国宝の百済観音像は、奈良の世界遺産である法隆寺が所蔵しているが、先週のニュースで、最新鋭の反射が非常に少ない輸入ガラス製の新しいケースの中に安置されていることを知った。以下のアドレスはその紹介記事である。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61525690V10C20A7AC1000/
私はこの百済観音像には、幾度となく出会っているのだが、心身が弱り疲れている時に対面すると、有り難いことに自然と気持ちが楽になり元気を頂ける。元々人型の立体作品というのは直に鑑賞者へ語りかけてくるような親和性を有しており、この像の場合、特筆すべきは人体のリアルさよりも、その精神性が際立っている点であろう。またそれは主題の素晴らしさからくるものであり、一言で言い表すならばその主題とは母性である。そして百済観音像は、古今東西の優れた芸術作品において、母性が主題として選ばれているものが意外に多いことを再認識させてくれる。
ではなぜ、歴史上の芸術家の多くが、母性を表現しようとしてきたのか。これは母なるものへの素朴な憧憬もあろうが、無論それだけではない。そこには作り手の抱く母なるイメージの立脚点からさらに高く飛翔した、ある種の願いを感じずにはおれないからだ。この百済観音像の場合、仏教における宗教観から推し量るならば、それは全ての生命を尊重する優しい慈愛の光である。
私が初めてこの像の前に立った時、真っ先に感じたのは、予想を覆すその像の大きさであった。そして彫像という立体物でありながら、揺らめく炎のように幻想的で、固体の具象性よりも気体の抽象性の印象が強い。そこには日本列島から朝鮮半島や中国大陸を含めた東アジア的な感性とはどこか違う、南アジアのインド的な異文化の雰囲気が漂っている。そのような日本とは遠く離れた未知で不可思議な存在感が悠然と立ち現れてくるのだ。尤も仏教の発祥地はそもそもインドであり、実はこの像こそが、釈迦の本音や真実の声を知っているはずである。
百済観音像は、日本が江戸時代の近世に入るまでは、驚くべきことにその存在自体が公には確認されていなかった。そして近世から近代の明治までは、虚空菩薩像と呼ばれていた。考えてみれば、この呼び名の方が百済という固有名詞が無い分、仏教の色合いは濃い。そして制作年代が飛鳥時代の7世紀前半あたりだと推定可能ではあっても、どこでつくられて、日本にはいつ頃やってきたのかは全くもって不明である。この辺りは推測するしかないのだが、恐らく現インドの天竺で制作されたものが、中国の南朝に渡り、そこから朝鮮半島の百済を経由して、日本列島に辿り着いたように思われる。
その頃、東アジアでは南北朝時代の中国で隋が北朝の北周を打倒し吸収した後、南朝の陳を滅ぼして中国大陸を統一し、今度はその隋を滅ぼした唐によって百済が滅亡している。百済という国が歴史から姿を消すのが7世紀後半であったことを考えると、天竺から日本という果てしなく遠い道程をこの像は比較的短い時間で移動したことになる。誠にご苦労さんである。
以前にこのブログでも聖徳太子を紹介させて頂いたが、彼が晩年において仏教の慈悲心を政治に生かそうと尽力した話を書いた。この像を聖徳太子が法隆寺で見た可能性は、彼の生没年を考慮すると有り得ないが、彼の死後その影響力が社会全般に及びだした時代に、この百済観音像は日本の土を踏んだように思われてならない。そして公にはその存在が明らかではなくとも、民衆がこの像を拝する機会は少なからずあったのではないか。
百済観音像の高さは2メートルを優に越えており、鑑賞者の殆どはこの像を見上げることになるのだが、輝きを表現したような宝珠型の光背も含めたその全容からは、高圧的な威厳は全く感じられない。むしろ痩身で少し猫背気味の姿勢と、水瓶を持った左手が弱々しく、台座の上で直立していながら、表情も毅然とはせずにどこか可憐で優し気だ。そして鑑賞者へ向けて差し出された右掌が実に謎めいており、像の背後の光背との関係から、この掌の上には見えない霊的な光、魂が浮遊しているような印象さえ受ける。ここまでじっくりと観察すると像全体が静止した生命体に変化したような錯覚に陥るといっても決して大袈裟ではない。特にその掌はこの世で亡くなった生命全てを包摂し慰撫するかのようだ。この像に慈悲深い優しさを感じずにおれないのは、その唯一無二の表情と掌である。鑑賞者がそこから導かれるのは、自然に芽生える謙虚な自己肯定感のようなものだ。幸せはいつか必ずやって来る、だからあなたは、あるがままのあなたで良い、それで良いのだ、という呼びかけである。ゆえにこの像は、人を鼓舞し無理をさせてまで、頑張らせようとするものではない。
この百済観音像に限らず、母性を主題とした芸術作品には、幸福への希求や願いが感じられる。私たちが生きている世界には、貧困や飢餓、疫病、戦争といった幸福とは程遠い状態が歴然と存在しているが、それはこの像を制作した作者が生きた古代インドも同様であったように思う。無論、芸術には世界を大きく変える現実的な力が希薄ではあるにせよ、人間の精神にささやかな慰めを与えることはできる。幸せが消えない、傷つくことのない場所。この像はそんな場所をきっと知っているのだ。だから、私たちはこの像を鑑賞するとほっとした安心感を得られる。そして幸せが消えない、傷つくことのない世界とは、弱者を見捨てずに助ける福祉の充実した、いわば母性を主体とした社会であろう。
そのような理想社会が到来することを願って、母なるイメージを絵にした代表的作品は、レオナルド・ダヴィンチが描いたモナリザである。次回はモナリザについて書いてみたい。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO61525690V10C20A7AC1000/
私はこの百済観音像には、幾度となく出会っているのだが、心身が弱り疲れている時に対面すると、有り難いことに自然と気持ちが楽になり元気を頂ける。元々人型の立体作品というのは直に鑑賞者へ語りかけてくるような親和性を有しており、この像の場合、特筆すべきは人体のリアルさよりも、その精神性が際立っている点であろう。またそれは主題の素晴らしさからくるものであり、一言で言い表すならばその主題とは母性である。そして百済観音像は、古今東西の優れた芸術作品において、母性が主題として選ばれているものが意外に多いことを再認識させてくれる。
ではなぜ、歴史上の芸術家の多くが、母性を表現しようとしてきたのか。これは母なるものへの素朴な憧憬もあろうが、無論それだけではない。そこには作り手の抱く母なるイメージの立脚点からさらに高く飛翔した、ある種の願いを感じずにはおれないからだ。この百済観音像の場合、仏教における宗教観から推し量るならば、それは全ての生命を尊重する優しい慈愛の光である。
私が初めてこの像の前に立った時、真っ先に感じたのは、予想を覆すその像の大きさであった。そして彫像という立体物でありながら、揺らめく炎のように幻想的で、固体の具象性よりも気体の抽象性の印象が強い。そこには日本列島から朝鮮半島や中国大陸を含めた東アジア的な感性とはどこか違う、南アジアのインド的な異文化の雰囲気が漂っている。そのような日本とは遠く離れた未知で不可思議な存在感が悠然と立ち現れてくるのだ。尤も仏教の発祥地はそもそもインドであり、実はこの像こそが、釈迦の本音や真実の声を知っているはずである。
百済観音像は、日本が江戸時代の近世に入るまでは、驚くべきことにその存在自体が公には確認されていなかった。そして近世から近代の明治までは、虚空菩薩像と呼ばれていた。考えてみれば、この呼び名の方が百済という固有名詞が無い分、仏教の色合いは濃い。そして制作年代が飛鳥時代の7世紀前半あたりだと推定可能ではあっても、どこでつくられて、日本にはいつ頃やってきたのかは全くもって不明である。この辺りは推測するしかないのだが、恐らく現インドの天竺で制作されたものが、中国の南朝に渡り、そこから朝鮮半島の百済を経由して、日本列島に辿り着いたように思われる。
その頃、東アジアでは南北朝時代の中国で隋が北朝の北周を打倒し吸収した後、南朝の陳を滅ぼして中国大陸を統一し、今度はその隋を滅ぼした唐によって百済が滅亡している。百済という国が歴史から姿を消すのが7世紀後半であったことを考えると、天竺から日本という果てしなく遠い道程をこの像は比較的短い時間で移動したことになる。誠にご苦労さんである。
以前にこのブログでも聖徳太子を紹介させて頂いたが、彼が晩年において仏教の慈悲心を政治に生かそうと尽力した話を書いた。この像を聖徳太子が法隆寺で見た可能性は、彼の生没年を考慮すると有り得ないが、彼の死後その影響力が社会全般に及びだした時代に、この百済観音像は日本の土を踏んだように思われてならない。そして公にはその存在が明らかではなくとも、民衆がこの像を拝する機会は少なからずあったのではないか。
百済観音像の高さは2メートルを優に越えており、鑑賞者の殆どはこの像を見上げることになるのだが、輝きを表現したような宝珠型の光背も含めたその全容からは、高圧的な威厳は全く感じられない。むしろ痩身で少し猫背気味の姿勢と、水瓶を持った左手が弱々しく、台座の上で直立していながら、表情も毅然とはせずにどこか可憐で優し気だ。そして鑑賞者へ向けて差し出された右掌が実に謎めいており、像の背後の光背との関係から、この掌の上には見えない霊的な光、魂が浮遊しているような印象さえ受ける。ここまでじっくりと観察すると像全体が静止した生命体に変化したような錯覚に陥るといっても決して大袈裟ではない。特にその掌はこの世で亡くなった生命全てを包摂し慰撫するかのようだ。この像に慈悲深い優しさを感じずにおれないのは、その唯一無二の表情と掌である。鑑賞者がそこから導かれるのは、自然に芽生える謙虚な自己肯定感のようなものだ。幸せはいつか必ずやって来る、だからあなたは、あるがままのあなたで良い、それで良いのだ、という呼びかけである。ゆえにこの像は、人を鼓舞し無理をさせてまで、頑張らせようとするものではない。
この百済観音像に限らず、母性を主題とした芸術作品には、幸福への希求や願いが感じられる。私たちが生きている世界には、貧困や飢餓、疫病、戦争といった幸福とは程遠い状態が歴然と存在しているが、それはこの像を制作した作者が生きた古代インドも同様であったように思う。無論、芸術には世界を大きく変える現実的な力が希薄ではあるにせよ、人間の精神にささやかな慰めを与えることはできる。幸せが消えない、傷つくことのない場所。この像はそんな場所をきっと知っているのだ。だから、私たちはこの像を鑑賞するとほっとした安心感を得られる。そして幸せが消えない、傷つくことのない世界とは、弱者を見捨てずに助ける福祉の充実した、いわば母性を主体とした社会であろう。
そのような理想社会が到来することを願って、母なるイメージを絵にした代表的作品は、レオナルド・ダヴィンチが描いたモナリザである。次回はモナリザについて書いてみたい。
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