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山田太一さん 追悼

2023-12-07 23:41:51 | 日記
 11月29日に脚本家の山田太一さんが他界されていた。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 
 テレビドラマには、映画や小説とはまた違った特有の魅力があるものだ。テレビで放送されるドラマの多くは人気番組になるべく視聴率を前提に制作しているらしいが、山田太一作品はテレビドラマという範疇に収まらないほど希有な表現に貫かれていた。山田太一さんが書いた脚本のドラマだと知ると、殆ど反射的に番組予約をするような人も多かったのではないか。そして時代を映す鏡のような視点と、いつの世も変わらない普遍的な視点がそこでは絶妙に共存していた。しかも台詞や演出には独特なユーモアがその端々に感じられる。
 
 個人的にも思い出の名場面が数多くあり、特に心が弱っていたりする時、ドラマの登場人物たちの言動は、元気を貰える良薬のような働きをしてくれていた。そして何よりも優れていたのは、自責の念や自己嫌悪といったネガティブな感情にも支配されがちな小市民が、時の流れと共に再生していく姿が丁寧に描かれていたことだ。その再生の過程において、人々は傲慢や貪欲とは無縁の自己肯定感に目覚めていく。

 そして自己嫌悪や自責の念に苛まれる人々は、本当のところ心が病んでいるわけではなく、むしろ病んでいるのは組織や社会といったその個人を取り巻く環境の方にこそ、病原や病巣があることが示唆されていた。これは山田太一作品において、その度合いの差はあっても、殆どの物語に共有されていたようだ。私自身、山田太一さんの手になる脚本のドラマは、相当に視聴した自負があるのだが、今回の訃報に接し、改めて調べてみるとまだ未体験の作品を発見した。今後に追悼番組のような形で放送される機会があれば、必ず未知の物語に出会えるチャンスを忘れないことにしておく。

 今回、山田太一さんが亡くなられたニュースに触れたのは、インターネットを介してであったが、その瞬間、真っ先に思い出したドラマの印象的なシーンがあった。それは渡哲也さんが主演した作品で3話完結の物語だ。「風になれ、鳥になれ」というタイトルで、ヘリコプター会社が舞台なのだが、登場人物全てが心に傷を持っている。
 
 この2話目のラストシーンがとても美しかった。地方都市の片田舎の風景なのだが、確か稲刈りを終えた広い田園だった気がする。そこはヘリコプターが余裕で離着陸できるほどの広場と化していた。その広場で子供向けのイベントが開催されており、可愛い動物の着ぐるみ姿の人間が人の輪の中心で踊っている。その様子を数百メートルほど離れた武家屋敷のような邸宅の窓から、そっと見守る中高年夫婦がおり、彼らは踊っている縫いぐるみに優しい視線を注ぎなから「あの子がよく見える」と言葉を洩らす。
 
 実は縫いぐるみを着ているのは、この夫婦の娘である。そして彼ら親子には確執と断絶があり、娘は保守的で封建的な地域社会や家庭環境に反抗して、都会へ飛び出してしまったのだ。それでも時間が解決するように、具体的なコミュニケーションが不在ではあっても、以心伝心で親子の心は許し合える和解に近づいている。
 
 この娘が実家の近所のイベントに出演する事実を、両親はヘリコプター会社のスタッフから告げられて、親子が再会できる可能性を知らされるのだが、両親は今はまだその時期ではないと答える。そしてそれは娘も同じ気持ちなのであろう。とはいえ、すぐ手の届く距離ではなくとも、視野に入っている人々が小さな点の集積であるのとは違い、自分達の娘は色鮮やかに映える可愛いらしいリスのようなキャラクターの縫いぐるみに身を包み、1人で踊りながら喜びを全身で表現している。

 この物語に限らず、山田太一作品は家族が主題になっているものが多い。どの作品も心に残る名作揃いである。今回使用した画像は「ふぞろいの林檎たち」の脚本の書籍だが、このドラマは主人公たちが私自身と同世代だったせいか、彼らの成長と共に学生編から社会人編へとドラマがシリーズ化していく過程で、全編を漏れなくリアルタイムで視聴させて頂いた。そしてこのドラマは、1980年代以降の日本社会の歴史的変遷も良く理解できる秀作である。

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