アンドレイ・タルコフスキーは映像の詩人と評された映画監督である。旧ソ連の出身で幼少期に第二次世界大戦に遭遇しており、長編一作目の「僕の村は戦場だった」には戦時下における鮮烈な記憶が焼き付けられている。処女作は学生時代に制作した1960年の短編「ローラとヴァイオリン」だが、この作品はニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞。学生が制作した映画とは到底思えない類い稀な個性の光る作品だ。特に水の表現が素晴らしく、この処女作以降、タルコフスキー監督は没年の1986年に発表された遺作「サクリファイス」まで心血を注いで映画を創り続けるわけだが、研ぎ澄まされた水の映像美は終始一貫しており、彼の映像世界の大きな特徴の一つである。世におくり出した映画は、ドキュメンタリーや旧ソ連政府の検閲を受けてお蔵入りしたものを除くと計8作品。今回紹介する「惑星ソラリス」はその4作目にあたる。前作「アンドレイ・ルブリョフ」が中世ロシアを時代背景とした骨太な史劇であったのとは対照的に未来世界を描いたSFだ。原作はポーランド出身で世界的にも著名なSF作家スタニスワフ・レム。
この映画について暫し語る前に、まず私自身が映画と出会える時代に生きていることの幸運と幸福に感謝したい。そしてこの「惑星ソラリス」こそ、私自身が体験した数多くの忘れられない映画の中のベスト1だと断言できる。公開当初はスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」とよく比較されたらしい。SF映画という分野において「2001年宇宙の旅」は抜群に高い評価を得た作品だ。理由はSF界の巨匠アーサー・C・クラークがキューブリック監督と共同で脚本を執筆したことと、この映画が当時の最先端の映像技術を実現したことによる。そしてさらに特筆すべきは先鋭的な文明批評であろう。その象徴的シーンは、人類の祖たる類人猿が他者を殺害する為に使う動物の骨を宙に放り投げたと同時に、回転するその白い骨が大宇宙に浮かぶ宇宙ステーションへと切り換わる瞬間だ。類人猿はモノリスという謎の石板の影響を受けて道具を使用する技術を習得したように描写されている。このモノリスは人間にあって他の動物には無いもの、つまり高度にシステム化された教育の隠喩のように思われる。ちなみに「2001年宇宙の旅」は1968年公開だが、「惑星ソラリス」は1972年公開である。
タルコフスキー監督が映画を制作し始めた時期は、米ソ冷戦の雪解けの時代にあたる。ソ連の独裁者スターリンの死後に後継者の最高指導者フルシチョフが、スターリン批判を行い西欧諸国へ和解の意思表明をした頃で、政治的には依然対立関係は継続していたものの文化交流が盛んになった。この為、それまで鑑賞することのできなかった芸術作品と接する機会も増え、特に表現の自由を制限されていたソ連国内の若い芸術家にとっては旺盛な創造意欲が触発されたはずである。また文化的側面での米ソの国家的ライバル意識も強まった為に、「惑星ソラリス」が「2001年宇宙の旅」の完成度を必ず凌駕するようにと、タルコフスキー監督はソ連政府からの圧力も受けていたことが容易に想像できる。つまりソ連の映画は戦前の日本の国策映画のように、政府の管理と統制下に置かれていたわけである。にも拘わらず、この映画は西欧のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。これは皮肉なことに、規制の殆どない自由な環境で芸術表現をした方が、質の高い作品が必ずしもつくれるわけではないということを立証している。しかも興味深いのは、発表当時の評価が真っ二つに割れていたことだ。まず原作者のレムがタルコフスキーに嚙みついた。これは私の原作を殆ど無視したもので、タルコフスキーがつくったのはドストエフスキーの小説「罪と罰」であったと。またソ連政府も制作段階から疑念を抱いていたはずである。こんな難解そうで静的かつ退屈にも感じる映画が果たしてキューブリックの「2001年宇宙の旅」に勝てるかのと。国家のメンツや威信を重んじる政府関係者からすれば当然だろう。しかしタルコフスキーの映画を鑑賞すればわかることだが、その詩的な映像世界はあまりにも超然とした境地に達しており、他の作品と出来不出来を競ったりするのは無意味であることを否応なく悟らされる。しかし優れた芸術作品とは本来そういうものではないのか。そもそも創作行為が勝敗を決する競争のようなものであれば、最早そこには芸術的な創造の動機や価値すら存在しないだろう。
ではそろそろ物語に入っていきたい。人類が宇宙の彼方に存在する謎の惑星ソラリスに手を伸ばし始めた未来。主人公の心理学者クリス・ケルヴィンはソラリスを観測する宇宙ステーションが地球と通信が途絶えたことを機にその遠い星へ派遣されることになった。冒頭のシーンでは穏やかな川の流れに身を任せている水草のゆらめきが映しだされている。何か懐かしさを誘う地球の風景。ある意味、太古から変わらない水生植物のゆらゆらとした静かな動きはこの映画の全編に漂う雰囲気を象徴しているのかもしれない。宇宙へ旅立つ前にクリスは、ソラリスでの調査経験がある老いた宇宙飛行士にアドバイスを受けるのだが、ここでの二人の会話は意義深い。宇宙飛行士はソラリスという長い年月をかけて調査を続けても一向に謎が謎のままである事実に謙虚であるのに対し、クリスは人の心をモノとして分析する科学者としての冷徹さを垣間見せる。宇宙飛行士は道徳性が無ければ目的を達成しても正しいことではないと説くのだが、クリスは人類史上初の原子爆弾が戦争で投下されたヒロシマのように道徳性は無くても目的が達せられた例はあると答える。この二人の違いとは、ソラリスに遭遇したものとそうではないものとの差であり、そこから二人の人間性にずれが生じている。そして物語が進行するにつれ、クリスの心の変化を鑑賞者は如実に感じとることができるのだ。
ソラリスは水の惑星である。殆ど陸地が無く、プラズマ状の海に覆われており、地球のような個別の多種多様な生命体は存在せず、いわば惑星自体が一つの生命体のようなものなのだ。そして地球上における万物の霊長たる人間よりも優れた知性や能力をもっている。しかも驚くべきことにソラリスという星を覆う広大な海は、そこへ接近して来た人間の心の中が読めるのだ。それも心のもっとも奥深く、当人が忘れてしまった過去、あるいは忘れてしまいたいような過去さえをも感知してしまう。そしてさらに驚嘆すべきは、その心に刻まれた記憶や思考を実体化することができるということだ。クリスが到着した宇宙ステーションの内部には、技術革新を突き進み文明を発展させてきた人類がソラリスという未知の存在を前にして降参してしまったような荒廃した趣きがあった。先に赴任してクリスを待っていた科学者達、サルトリウスとスナウトはすっかり疲弊し憔悴しきっており、クリスと親交のあったギバリアンは自殺してヴィデオレターを残してくれていた状態だった。ヴィデオ映像の中でクリスに語りかけてくるギバリアンは、自分に想像もつかないことが起きてしまったという短い独白をしているのだが、これを見終わった後にクリスにも異変が起きる。信じられないことに、自殺した妻のハリーとこの宇宙の果てで再会することになるのだ。クリスは気が動転し、有り得ないことだと半ば発作的に、面影も声も仕草も妻そのものではあっても妻ではないその別人を無理矢理ロケットに乗せて宇宙空間へと発射させ追放してしまう。しかしその後、悪夢から逃げるように眠ったクリスが目を覚ました時、妻ハリーは彼のすぐそばで何事もなかったかのように彼をじっと見守っていた。
クリスは観念しハリーの生前と同じように夫婦の会話をはじめるのだが、決定的な違和感を覚える。それはハリーの記憶が曖昧だからであった。そこが本物のハリーとの違いである。この死別した妻ハリーの蘇りこそソラリスの海の仕業であり、その巨大な脳のようなソラリスの海がクリスの心を解読し、その心に潜む大切な存在を具現化し彼の前に送り届けたに過ぎない。だから普通の生命体とは異質で、怪我をしても傷は治療を要することなく瞬時に復元されていく。クリスは当惑しながらも科学者の冷静さを保とうとするが、徐々に果たすべき公的任務等はどうでもよくなり、望郷の念に流されて夫婦の家族的な日常生活のみに生きがいを見出そうとする。これに対し、サルトリウスとスナウトは当然の如く懸念を示す。ソラリスの調査研究を進捗させる為に加わった新たな助っ人が仕事を放棄したような状態になってしまったからだ。サルトリウスはクリスへの批判からハリーへの人体実験を提案したりもするが、クリスは当然拒否する。最早クリスにとって、今のハリーは魔法が生み出したような妻の精巧な似姿でも、かけがえのない妻本人であることに変わりはない。
この深淵な物語にはクリスの心の変化がその基底にある。ソラリスへ赴く前のクリスは科学技術によってシステム構築された人間社会に疑問を持たないタイプだったが、亡き妻の復活という奇跡に直面し、失われていた良心を取り戻す。ソラリスが実体化したハリーは、そんなクリスから過去の事実を切々と聞き出していく。そして妻の自殺がクリスの過失であったことを知らされる。クリスの家庭は、子供のいない夫婦と夫の両親という四人家族であることが録画されたヴィデオにより確認できる。そこでは妻は夫の両親との仲があまり上手くいっていないようだ。そしてクリスは優柔不断に妻ハリーと親のどちらにも良い顔をしていたが、ある日ある時の些細な夫婦喧嘩が致命傷になってしまう。ハリーは傷ついて家を出てしまうのだが、クリスは後を追おうとはしなかった。駆けつけた時には、既にハリーは服毒自殺を遂げ冷たくなっていた。誰しも人生において経験することだが、大切な人を亡くしてしまった後で、私たちは自身の至らなさを嘆き後悔する。しかしそれでも残りの人生を歩んでゆくしかない。当然そこから立ち上がり強くなる必要性にも迫られるのだが、その過程で無神経に故人を置き捨てにしてはいないだろうか。心の痛みもいつかは時間が解決してくれようが、喪失感を忘れてしまうことは果たして本当に正しいことなのか。恐らくタルコフスキーはレムの原作に描かれたソラリスという高邁な知的生命体に、癒しや赦しを与える慈悲深いキリスト教の神の側面を顕現させているのだ。初期の「僕の村は戦場だった」以降、彼の作品には人類の救済という重大なテーマが色濃く表れてくる。特にそれに取り組んだ彼なりの答えが率直に出ているのが、この「惑星ソラリス」ではないか。現代に起こり得る核戦争を批判した遺作の「サクリファイス」にもそれは顕著なのだが、「惑星ソラリス」の方が様々な思案を巡らせつつも一つの結論に行き着いた観がある。それは人類が文明を加速度的に暴走させずに救済される為には、自己抑制が必要だということだ。奇しくも主人公クリスより先にソラリスに赴いたスナウトが述べた言葉が実に的を得ている。「人間の心の問題が解決されなければ科学の進歩など意味がない」と。この台詞はタルコフスキーの切なる肉声であろう。地球上を制覇した後にそれに飽き足らず、今度は宇宙の彼方まで触手を伸ばし未知の存在に挑もうとする人類だが、結局は人の心の内面の問題を解決しない限り救いは来ないのだ。無限の成長など有り得ないし、それを追求する姿は愚かしくもある。例えば遥かな昔、古代帝国の皇帝が不老不死の妙薬を求めて地の果てまでもそれを探し求めたように。
クリスの人生の過去を知っていくにつれ、ソラリスが生み出したハリーの心は痛みはじめる。なぜならこのハリーは、クリスの良心を礎にして発生したのであり、自分自身が本当の自殺したハリーとは違う不死の存在であること、いわば人間ではないことの事実に耐えられなくなってきたからだ。そしてそれは夫クリスへの愛があればこそである。クリスもそのようなハリーの有様が哀れでならない。やがてクリスが白昼夢にまどろむように高熱で魘され意識を失いつつある時、このハリーはスナウトとサルトリウスの提案を受け入れる決意をする。それはクリスの脳波をソラリスの海へ照射し伝える新しい試みでクリス自身にとっては望まない試行錯誤であったが、実行に移されてしまう。結果、ソラリスの海には新しい現象が生まれる。海に島が現れはじめるのだ。そしてクリスの記憶の中の悲しい事実を理解し受容したように、ソラリスが出現させたハリーは最初から何処にも誰もいなかったかのように突然消滅してしまうのだった。ハリーはクリスへ置き手紙を残しており、そこには、「……こうするしかなかった。私が望んだことです。これで良かったのです。誰のことも恨まないでください」と書かれていた。
「惑星ソラリス」はどこまでも内向宇宙的で、その他多くのSFが外向宇宙的なのとは対照的である。そして鑑賞すればするほど解釈も深まっていく作品だ。私が最初にこの映画を見たのは十九歳の時で、テレビ放映された日本語版だが、編集や声優の方々の熱意も伝わってくる良質な作品であった。またオリジナルを縮尺している為、地球での場面がかなり割愛されてはいるが、却ってそれがレムの原作小説に近い内容として纏まっている。ただ腰を据えてじっくりと味わうのなら、オリジナル完全版の鑑賞をお薦めしたい。そこにはゆったりとした静謐な時間感覚があり、なおかつ季節を感じさせる詩のように断片的で凛とした余韻を残す雰囲気もある。特に色調を抑えた透明感や、水や夢といったタルコフスキーに特有のモチーフによる演出は短縮版ではなく完全版で鑑賞したほうがより堪能できるだろう。また目に映る色彩だけではなく、耳でとらえられる音の表現も秀逸なことこの上ない。テーマ音楽のバッハの「コラール前奏曲(BWV639)」は主人公が良心の呵責を感じるシーンでも繰り返し挿入されており、揺れ動く魂を優しく浄化するかのような旋律を奏でるパイプオルガンの音色が心に響く。私はこの映画でバッハの音楽の崇高さを知った。また特筆すべきはそのような音楽の分野だけではなく、タルコフスキーの美術への造詣の深さだ。画面構成が絵画的なアプローチで組み立てられており、風景には空気遠近法を用いた東洋の山水画の影響が、そして人物には中世からルネサンス期以降の宗教色の強い西洋絵画からの影響を感じる。宇宙ステーションの窓から差し込む黄昏の光を背に浴びながら、座って静止したまま登場する復活したハリーの姿にはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ・リザ」の神秘性が潜んでいるし、ラストで地球に帰ったクリスが年老いた父親の前で跪くポーズは、レンブラント作「放蕩息子の帰還」に瓜二つだ。「モナ・リザ」も「放蕩息子の帰還」も偉大な画家が終生をかけた入魂の一作であることはほぼ間違い無い。と同時に二つの絵画空間には、この映画監督が追求し続けた人類の救済という主題が見え隠れしている。この二枚の名画に関し語るのは、別の機会に譲らせていただくとして、アンドレイ・タルコフスキーはどうしてそのような主題で映画を創り続けたのかを最後に暫し考えてみたい。
恐らくこれは第二次世界大戦を経験したことがその大きな理由だろう。当時の彼は少年であったが、膨大な戦死者をだし国土を焼かれた大規模な戦争は黙示録的な破滅の光景ではなかったか。やがて終戦を迎えるが、敗戦国の日本やドイツとは違い戦勝国のソ連は冷戦期に入り超大国へと発展していく過程で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、中南米で軍事介入を続けることになる。そしてソ連国内はロシア革命時に掲げた共産主義の理想とは程遠い圧制を敷いた秘密警察が暗躍する全体主義社会へと変質してしまう。要するにソ連という国家は国内外において強大な力による問題解決を優先していたわけである。これは皮肉なことに、もう一方の超大国アメリカ合衆国も大差なかった。自国内では自由と民主主義を標榜している分、国外ではソ連よりも露骨な軍事介入が行われた。それは朝鮮戦争とヴェトナム戦争で大量に米軍を投入したことからも明らかだ。タルコフスキーは表現の自由を政府から束縛された状況下においても、完全主義を貫き強靭な意志を持ち続けた映画監督である。それゆえ、純粋な少年期に戦時体験から沸き起こった正直な気持ちを裏切ることはできなかったのではないか。これは彼の制作した映画から読み解くしかないのだが、そこには、あれだけの惨劇を起こしていながら、なぜ人類は反省しないのか?あるいは、なぜこんな世界になってしまったのか?なぜ私たちはこんな世界に生きているのか?そのような絶望感が彷徨っている。このなぜという疑問に対し、良心の快復した主人公クリスが述べる「……恥だ。それこそが人類を救う感情なのだ」という言葉は、ある意味その解答であるように感じられる。シンプルに言うならば彼の言う恥とは、自制できないことに対する恥ずかしさである。その恥の意識を持たないとどんなに文明が高度に発達しても遠からず人類は滅亡に向かうしかないということだ。これはキリスト教徒であるタルコフスキーの視点からすると、いつもどこかで神様は見ておられる、だから道徳にそぐわない恥ずかしい行動などできない。そして人は生かされている自然環境を大切にし、他者に対して融和的な姿勢をとる必要がある。そういうことではないのか。
タルコフスキーにしか創造できない映像の中の寡黙な自然の情景描写には、絶望とは紙一重とも云える希望の風が優しく頬を撫でるようにして吹いている。川の流れや蝋燭の炎の揺らめきもそうだ。まるで私たち人間に対し、その愚かさからの更生を促す神の働きかけのようにして。まさに神の気配を感じる風景である。当然、そこには神への敬虔な信仰心が窺えるのだが、人類の歴史において地上の権力が神の存在を狡猾に利用してきたこともまた十全に踏まえている。そうした不浄さを濾過した純度の濃い宗教性が滲み出ているからだ。そこがタルコフスキーなればこそである。実際、前作の「アンドレイ・ルブリョフ」ではロシアの大地を侵略する異民族タタールの暴虐と共に、そのタタール支配下で腐敗するロシア正教会の姿もリアルに描かれていた。さらに付け加えるならば、20世紀のソ連において共産主義イデオロギーが、中世ロシアのキリスト教のように国家権力に利用されている様を合わせ鏡のようにして巧妙に告発している。
そして「惑星ソラリス」の映画化を巡ってタルコフスキーと対立した原作者のレムも、そのような権力に対する不信感や批判精神を十二分に持っていた。それゆえレムの原作小説「ソラリスの陽のもとに」が下敷きでなければこの映画は質の高い芸術作品として完成しなかったはずなのだ。私の場合、映画を鑑賞してから小説を読んだ為に、明確な違和感は何も感じなかった。むしろ物語の本筋は小説も映画もほぼ一致しているという感想を述べるしかない。ただ、はっきりしているのはレムもタルコフスキーも現代社会や人類の文明、その未来に対し大変な危惧や心配を抱いており、私たち人類が深刻で重篤な病に罹っているとするならば、その処方箋をレムは科学の進歩における良識を踏まえた軌道修正に見出しており、一方タルコフスキーは宗教という遠い過去のヴィジョンからの警鐘に見出していると云える。レムが映画に激怒してしまったのは、宗教に対し殆ど期待できない認識を持っているからだろう。なぜなら歴史上、宗教ほど権力に悪用されたものはないからだ。しかしそれは、釈迦にしてもキリストにしてもムハンマドにしても正しい教えを奉じているからこそであり、その教えは万民の心に平安を与えるし、苦難に満ちた人生におけるささやかな希望でもあり続けてきた。ところが野望を隠し万民を支配する者にとって、その教えを借用し自己正当化のアレンジを施せば、忽ち神仏を味方につけることができる為、これほど都合の良い装置はない。タルコフスキーはロシア正教の影響下にある地域で育った人だが、自らのアイデンティティであるキリスト教の正教の父権的厳格さより、旧教であるカトリックの母性的な癒しや優しさの側面に親近感を覚えていたようだ。特にこの映画のヒロインのハリーには心優しい聖母マリアのイメージがくっきりと重なっている。キリスト教における正教の歴史を紐解くと、古代ローマ帝国の国家宗教の時代があり、この古代史上最大規模の帝国は、東西に分裂後も東ローマ帝国が皇帝の地位を神格化する為にそのシステムを受け継いだ。さらには中世以降、中部や東ヨーロッパにおいても、ギリシャ正教、セルヴィア正教、そしてロシア正教といった形で継承されていく。特にロシア帝国は版図も広く古代ローマ帝国の帝政スタイルを再構築したもので、ロシア正教が皇帝の権力とセットになった統治システムであった。多分タルコフスキーが国家権力と癒着したロシア正教の姿に懐疑的であったのは、正教そのものに批判的なのではなく正教も旧教も新教も含めたキリスト教全般における宗教的純粋性や普遍性を尊重していたからであろう。
映画「惑星ソラリス」は、先に述べたように川の水面に揺蕩う水草の映像から物語がゆっくりと進行していくわけだが、この映像はオマージュとして日本の黒澤明監督が制作した映画「夢」のラストシーンでも表現されている。そこで映し出されているのは、寺尾聡の演じる主人公が見た八つ目の夢の中で、その主人公が水車のある村から橋を渡って去って行った後の静かな風景だ。ゆるやかな川の流れに身を任せている水草は、同じ田舎でもロシアと日本という違いこそあれ、「惑星ソラリス」の世界と共有できるものである。水車のある村で生活する住民は、科学技術を拒み自然と共生する人々であり、私にはこの人々がタルコフスキーがライフワークとして取り組んだ救済されるべき人類の一員であるように感じた。そして黒澤明は故タルコフスキーへの敬意と哀悼を込めてこの「夢」という映画を世におくり出したように思える。
この映画について暫し語る前に、まず私自身が映画と出会える時代に生きていることの幸運と幸福に感謝したい。そしてこの「惑星ソラリス」こそ、私自身が体験した数多くの忘れられない映画の中のベスト1だと断言できる。公開当初はスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」とよく比較されたらしい。SF映画という分野において「2001年宇宙の旅」は抜群に高い評価を得た作品だ。理由はSF界の巨匠アーサー・C・クラークがキューブリック監督と共同で脚本を執筆したことと、この映画が当時の最先端の映像技術を実現したことによる。そしてさらに特筆すべきは先鋭的な文明批評であろう。その象徴的シーンは、人類の祖たる類人猿が他者を殺害する為に使う動物の骨を宙に放り投げたと同時に、回転するその白い骨が大宇宙に浮かぶ宇宙ステーションへと切り換わる瞬間だ。類人猿はモノリスという謎の石板の影響を受けて道具を使用する技術を習得したように描写されている。このモノリスは人間にあって他の動物には無いもの、つまり高度にシステム化された教育の隠喩のように思われる。ちなみに「2001年宇宙の旅」は1968年公開だが、「惑星ソラリス」は1972年公開である。
タルコフスキー監督が映画を制作し始めた時期は、米ソ冷戦の雪解けの時代にあたる。ソ連の独裁者スターリンの死後に後継者の最高指導者フルシチョフが、スターリン批判を行い西欧諸国へ和解の意思表明をした頃で、政治的には依然対立関係は継続していたものの文化交流が盛んになった。この為、それまで鑑賞することのできなかった芸術作品と接する機会も増え、特に表現の自由を制限されていたソ連国内の若い芸術家にとっては旺盛な創造意欲が触発されたはずである。また文化的側面での米ソの国家的ライバル意識も強まった為に、「惑星ソラリス」が「2001年宇宙の旅」の完成度を必ず凌駕するようにと、タルコフスキー監督はソ連政府からの圧力も受けていたことが容易に想像できる。つまりソ連の映画は戦前の日本の国策映画のように、政府の管理と統制下に置かれていたわけである。にも拘わらず、この映画は西欧のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞。これは皮肉なことに、規制の殆どない自由な環境で芸術表現をした方が、質の高い作品が必ずしもつくれるわけではないということを立証している。しかも興味深いのは、発表当時の評価が真っ二つに割れていたことだ。まず原作者のレムがタルコフスキーに嚙みついた。これは私の原作を殆ど無視したもので、タルコフスキーがつくったのはドストエフスキーの小説「罪と罰」であったと。またソ連政府も制作段階から疑念を抱いていたはずである。こんな難解そうで静的かつ退屈にも感じる映画が果たしてキューブリックの「2001年宇宙の旅」に勝てるかのと。国家のメンツや威信を重んじる政府関係者からすれば当然だろう。しかしタルコフスキーの映画を鑑賞すればわかることだが、その詩的な映像世界はあまりにも超然とした境地に達しており、他の作品と出来不出来を競ったりするのは無意味であることを否応なく悟らされる。しかし優れた芸術作品とは本来そういうものではないのか。そもそも創作行為が勝敗を決する競争のようなものであれば、最早そこには芸術的な創造の動機や価値すら存在しないだろう。
ではそろそろ物語に入っていきたい。人類が宇宙の彼方に存在する謎の惑星ソラリスに手を伸ばし始めた未来。主人公の心理学者クリス・ケルヴィンはソラリスを観測する宇宙ステーションが地球と通信が途絶えたことを機にその遠い星へ派遣されることになった。冒頭のシーンでは穏やかな川の流れに身を任せている水草のゆらめきが映しだされている。何か懐かしさを誘う地球の風景。ある意味、太古から変わらない水生植物のゆらゆらとした静かな動きはこの映画の全編に漂う雰囲気を象徴しているのかもしれない。宇宙へ旅立つ前にクリスは、ソラリスでの調査経験がある老いた宇宙飛行士にアドバイスを受けるのだが、ここでの二人の会話は意義深い。宇宙飛行士はソラリスという長い年月をかけて調査を続けても一向に謎が謎のままである事実に謙虚であるのに対し、クリスは人の心をモノとして分析する科学者としての冷徹さを垣間見せる。宇宙飛行士は道徳性が無ければ目的を達成しても正しいことではないと説くのだが、クリスは人類史上初の原子爆弾が戦争で投下されたヒロシマのように道徳性は無くても目的が達せられた例はあると答える。この二人の違いとは、ソラリスに遭遇したものとそうではないものとの差であり、そこから二人の人間性にずれが生じている。そして物語が進行するにつれ、クリスの心の変化を鑑賞者は如実に感じとることができるのだ。
ソラリスは水の惑星である。殆ど陸地が無く、プラズマ状の海に覆われており、地球のような個別の多種多様な生命体は存在せず、いわば惑星自体が一つの生命体のようなものなのだ。そして地球上における万物の霊長たる人間よりも優れた知性や能力をもっている。しかも驚くべきことにソラリスという星を覆う広大な海は、そこへ接近して来た人間の心の中が読めるのだ。それも心のもっとも奥深く、当人が忘れてしまった過去、あるいは忘れてしまいたいような過去さえをも感知してしまう。そしてさらに驚嘆すべきは、その心に刻まれた記憶や思考を実体化することができるということだ。クリスが到着した宇宙ステーションの内部には、技術革新を突き進み文明を発展させてきた人類がソラリスという未知の存在を前にして降参してしまったような荒廃した趣きがあった。先に赴任してクリスを待っていた科学者達、サルトリウスとスナウトはすっかり疲弊し憔悴しきっており、クリスと親交のあったギバリアンは自殺してヴィデオレターを残してくれていた状態だった。ヴィデオ映像の中でクリスに語りかけてくるギバリアンは、自分に想像もつかないことが起きてしまったという短い独白をしているのだが、これを見終わった後にクリスにも異変が起きる。信じられないことに、自殺した妻のハリーとこの宇宙の果てで再会することになるのだ。クリスは気が動転し、有り得ないことだと半ば発作的に、面影も声も仕草も妻そのものではあっても妻ではないその別人を無理矢理ロケットに乗せて宇宙空間へと発射させ追放してしまう。しかしその後、悪夢から逃げるように眠ったクリスが目を覚ました時、妻ハリーは彼のすぐそばで何事もなかったかのように彼をじっと見守っていた。
クリスは観念しハリーの生前と同じように夫婦の会話をはじめるのだが、決定的な違和感を覚える。それはハリーの記憶が曖昧だからであった。そこが本物のハリーとの違いである。この死別した妻ハリーの蘇りこそソラリスの海の仕業であり、その巨大な脳のようなソラリスの海がクリスの心を解読し、その心に潜む大切な存在を具現化し彼の前に送り届けたに過ぎない。だから普通の生命体とは異質で、怪我をしても傷は治療を要することなく瞬時に復元されていく。クリスは当惑しながらも科学者の冷静さを保とうとするが、徐々に果たすべき公的任務等はどうでもよくなり、望郷の念に流されて夫婦の家族的な日常生活のみに生きがいを見出そうとする。これに対し、サルトリウスとスナウトは当然の如く懸念を示す。ソラリスの調査研究を進捗させる為に加わった新たな助っ人が仕事を放棄したような状態になってしまったからだ。サルトリウスはクリスへの批判からハリーへの人体実験を提案したりもするが、クリスは当然拒否する。最早クリスにとって、今のハリーは魔法が生み出したような妻の精巧な似姿でも、かけがえのない妻本人であることに変わりはない。
この深淵な物語にはクリスの心の変化がその基底にある。ソラリスへ赴く前のクリスは科学技術によってシステム構築された人間社会に疑問を持たないタイプだったが、亡き妻の復活という奇跡に直面し、失われていた良心を取り戻す。ソラリスが実体化したハリーは、そんなクリスから過去の事実を切々と聞き出していく。そして妻の自殺がクリスの過失であったことを知らされる。クリスの家庭は、子供のいない夫婦と夫の両親という四人家族であることが録画されたヴィデオにより確認できる。そこでは妻は夫の両親との仲があまり上手くいっていないようだ。そしてクリスは優柔不断に妻ハリーと親のどちらにも良い顔をしていたが、ある日ある時の些細な夫婦喧嘩が致命傷になってしまう。ハリーは傷ついて家を出てしまうのだが、クリスは後を追おうとはしなかった。駆けつけた時には、既にハリーは服毒自殺を遂げ冷たくなっていた。誰しも人生において経験することだが、大切な人を亡くしてしまった後で、私たちは自身の至らなさを嘆き後悔する。しかしそれでも残りの人生を歩んでゆくしかない。当然そこから立ち上がり強くなる必要性にも迫られるのだが、その過程で無神経に故人を置き捨てにしてはいないだろうか。心の痛みもいつかは時間が解決してくれようが、喪失感を忘れてしまうことは果たして本当に正しいことなのか。恐らくタルコフスキーはレムの原作に描かれたソラリスという高邁な知的生命体に、癒しや赦しを与える慈悲深いキリスト教の神の側面を顕現させているのだ。初期の「僕の村は戦場だった」以降、彼の作品には人類の救済という重大なテーマが色濃く表れてくる。特にそれに取り組んだ彼なりの答えが率直に出ているのが、この「惑星ソラリス」ではないか。現代に起こり得る核戦争を批判した遺作の「サクリファイス」にもそれは顕著なのだが、「惑星ソラリス」の方が様々な思案を巡らせつつも一つの結論に行き着いた観がある。それは人類が文明を加速度的に暴走させずに救済される為には、自己抑制が必要だということだ。奇しくも主人公クリスより先にソラリスに赴いたスナウトが述べた言葉が実に的を得ている。「人間の心の問題が解決されなければ科学の進歩など意味がない」と。この台詞はタルコフスキーの切なる肉声であろう。地球上を制覇した後にそれに飽き足らず、今度は宇宙の彼方まで触手を伸ばし未知の存在に挑もうとする人類だが、結局は人の心の内面の問題を解決しない限り救いは来ないのだ。無限の成長など有り得ないし、それを追求する姿は愚かしくもある。例えば遥かな昔、古代帝国の皇帝が不老不死の妙薬を求めて地の果てまでもそれを探し求めたように。
クリスの人生の過去を知っていくにつれ、ソラリスが生み出したハリーの心は痛みはじめる。なぜならこのハリーは、クリスの良心を礎にして発生したのであり、自分自身が本当の自殺したハリーとは違う不死の存在であること、いわば人間ではないことの事実に耐えられなくなってきたからだ。そしてそれは夫クリスへの愛があればこそである。クリスもそのようなハリーの有様が哀れでならない。やがてクリスが白昼夢にまどろむように高熱で魘され意識を失いつつある時、このハリーはスナウトとサルトリウスの提案を受け入れる決意をする。それはクリスの脳波をソラリスの海へ照射し伝える新しい試みでクリス自身にとっては望まない試行錯誤であったが、実行に移されてしまう。結果、ソラリスの海には新しい現象が生まれる。海に島が現れはじめるのだ。そしてクリスの記憶の中の悲しい事実を理解し受容したように、ソラリスが出現させたハリーは最初から何処にも誰もいなかったかのように突然消滅してしまうのだった。ハリーはクリスへ置き手紙を残しており、そこには、「……こうするしかなかった。私が望んだことです。これで良かったのです。誰のことも恨まないでください」と書かれていた。
「惑星ソラリス」はどこまでも内向宇宙的で、その他多くのSFが外向宇宙的なのとは対照的である。そして鑑賞すればするほど解釈も深まっていく作品だ。私が最初にこの映画を見たのは十九歳の時で、テレビ放映された日本語版だが、編集や声優の方々の熱意も伝わってくる良質な作品であった。またオリジナルを縮尺している為、地球での場面がかなり割愛されてはいるが、却ってそれがレムの原作小説に近い内容として纏まっている。ただ腰を据えてじっくりと味わうのなら、オリジナル完全版の鑑賞をお薦めしたい。そこにはゆったりとした静謐な時間感覚があり、なおかつ季節を感じさせる詩のように断片的で凛とした余韻を残す雰囲気もある。特に色調を抑えた透明感や、水や夢といったタルコフスキーに特有のモチーフによる演出は短縮版ではなく完全版で鑑賞したほうがより堪能できるだろう。また目に映る色彩だけではなく、耳でとらえられる音の表現も秀逸なことこの上ない。テーマ音楽のバッハの「コラール前奏曲(BWV639)」は主人公が良心の呵責を感じるシーンでも繰り返し挿入されており、揺れ動く魂を優しく浄化するかのような旋律を奏でるパイプオルガンの音色が心に響く。私はこの映画でバッハの音楽の崇高さを知った。また特筆すべきはそのような音楽の分野だけではなく、タルコフスキーの美術への造詣の深さだ。画面構成が絵画的なアプローチで組み立てられており、風景には空気遠近法を用いた東洋の山水画の影響が、そして人物には中世からルネサンス期以降の宗教色の強い西洋絵画からの影響を感じる。宇宙ステーションの窓から差し込む黄昏の光を背に浴びながら、座って静止したまま登場する復活したハリーの姿にはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「モナ・リザ」の神秘性が潜んでいるし、ラストで地球に帰ったクリスが年老いた父親の前で跪くポーズは、レンブラント作「放蕩息子の帰還」に瓜二つだ。「モナ・リザ」も「放蕩息子の帰還」も偉大な画家が終生をかけた入魂の一作であることはほぼ間違い無い。と同時に二つの絵画空間には、この映画監督が追求し続けた人類の救済という主題が見え隠れしている。この二枚の名画に関し語るのは、別の機会に譲らせていただくとして、アンドレイ・タルコフスキーはどうしてそのような主題で映画を創り続けたのかを最後に暫し考えてみたい。
恐らくこれは第二次世界大戦を経験したことがその大きな理由だろう。当時の彼は少年であったが、膨大な戦死者をだし国土を焼かれた大規模な戦争は黙示録的な破滅の光景ではなかったか。やがて終戦を迎えるが、敗戦国の日本やドイツとは違い戦勝国のソ連は冷戦期に入り超大国へと発展していく過程で、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、中南米で軍事介入を続けることになる。そしてソ連国内はロシア革命時に掲げた共産主義の理想とは程遠い圧制を敷いた秘密警察が暗躍する全体主義社会へと変質してしまう。要するにソ連という国家は国内外において強大な力による問題解決を優先していたわけである。これは皮肉なことに、もう一方の超大国アメリカ合衆国も大差なかった。自国内では自由と民主主義を標榜している分、国外ではソ連よりも露骨な軍事介入が行われた。それは朝鮮戦争とヴェトナム戦争で大量に米軍を投入したことからも明らかだ。タルコフスキーは表現の自由を政府から束縛された状況下においても、完全主義を貫き強靭な意志を持ち続けた映画監督である。それゆえ、純粋な少年期に戦時体験から沸き起こった正直な気持ちを裏切ることはできなかったのではないか。これは彼の制作した映画から読み解くしかないのだが、そこには、あれだけの惨劇を起こしていながら、なぜ人類は反省しないのか?あるいは、なぜこんな世界になってしまったのか?なぜ私たちはこんな世界に生きているのか?そのような絶望感が彷徨っている。このなぜという疑問に対し、良心の快復した主人公クリスが述べる「……恥だ。それこそが人類を救う感情なのだ」という言葉は、ある意味その解答であるように感じられる。シンプルに言うならば彼の言う恥とは、自制できないことに対する恥ずかしさである。その恥の意識を持たないとどんなに文明が高度に発達しても遠からず人類は滅亡に向かうしかないということだ。これはキリスト教徒であるタルコフスキーの視点からすると、いつもどこかで神様は見ておられる、だから道徳にそぐわない恥ずかしい行動などできない。そして人は生かされている自然環境を大切にし、他者に対して融和的な姿勢をとる必要がある。そういうことではないのか。
タルコフスキーにしか創造できない映像の中の寡黙な自然の情景描写には、絶望とは紙一重とも云える希望の風が優しく頬を撫でるようにして吹いている。川の流れや蝋燭の炎の揺らめきもそうだ。まるで私たち人間に対し、その愚かさからの更生を促す神の働きかけのようにして。まさに神の気配を感じる風景である。当然、そこには神への敬虔な信仰心が窺えるのだが、人類の歴史において地上の権力が神の存在を狡猾に利用してきたこともまた十全に踏まえている。そうした不浄さを濾過した純度の濃い宗教性が滲み出ているからだ。そこがタルコフスキーなればこそである。実際、前作の「アンドレイ・ルブリョフ」ではロシアの大地を侵略する異民族タタールの暴虐と共に、そのタタール支配下で腐敗するロシア正教会の姿もリアルに描かれていた。さらに付け加えるならば、20世紀のソ連において共産主義イデオロギーが、中世ロシアのキリスト教のように国家権力に利用されている様を合わせ鏡のようにして巧妙に告発している。
そして「惑星ソラリス」の映画化を巡ってタルコフスキーと対立した原作者のレムも、そのような権力に対する不信感や批判精神を十二分に持っていた。それゆえレムの原作小説「ソラリスの陽のもとに」が下敷きでなければこの映画は質の高い芸術作品として完成しなかったはずなのだ。私の場合、映画を鑑賞してから小説を読んだ為に、明確な違和感は何も感じなかった。むしろ物語の本筋は小説も映画もほぼ一致しているという感想を述べるしかない。ただ、はっきりしているのはレムもタルコフスキーも現代社会や人類の文明、その未来に対し大変な危惧や心配を抱いており、私たち人類が深刻で重篤な病に罹っているとするならば、その処方箋をレムは科学の進歩における良識を踏まえた軌道修正に見出しており、一方タルコフスキーは宗教という遠い過去のヴィジョンからの警鐘に見出していると云える。レムが映画に激怒してしまったのは、宗教に対し殆ど期待できない認識を持っているからだろう。なぜなら歴史上、宗教ほど権力に悪用されたものはないからだ。しかしそれは、釈迦にしてもキリストにしてもムハンマドにしても正しい教えを奉じているからこそであり、その教えは万民の心に平安を与えるし、苦難に満ちた人生におけるささやかな希望でもあり続けてきた。ところが野望を隠し万民を支配する者にとって、その教えを借用し自己正当化のアレンジを施せば、忽ち神仏を味方につけることができる為、これほど都合の良い装置はない。タルコフスキーはロシア正教の影響下にある地域で育った人だが、自らのアイデンティティであるキリスト教の正教の父権的厳格さより、旧教であるカトリックの母性的な癒しや優しさの側面に親近感を覚えていたようだ。特にこの映画のヒロインのハリーには心優しい聖母マリアのイメージがくっきりと重なっている。キリスト教における正教の歴史を紐解くと、古代ローマ帝国の国家宗教の時代があり、この古代史上最大規模の帝国は、東西に分裂後も東ローマ帝国が皇帝の地位を神格化する為にそのシステムを受け継いだ。さらには中世以降、中部や東ヨーロッパにおいても、ギリシャ正教、セルヴィア正教、そしてロシア正教といった形で継承されていく。特にロシア帝国は版図も広く古代ローマ帝国の帝政スタイルを再構築したもので、ロシア正教が皇帝の権力とセットになった統治システムであった。多分タルコフスキーが国家権力と癒着したロシア正教の姿に懐疑的であったのは、正教そのものに批判的なのではなく正教も旧教も新教も含めたキリスト教全般における宗教的純粋性や普遍性を尊重していたからであろう。
映画「惑星ソラリス」は、先に述べたように川の水面に揺蕩う水草の映像から物語がゆっくりと進行していくわけだが、この映像はオマージュとして日本の黒澤明監督が制作した映画「夢」のラストシーンでも表現されている。そこで映し出されているのは、寺尾聡の演じる主人公が見た八つ目の夢の中で、その主人公が水車のある村から橋を渡って去って行った後の静かな風景だ。ゆるやかな川の流れに身を任せている水草は、同じ田舎でもロシアと日本という違いこそあれ、「惑星ソラリス」の世界と共有できるものである。水車のある村で生活する住民は、科学技術を拒み自然と共生する人々であり、私にはこの人々がタルコフスキーがライフワークとして取り組んだ救済されるべき人類の一員であるように感じた。そして黒澤明は故タルコフスキーへの敬意と哀悼を込めてこの「夢」という映画を世におくり出したように思える。
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