今年も庭の紫陽花が綺麗に咲いた。毎年必ず梅雨には咲くのだが、色合いはいつも同じバリエーションだ。鮮やかな花びらの桃色や赤紫色と、葉や茎の地味で落ち着いた緑色との配色が絶妙なことこの上ない。特に晴れた日よりも、雨の日の水に濡れている姿により強い生命力を感じる。
日本文学には著名な作家が書いた「紫陽花」というタイトルの短編小説が2つ存在する。作者は泉鏡花と佐藤春夫で、この2人は明治と大正と昭和を生き抜いた巨匠クラスの作家という点では共通しているが、同世代ではなく泉鏡花が佐藤春夫よりも20年ほど年長だ。また作風もかなり違う。もしご興味がおありなら、青空文庫で検索すると簡単に全文をお読みになれる。しかも非常に短い物語なので、インターネット上の読書に要した時間を徒労に感じることもない。
このブログでは、特定の小説の概要を紹介し過ぎた観もあるので、今回の「紫陽花」の2つの小説に関しては、ほぼノータッチで済ましておきたい。そして短編ではあっても作家の個性や特徴がよく表れている為、読み応えは十分である。泉鏡花の方は怪奇趣味の幻想的な世界であり、佐藤春夫の方は日常的な人間模様だ。しかし佐藤春夫の「紫陽花」にも非日常的要素が顔を覗かせる瞬間があり、そこでは紫陽花という植物が象徴的に出現する。そしてその時、紫陽花には、登場人物たちの記憶に在る故人のイメージが投影されている。
実は私の家の庭に咲く紫陽花にも、今は亡き家族の一員のイメージが被さっている。彼女は愛猫で、21歳という長命を全うして7年ほど前に彼岸へと旅立った。しかも殆ど動物病院のお世話になることもなく、見事な健康長寿の大往生である。また20歳を超えた場合、動物病院を介して地方自治体に登録しておくと、光栄にも表彰していただける。猫の21歳は人間に換算するとほぼ100歳に相当するらしい。長い歳月を悠々と過ごしてきただけあって、誠に大らかな楽天主義者であった。そんな彼女が、この紫陽花の下で永遠の眠りについているわけだ。いわばこの紫陽花は墓石のようなものである。
紫陽花の咲く頃になると、当然のこと一緒に過ごしていたこの愛猫を思い出さずにはおれなくなるのだが、私は亡くなった両親から、バトンを手渡される形で彼女を受け継いでいた。そのせいか、やはりというか、私よりも私の両親への愛着の方が深かった。その辺りの事情は致し方ないことである。しかし、身内の私たちが親子の間柄なのを彼女は確りと認識し理解しており、それゆえ、私が風邪をひいて咳き込んだり、寝込んだりした時の反応には、人間以上の優しい配慮を感じたものだ。もちろん猫には手取り足取りして人を看病することなど不可能なわけだが、それでも懐いてくる彼女から計り知れないパワーを貰っていたように思う。
考えてみれば人間以外の生物は、実に優れた能力を持っている。天気予報よりもリアルタイムに天候の変化を察知するし、人の心の動きさえも読めてしまうかのようだ。たとえば私がうっかりして、彼女の好きなキャットフードを買い間違えて帰宅した時など、やはりこんな結果になったかとお見通しの表情をしたりする。それは予知能力なのか、人間の顔色や様子からその人の数時間後の行動を推測できるのか、はっきりとはわからない。しかしそんなこちらの失敗を見通した上で、家族の一員である人間の所業を寛大さや慈愛の心で許してくれているのだ。そこで感じるのは、人間よりも動物の方が神仏に近い高潔さを秘めているということだ。特に家族同様に人と生活を共にする動物たちの、疑うことを知らない前向きな信頼感は崇高なものである。
人と一緒に暮らす動物たちが、何故そこまで人を信じられるのか、それは自然界の過酷な状況とは異なり、日々の生活が保証されている有り難みもあるのかもしれないが、無論それが全てではない。最大の理由はやはり人が彼らに示す無償に近い愛情の深さゆえであろう。多分、動物たちもまた、私たち人間の中に神仏のような崇高さを見出しているのだ。恐らくそのような動物の視点は、地球における私たち人間の存在価値を、勇気づけるように肯定している。
現在のパンデミックの襲来は、歴史的にも未曾有の脅威であるわけだが、これは猛スピードで進化と発展を遂げてきた現代文明が、傍若無人の限りを尽くし大自然を破壊してきたツケが回ってきたようなものである。やはりこのパンデミックをお膳立てしたのは人類なのだ。つまり人間が生物の多様性を無神経に削除しながら、野生の生息域に侵入することで、未知でかつ強力なウィルスに感染する危険性が増えてしまった。そしてこうした何の躊躇いもなく自然破壊に猛進する人類の醜怪さには、先に述べた家族として暮らす動物たちが信じ切っている人間の美点は、その欠けらさえ無い。
コロナ禍が終息する気配はまだ不透明ではあるにせよ、このパンデミックを契機に、これまで万物の霊長のように地上を跋扈してきた人類は猛省すべきである。そして人間は文明を築くことで地球の環境を激変させてしまうほどの破天荒な力を有するがゆえに、今度は人間以外の全ての生物に対し、彼らの存在を最大限に尊重し、彼らに仕える姿勢で臨むべきではないか。それができれば、私たちの高度な文明も軌道修正をしながら、さらに進化及び発展へと向かいつつ、その上で自然との共生を十二分に果たしていくと思われる。
自然破壊の重大な指標としては、絶滅危惧種が有名だが、実はその半分以上は植物である。紫陽花は幸運にもそのリストには入っていないが、現代文明が暴走を続ければその先はわからない。紫陽花の立居姿からは子供が描く絵に特徴的な投足人間のような雰囲気さえ感じられる。そしてそんな頭でっかちの格好は、ミッキーマウスやスヌーピー、ミッフィー、ドラえもん、アンパンマン、キティちゃんといった万国共通の可愛い人気キャラクターにも通じる魅力があり、かく言う長寿を誇った私の愛猫にも似ていなくはない。
この紫陽花の下に愛猫が埋葬されてからというもの、紫陽花は健全な養分を吸収するようにして、それ以前よりも生命力が増したように思える。これは全ての生命がこのようにして連関し繋がっていることを意味する。彼女が和室の畳の上で、その長い一生を終えた時、それを全く予期していなかった私は残念なことに立ち会えなかった。まだまだ長寿が続くことを愚かしくも信じていたのだ。しかし帰宅してから私が発見した、時を止めたように静止した彼女の最期の表情は、この上なく優しい笑顔であった。恐らく私の両親と虹の橋を渡って再会したからであろう。
日本文学には著名な作家が書いた「紫陽花」というタイトルの短編小説が2つ存在する。作者は泉鏡花と佐藤春夫で、この2人は明治と大正と昭和を生き抜いた巨匠クラスの作家という点では共通しているが、同世代ではなく泉鏡花が佐藤春夫よりも20年ほど年長だ。また作風もかなり違う。もしご興味がおありなら、青空文庫で検索すると簡単に全文をお読みになれる。しかも非常に短い物語なので、インターネット上の読書に要した時間を徒労に感じることもない。
このブログでは、特定の小説の概要を紹介し過ぎた観もあるので、今回の「紫陽花」の2つの小説に関しては、ほぼノータッチで済ましておきたい。そして短編ではあっても作家の個性や特徴がよく表れている為、読み応えは十分である。泉鏡花の方は怪奇趣味の幻想的な世界であり、佐藤春夫の方は日常的な人間模様だ。しかし佐藤春夫の「紫陽花」にも非日常的要素が顔を覗かせる瞬間があり、そこでは紫陽花という植物が象徴的に出現する。そしてその時、紫陽花には、登場人物たちの記憶に在る故人のイメージが投影されている。
実は私の家の庭に咲く紫陽花にも、今は亡き家族の一員のイメージが被さっている。彼女は愛猫で、21歳という長命を全うして7年ほど前に彼岸へと旅立った。しかも殆ど動物病院のお世話になることもなく、見事な健康長寿の大往生である。また20歳を超えた場合、動物病院を介して地方自治体に登録しておくと、光栄にも表彰していただける。猫の21歳は人間に換算するとほぼ100歳に相当するらしい。長い歳月を悠々と過ごしてきただけあって、誠に大らかな楽天主義者であった。そんな彼女が、この紫陽花の下で永遠の眠りについているわけだ。いわばこの紫陽花は墓石のようなものである。
紫陽花の咲く頃になると、当然のこと一緒に過ごしていたこの愛猫を思い出さずにはおれなくなるのだが、私は亡くなった両親から、バトンを手渡される形で彼女を受け継いでいた。そのせいか、やはりというか、私よりも私の両親への愛着の方が深かった。その辺りの事情は致し方ないことである。しかし、身内の私たちが親子の間柄なのを彼女は確りと認識し理解しており、それゆえ、私が風邪をひいて咳き込んだり、寝込んだりした時の反応には、人間以上の優しい配慮を感じたものだ。もちろん猫には手取り足取りして人を看病することなど不可能なわけだが、それでも懐いてくる彼女から計り知れないパワーを貰っていたように思う。
考えてみれば人間以外の生物は、実に優れた能力を持っている。天気予報よりもリアルタイムに天候の変化を察知するし、人の心の動きさえも読めてしまうかのようだ。たとえば私がうっかりして、彼女の好きなキャットフードを買い間違えて帰宅した時など、やはりこんな結果になったかとお見通しの表情をしたりする。それは予知能力なのか、人間の顔色や様子からその人の数時間後の行動を推測できるのか、はっきりとはわからない。しかしそんなこちらの失敗を見通した上で、家族の一員である人間の所業を寛大さや慈愛の心で許してくれているのだ。そこで感じるのは、人間よりも動物の方が神仏に近い高潔さを秘めているということだ。特に家族同様に人と生活を共にする動物たちの、疑うことを知らない前向きな信頼感は崇高なものである。
人と一緒に暮らす動物たちが、何故そこまで人を信じられるのか、それは自然界の過酷な状況とは異なり、日々の生活が保証されている有り難みもあるのかもしれないが、無論それが全てではない。最大の理由はやはり人が彼らに示す無償に近い愛情の深さゆえであろう。多分、動物たちもまた、私たち人間の中に神仏のような崇高さを見出しているのだ。恐らくそのような動物の視点は、地球における私たち人間の存在価値を、勇気づけるように肯定している。
現在のパンデミックの襲来は、歴史的にも未曾有の脅威であるわけだが、これは猛スピードで進化と発展を遂げてきた現代文明が、傍若無人の限りを尽くし大自然を破壊してきたツケが回ってきたようなものである。やはりこのパンデミックをお膳立てしたのは人類なのだ。つまり人間が生物の多様性を無神経に削除しながら、野生の生息域に侵入することで、未知でかつ強力なウィルスに感染する危険性が増えてしまった。そしてこうした何の躊躇いもなく自然破壊に猛進する人類の醜怪さには、先に述べた家族として暮らす動物たちが信じ切っている人間の美点は、その欠けらさえ無い。
コロナ禍が終息する気配はまだ不透明ではあるにせよ、このパンデミックを契機に、これまで万物の霊長のように地上を跋扈してきた人類は猛省すべきである。そして人間は文明を築くことで地球の環境を激変させてしまうほどの破天荒な力を有するがゆえに、今度は人間以外の全ての生物に対し、彼らの存在を最大限に尊重し、彼らに仕える姿勢で臨むべきではないか。それができれば、私たちの高度な文明も軌道修正をしながら、さらに進化及び発展へと向かいつつ、その上で自然との共生を十二分に果たしていくと思われる。
自然破壊の重大な指標としては、絶滅危惧種が有名だが、実はその半分以上は植物である。紫陽花は幸運にもそのリストには入っていないが、現代文明が暴走を続ければその先はわからない。紫陽花の立居姿からは子供が描く絵に特徴的な投足人間のような雰囲気さえ感じられる。そしてそんな頭でっかちの格好は、ミッキーマウスやスヌーピー、ミッフィー、ドラえもん、アンパンマン、キティちゃんといった万国共通の可愛い人気キャラクターにも通じる魅力があり、かく言う長寿を誇った私の愛猫にも似ていなくはない。
この紫陽花の下に愛猫が埋葬されてからというもの、紫陽花は健全な養分を吸収するようにして、それ以前よりも生命力が増したように思える。これは全ての生命がこのようにして連関し繋がっていることを意味する。彼女が和室の畳の上で、その長い一生を終えた時、それを全く予期していなかった私は残念なことに立ち会えなかった。まだまだ長寿が続くことを愚かしくも信じていたのだ。しかし帰宅してから私が発見した、時を止めたように静止した彼女の最期の表情は、この上なく優しい笑顔であった。恐らく私の両親と虹の橋を渡って再会したからであろう。
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