいけない弱い生物でもあることを再認識できた。今年の東京オリンピックが無事に開催された暁には、東京に出向かなくとも平和の祭典に相応しいあの自由な閉会式の光景をリアルタイムで視聴できたらと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます