この画像は誰もがよくご存知のオードリー・ヘプバーン主演の映画「ローマの休日」である。そして1953年に公開されたこの作品はその後に、大女優として才能を開花させた彼女のハリウッドでのデビュー作であり、同時に主演女優賞も受賞してしまった名作だ。今回、女優のオードリー・ヘプバーンと映画監督のスティーブン・スピルバーグ、それに脚本家のダルトン・トランボを取り上げたのは、この3人がトライアングルのように連携した映画「オールウェイズ」を今年になってやっと鑑賞する機会に恵まれたからである。
私がこの「オールウェイズ」というスピルバーグの監督作品の存在を知ったのは、多分もうかれこれ20年以上前の話になるかと思う。興味を持てたのはそれがヘプバーンの遺作だったことが最大の理由だが、監督がスピルバーグだった影響も大きい。スピルバーグが監督した作品というと「バック・トゥ•ザ•フューチャー」のシリーズのような、一般的には完成度の高い娯楽作品の印象が強い。しかし無論それだけではなく「カラー・パープル」や「シンドラーのリスト」などの優れた社会派の作品も多く世に出している。
この「オールウェイズ」は、事故死した男性が最愛の女性の行末を案じる物語なのだが、ユーモアに満ちた演出も魅力的で、案外エンターテーメントの色合いは強いかもしれない。ところが実は反戦的な内容も含まれており、それは恐らく原作がトランボだからであろう。ただダルトン・トランボは1976年に死去しており、この映画は彼が脚本を担当し1943年に公開された「ジョーと呼ばれた男」のリメイクなのだ。脚本家として数多くの著名な映画に貢献しながら、多才な人で映画監督や小説家としても活動した。
自作小説「ジョニーは銃を取った」は自ら監督業も兼ねてメガホンを取り第二次世界大戦後の1971年に映画化させている。それは「ジョニーは戦場へ行った」というタイトルの映画だ。内容は第一次世界大戦に従軍した兵士が負傷してほぼ全ての感覚を失い、目が見えない、耳も聴こえない、言葉も話せないという絶望に瀕し、運び込まれた病院で延命治療を受けるも、壊疽を防ぐ為に両手と両足を切断され、さらなる絶望の極みのような地獄に遭遇する悲惨な話である。私が「ジョニーは戦場へ行った」を映画館で観たのは20世紀の話だが、戦禍の止まない現代にも痛烈に響くメッセージに満ちている。ただ恐ろしい映像だけで構成されてはおらず、この悲劇的な主人公ジョニーの睡眠と共に訪れる夢の世界が目映いほどに美しく、その光景は今回視聴した「オールウェイズ」でヘプバーンが現れる情景と何処か似ている印象を受けた。
作者自身が文学で表現した世界を映像化した「ジョニーは戦場へ行った」は戦争を弾劾する執念の込められた傑作だ。小説が発表されたのは第二次世界大戦勃発の1939年で、戦時中にアメリカ合衆国政府から絶版にされている。またトランボ本人も政府から禁固刑の実刑判決を受けて刑務所に収監されてしまった。
第二次世界大戦後はアメリカ合衆国から離れて、メキシコに滞在し脚本家の仕事を続けていたが、1954年に帰還するも暫くは偽名で映画の脚本を書くことを余儀なくされる。実は「ローマの休日」の原案はこの偽名時代に執筆しているものだ。ただ1970年代以降には実名での文筆活動が可能となり、「オールウェイズ」の原作は本名を使用したトランボその人である。
私は長い間、気に留めてはいたが、殆ど忘れていたこの映画を、BS放送の番組予約で録画して視聴できたのだが、唖然とさせられる場面に遭遇した。またこの場面における登場人物の台詞が真理を突いており、目を開かされた思いである。これは明らかに戦争を根絶すべき人災として断定し、反戦活動を続けてきたトランボの強固な意志が、映画「ジョニーは戦場へ行った」とは全く異なる表現で結実している。それも戦場の凄惨な光景をダイレクトに描写する具体的な形ではなく、もっとシンプルで抽象的な形で。
「オールウェイズ」に登場する人々は、森林火災消化隊員とその家族や友人、それに恋人である。大規模な天災の山火事の消火作業は命懸けであり、主人公の男性パイロットは消化飛行中の飛行機事故で死んでしまうのだが、その事故が発生する以前の酒場での隊員たちの交流で、主人公の友人が嘆き節で語る台詞には、戦争を根絶させるヒントが慎ましく挿入されていた。これは映画を監督したスピルバーグの絶妙な演出だ。
ある意味、全く目立たないシーンに近いが、彼は笑い話に興じるように酒を飲みながら誰ともなしに問いかける。余りにも素朴な疑問を。それは彼らが日々真面目に、必死に仕事に取り組んでいるにも関わらず、そんな森林火災消火隊員よりも、同じように空を飛ぶパイロットでありながら、軍隊の海兵隊員の方が段違いに人気者だという事実をだ。これは自然災害の天災を命懸けで防ぐ人々よりも、人災の戦争で敵と戦う人々の方が明らかに英雄視されるという、彼にとって面白くない不条理を嘆いているわけである。何故そうなのかと疑問符を打ちながら。
確かにこれは一見すると箸にも棒にも掛からない話になりがちだが、むしろ深刻に考えるべき問題であろう。また私たち人類の歴史において、未だに戦争が無くならないのは、戦争が血を流す政治であり、政治は血を流さない戦争だと毛沢東に定義されたような思想信条によって、古今東西の為政者が戦争を政策の選択肢から排除しないこともその原因ではないか。そして政策である以上、そこには国益が絡み、暴利が発生することも否定できない。
そして残念ながら、現代においても人間社会がこの呪縛から脱出できずにいるのは、為政者の一挙手一投足で人生を左右されてしまう大多数の人々さえ、戦争に対し肯定的になっていることもその要因であろう。つまり国際紛争などの諸問題の解決手段として、平和よりも戦争を優先させる気持ちが強いのだ。それゆえ戦場の英雄に拍手喝采を贈り、憧れの度が過ぎて戦場の英雄になりたいという願望さえ生まれてしまう。ただし注意すべきは、この願望には国家の決定によって国民が死に追いやられるという認識が、政府のマインドコントロールのせいで殆ど欠けていることだ。
ここで今一度、為政者の視点を考察したい。彼らが戦争にゴーサインを出す意志決定において、そこにはほぼ確実に内政の失敗を外政で補おうとする姿勢が垣間見える。そして国内において内政の失敗を隠蔽し、国外に敵を見出して、悪化する事態からの打破を図ろうとするのだが、そもそも敵とやらが本当に諸悪の根源なのかということである。むしろ敵は為政者の作為により映し出された幻ではないのか。国民のフラストレーションをぶつける対象としての。
映画「オールウェイズ」の森林火災消化隊員は敵と戦っているわけではない。ひたすらに天災の巨大な火を消して命を救おうとしているのだ。自らの命の危険も省みずにである。実際、主人公の男性は物語の前半で事故死し、それ以降は幽霊としての役回りとなる。ところが勇ましく生死を賭けて敵と戦う、そんな殺し合いの戦場で働いていないからこそ、彼らは戦場の兵士より、皮肉にも英雄的に評価され難い。スピルバーグがこの事実を、映画の中で大々的に表明しなかったのは、物語の構造上の理由もあろうが、そうなるとかえって鑑賞者への訴求力が効果的ではないからであろう。
ここから今度は、「オールウェイズ」の主人公の死後、物語に登場するオードリー•ヘプバーンの話へ移りたい。これが遺作ということもあって、彼女の役柄は老婦人の姿をした天使という設定だ。そして自分が死んでしまったことに気付かず、死という現実に納得できずに、また現世に未練や執着も残してしまった主人公の魂を平安に導こうとする聖女である。天使と対話する過程での主人公の心の葛藤とその変遷において、スピルバーグは既に他界している原作者のトランボの言葉を頼りに、酒場のシーンの登場人物の嘆きに対する答えを出しているように思える。それは本当のところ嘆く必要などないということだ。戦争の英雄に憧れる連中など相手にしなくとも良い。そういうことである。
主人公の恋人には、密かに想いを寄せる誠実な男性がおり、幽霊になってしまった主人公は彼を恋敵、つまりライバルのように敵視するわけだが、この心情には救いが無いことを天使は諭す。なぜなら彼は既に現世の人ではないのだから。それでも恋人の女性の記憶に彼はまだ歴然と残っており、愛の尺度で解釈するなら、幽霊の彼は絶望し悲観しても無意味である。天使の声に耳を傾けるうちに、彼の心に巣食う敵が敵ではなくなり、恋人の女性の幸福を願う気持ちが悠然と育っていく。そして彼の魂も救済されていくのだ。
この「オールウェイズ」という映画がアメリカ合衆国で公開されたのは、1989年の12月22日のクリスマスシーズンであり、この公開日の約1ヶ月前には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊している。つまり冷戦が終結し、ずっと敵同士だった人々がお互いに友人となる瞬間が到来した時期だ。そして敵が不在になった状態、それこそが平和であろう。この平和を実現する為には、戦争は役に立たない。戦争で勝利し敵を敗北させても憎悪が残る以上、真の平和は訪れないからだ。私たち人間一人一人が、まず心の中の敵を消し去ることこそが大切である。多分、この映画でスピルバーグ監督はそこを最も訴えたかったのではないか。
2023年の現在も紛争地帯は残念ながら世界各地に見受けられる。特に今、世界中から注視されているのは、中東のイスラエルとハマスの戦闘であり、20世紀のイスラエル建国以来、この宗教と領土問題が錯綜し延々と引き摺り続けてきた紛争は、双方の同意により休戦状態が延長に入ったところである。願わくばこの休戦が永遠に続くことを祈りたい。もし仮にこの休戦が数日ではなく、数ヶ月、数年と延びていくことがあれば、同じスラブ民族同士で争っているロシアとウクライナを含めた他の紛争地に影響を与える可能性もなくはない。つまり人間一人一人が心の中の敵と決別することで、戦争が消滅していく可能性である。
映画「ローマの休日」において、オードリー•ヘプバーンが演じた女性の正体はヨーロッパの小さな王国の王女であるが、彼女が休日以外にする仕事は、ヨーロッパ諸国を歴訪する平和外交であった。そして物語の終焉、宮殿内部のシーン、記者からのインタビューで国際情勢における展望を質問された時、このように答えていたはずだ。
「私は国家間の友情を信じます。人と人との友情を信じているように」
私がこの「オールウェイズ」というスピルバーグの監督作品の存在を知ったのは、多分もうかれこれ20年以上前の話になるかと思う。興味を持てたのはそれがヘプバーンの遺作だったことが最大の理由だが、監督がスピルバーグだった影響も大きい。スピルバーグが監督した作品というと「バック・トゥ•ザ•フューチャー」のシリーズのような、一般的には完成度の高い娯楽作品の印象が強い。しかし無論それだけではなく「カラー・パープル」や「シンドラーのリスト」などの優れた社会派の作品も多く世に出している。
この「オールウェイズ」は、事故死した男性が最愛の女性の行末を案じる物語なのだが、ユーモアに満ちた演出も魅力的で、案外エンターテーメントの色合いは強いかもしれない。ところが実は反戦的な内容も含まれており、それは恐らく原作がトランボだからであろう。ただダルトン・トランボは1976年に死去しており、この映画は彼が脚本を担当し1943年に公開された「ジョーと呼ばれた男」のリメイクなのだ。脚本家として数多くの著名な映画に貢献しながら、多才な人で映画監督や小説家としても活動した。
自作小説「ジョニーは銃を取った」は自ら監督業も兼ねてメガホンを取り第二次世界大戦後の1971年に映画化させている。それは「ジョニーは戦場へ行った」というタイトルの映画だ。内容は第一次世界大戦に従軍した兵士が負傷してほぼ全ての感覚を失い、目が見えない、耳も聴こえない、言葉も話せないという絶望に瀕し、運び込まれた病院で延命治療を受けるも、壊疽を防ぐ為に両手と両足を切断され、さらなる絶望の極みのような地獄に遭遇する悲惨な話である。私が「ジョニーは戦場へ行った」を映画館で観たのは20世紀の話だが、戦禍の止まない現代にも痛烈に響くメッセージに満ちている。ただ恐ろしい映像だけで構成されてはおらず、この悲劇的な主人公ジョニーの睡眠と共に訪れる夢の世界が目映いほどに美しく、その光景は今回視聴した「オールウェイズ」でヘプバーンが現れる情景と何処か似ている印象を受けた。
作者自身が文学で表現した世界を映像化した「ジョニーは戦場へ行った」は戦争を弾劾する執念の込められた傑作だ。小説が発表されたのは第二次世界大戦勃発の1939年で、戦時中にアメリカ合衆国政府から絶版にされている。またトランボ本人も政府から禁固刑の実刑判決を受けて刑務所に収監されてしまった。
第二次世界大戦後はアメリカ合衆国から離れて、メキシコに滞在し脚本家の仕事を続けていたが、1954年に帰還するも暫くは偽名で映画の脚本を書くことを余儀なくされる。実は「ローマの休日」の原案はこの偽名時代に執筆しているものだ。ただ1970年代以降には実名での文筆活動が可能となり、「オールウェイズ」の原作は本名を使用したトランボその人である。
私は長い間、気に留めてはいたが、殆ど忘れていたこの映画を、BS放送の番組予約で録画して視聴できたのだが、唖然とさせられる場面に遭遇した。またこの場面における登場人物の台詞が真理を突いており、目を開かされた思いである。これは明らかに戦争を根絶すべき人災として断定し、反戦活動を続けてきたトランボの強固な意志が、映画「ジョニーは戦場へ行った」とは全く異なる表現で結実している。それも戦場の凄惨な光景をダイレクトに描写する具体的な形ではなく、もっとシンプルで抽象的な形で。
「オールウェイズ」に登場する人々は、森林火災消化隊員とその家族や友人、それに恋人である。大規模な天災の山火事の消火作業は命懸けであり、主人公の男性パイロットは消化飛行中の飛行機事故で死んでしまうのだが、その事故が発生する以前の酒場での隊員たちの交流で、主人公の友人が嘆き節で語る台詞には、戦争を根絶させるヒントが慎ましく挿入されていた。これは映画を監督したスピルバーグの絶妙な演出だ。
ある意味、全く目立たないシーンに近いが、彼は笑い話に興じるように酒を飲みながら誰ともなしに問いかける。余りにも素朴な疑問を。それは彼らが日々真面目に、必死に仕事に取り組んでいるにも関わらず、そんな森林火災消火隊員よりも、同じように空を飛ぶパイロットでありながら、軍隊の海兵隊員の方が段違いに人気者だという事実をだ。これは自然災害の天災を命懸けで防ぐ人々よりも、人災の戦争で敵と戦う人々の方が明らかに英雄視されるという、彼にとって面白くない不条理を嘆いているわけである。何故そうなのかと疑問符を打ちながら。
確かにこれは一見すると箸にも棒にも掛からない話になりがちだが、むしろ深刻に考えるべき問題であろう。また私たち人類の歴史において、未だに戦争が無くならないのは、戦争が血を流す政治であり、政治は血を流さない戦争だと毛沢東に定義されたような思想信条によって、古今東西の為政者が戦争を政策の選択肢から排除しないこともその原因ではないか。そして政策である以上、そこには国益が絡み、暴利が発生することも否定できない。
そして残念ながら、現代においても人間社会がこの呪縛から脱出できずにいるのは、為政者の一挙手一投足で人生を左右されてしまう大多数の人々さえ、戦争に対し肯定的になっていることもその要因であろう。つまり国際紛争などの諸問題の解決手段として、平和よりも戦争を優先させる気持ちが強いのだ。それゆえ戦場の英雄に拍手喝采を贈り、憧れの度が過ぎて戦場の英雄になりたいという願望さえ生まれてしまう。ただし注意すべきは、この願望には国家の決定によって国民が死に追いやられるという認識が、政府のマインドコントロールのせいで殆ど欠けていることだ。
ここで今一度、為政者の視点を考察したい。彼らが戦争にゴーサインを出す意志決定において、そこにはほぼ確実に内政の失敗を外政で補おうとする姿勢が垣間見える。そして国内において内政の失敗を隠蔽し、国外に敵を見出して、悪化する事態からの打破を図ろうとするのだが、そもそも敵とやらが本当に諸悪の根源なのかということである。むしろ敵は為政者の作為により映し出された幻ではないのか。国民のフラストレーションをぶつける対象としての。
映画「オールウェイズ」の森林火災消化隊員は敵と戦っているわけではない。ひたすらに天災の巨大な火を消して命を救おうとしているのだ。自らの命の危険も省みずにである。実際、主人公の男性は物語の前半で事故死し、それ以降は幽霊としての役回りとなる。ところが勇ましく生死を賭けて敵と戦う、そんな殺し合いの戦場で働いていないからこそ、彼らは戦場の兵士より、皮肉にも英雄的に評価され難い。スピルバーグがこの事実を、映画の中で大々的に表明しなかったのは、物語の構造上の理由もあろうが、そうなるとかえって鑑賞者への訴求力が効果的ではないからであろう。
ここから今度は、「オールウェイズ」の主人公の死後、物語に登場するオードリー•ヘプバーンの話へ移りたい。これが遺作ということもあって、彼女の役柄は老婦人の姿をした天使という設定だ。そして自分が死んでしまったことに気付かず、死という現実に納得できずに、また現世に未練や執着も残してしまった主人公の魂を平安に導こうとする聖女である。天使と対話する過程での主人公の心の葛藤とその変遷において、スピルバーグは既に他界している原作者のトランボの言葉を頼りに、酒場のシーンの登場人物の嘆きに対する答えを出しているように思える。それは本当のところ嘆く必要などないということだ。戦争の英雄に憧れる連中など相手にしなくとも良い。そういうことである。
主人公の恋人には、密かに想いを寄せる誠実な男性がおり、幽霊になってしまった主人公は彼を恋敵、つまりライバルのように敵視するわけだが、この心情には救いが無いことを天使は諭す。なぜなら彼は既に現世の人ではないのだから。それでも恋人の女性の記憶に彼はまだ歴然と残っており、愛の尺度で解釈するなら、幽霊の彼は絶望し悲観しても無意味である。天使の声に耳を傾けるうちに、彼の心に巣食う敵が敵ではなくなり、恋人の女性の幸福を願う気持ちが悠然と育っていく。そして彼の魂も救済されていくのだ。
この「オールウェイズ」という映画がアメリカ合衆国で公開されたのは、1989年の12月22日のクリスマスシーズンであり、この公開日の約1ヶ月前には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊している。つまり冷戦が終結し、ずっと敵同士だった人々がお互いに友人となる瞬間が到来した時期だ。そして敵が不在になった状態、それこそが平和であろう。この平和を実現する為には、戦争は役に立たない。戦争で勝利し敵を敗北させても憎悪が残る以上、真の平和は訪れないからだ。私たち人間一人一人が、まず心の中の敵を消し去ることこそが大切である。多分、この映画でスピルバーグ監督はそこを最も訴えたかったのではないか。
2023年の現在も紛争地帯は残念ながら世界各地に見受けられる。特に今、世界中から注視されているのは、中東のイスラエルとハマスの戦闘であり、20世紀のイスラエル建国以来、この宗教と領土問題が錯綜し延々と引き摺り続けてきた紛争は、双方の同意により休戦状態が延長に入ったところである。願わくばこの休戦が永遠に続くことを祈りたい。もし仮にこの休戦が数日ではなく、数ヶ月、数年と延びていくことがあれば、同じスラブ民族同士で争っているロシアとウクライナを含めた他の紛争地に影響を与える可能性もなくはない。つまり人間一人一人が心の中の敵と決別することで、戦争が消滅していく可能性である。
映画「ローマの休日」において、オードリー•ヘプバーンが演じた女性の正体はヨーロッパの小さな王国の王女であるが、彼女が休日以外にする仕事は、ヨーロッパ諸国を歴訪する平和外交であった。そして物語の終焉、宮殿内部のシーン、記者からのインタビューで国際情勢における展望を質問された時、このように答えていたはずだ。
「私は国家間の友情を信じます。人と人との友情を信じているように」
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