奈良時代初期を生きた山上憶良が残した「貧窮問答歌」は、昨今の世相にも時空を超えて響く内容だ。この万葉集に収められた詩歌が現代にも相通じるということは、長い年月を経て文明が進歩しても、社会の根本的な問題の多くは解決されていないことを意味する。古代人の山上憶良が遠い未来を千里眼で見抜けていたかどうかは分からないが、当時の社会の現状を誠実に詩で書留めたのであり、恐らく彼の人間性を鑑みる限り、そうぜさるを得なかった。そしてそんな彼は古代律令制が機能している国家の官僚ではあっても、かなり問題意識の強い人物だ。
「貧窮問答歌」は、農民の生活の様子が長歌と短歌で構成された形式で表現されている。この長歌の部分で、かなりリアルに農民の暮らしぶりは伝わってくる。前半には厳寒の地で、冷たい雨に雪が混じって降る夜に、老いと病で心身共に疲れ果てたような男が、酒粕を溶いた湯を啜りながら、薄い衣を幾ら重ねて着ても、身も凍るような寒気から逃れる術はなく、そんな状況下、彼は自分よりもさらに貧しい人々のことに想いを致す。そして厳しい寒さだけではなく、酷い飢えにも遭遇しながらどうやって生きているのですか?と問いかけるのだ。
この前半部分で独白する男は、恐らく山上憶良が農民に憑依したような分身であろう。多分、奈良の都ではなく地方の下級役人であった頃の記憶を蘇らせているのではないか。そして後半では前半よりも貧困のどん底にいる人々が現れる。脆弱な竪穴式住居で暮らすその家族の悲惨極まりない生活描写は真に迫っており、ここでは作者の問題意識が如実に感じられる。地面に藁を敷いただけの狭い空間に、海藻のように裂けたボロボロの布を着た男と両親と妻子が、身を寄せ合い愚痴をこぼしながら固まって暮らしているのだ。釜には蜘蛛の巣が張っており、それは家族が食物を調達し、調理できないほど飢えた状態にあることを示す。これではその日その日を生きるのに精一杯どころではない。しかもそんな惨状をさらにエスカレートさせるが如く、鞭を手にした里長が、怒声を轟かせて税を早く収めろと恫喝してくる。里長とは公権力の僕であり、官が民を徴税という形で搾取する、その象徴として最後に登場してくるわけだ。
この里長の仕事は、まるでカラカラの空雑巾から無理矢理、もう殆ど無い水分をまだ搾り出そうとする愚行に等しい。まさに恐怖支配を背景にした重税という不条理であり、これこそが古今東西、なお続いている搾取の実態であろう。そしてこの長歌の末尾の部分で、私たち読者は過酷な納税義務を課された悲惨な家族に同情を抱かざるを得なくなる。またここで生まれたその同情心から、深い絶望感さえ湧き上がってくるはずだ。作者の山上憶良はきっとそのように読者の心が動くことを期待したと思われる。
ただ「貧窮問答歌」は、勿論この長歌で完結しているわけではない。長歌で発せられた問いかけに、短歌でこう答えて締めくくられている。こんな世界をつらいとも厭わしいとも思うが、鳥のように空へ飛び去って逃げることもできないと。この家族の悲嘆や絶望は深過ぎるが、逃げることはできないと彼らは諦観している。つまりこの家族の逃亡は不可能だが、搾取の酷い社会を決して肯定し受容しているわけではないのだ。ここで読者は痛感しつつ、絶望の世界を希望の世界へと変える意志を持つ。またそれは貧窮の極みにある人々の心に、翼を羽ばたかせて空を飛ぶ、自由の象徴のような鳥を、山上憶良が最終のキーワードに選んだことからも明白だ。彼は読者の心が動いて変化し、読者自身が社会を善処する方向に行動することを望んでいる。
万葉集は和歌の原点であり、旅や恋や死を主題として、自然を賛美しつつも歌い手の感情が社会の問題点と向き合ったものは少ない。その意味で山上憶良は非常に特異な存在だ。彼が古代人であっても、社会派の詩人だと評される所以である。では山上憶良はなぜ他の詩人たちとそのように一線を画していたのか。恐らくそれは、彼の生来の優しい人間性と40代の年齢で遣唐使になって中国大陸へ渡った経験が大きかったと思われる。
実は唐の詩人が詠んだ歌には、社会批判的なものも多い。これは唐の時代だけではなく、遠い昔から中国の漢詩は日本の和歌と比べると、如実に権威や権力に対する反骨心が感じられる。そして興味深いのは、山上憶良が滞在した時期の唐は、正確には国号が唐ではなく周と呼ばれていた時代であった。これは中国史上初の女帝の武則天が国号を唐から周に変えたからだ。しかも武則天が統治した時代は武周革命ともよばれ、賛否両論はあるにせよ、古代中国の律令制において、農民の反乱が殆どなく、また身分を問わない幅広い人材登用も実施されるという善政が敷かれていた。中国の歴史において武則天は、残酷な女傑で悪女という評価も下されているが、これは儒教の男尊女卑の倫理観が強く影響している。
多分、山上憶良は遣唐使として滞在した中国大陸において、儒教や仏教といった思想や宗教の最新形の理解を深めると同時に、それまでの約40年の人生では出会うことのなかった社会変革の気風を感じたのではないか。そして詩に詠まれた言葉の政治への影響力を確信したようにも思える。つまり文学で社会や世界を変えられるという信念を持つに至った。特にこの「貧窮問答歌」から想像できる情景は、私たちが生きる現代の戦争や内戦といった紛争地での悲惨な映像と衝撃的に重なるほどリアルだ。
つまり山上憶良は、彼の同時代の人々だけではなく、私たちを含めた遥か遠い未来の人々も読者として彼の視野に入れていた。またその未来世界が戦乱や搾取に蹂躙されているのなら、彼自身の言葉を読んでほしいと切に願っていたはずである。
「貧窮問答歌」は、農民の生活の様子が長歌と短歌で構成された形式で表現されている。この長歌の部分で、かなりリアルに農民の暮らしぶりは伝わってくる。前半には厳寒の地で、冷たい雨に雪が混じって降る夜に、老いと病で心身共に疲れ果てたような男が、酒粕を溶いた湯を啜りながら、薄い衣を幾ら重ねて着ても、身も凍るような寒気から逃れる術はなく、そんな状況下、彼は自分よりもさらに貧しい人々のことに想いを致す。そして厳しい寒さだけではなく、酷い飢えにも遭遇しながらどうやって生きているのですか?と問いかけるのだ。
この前半部分で独白する男は、恐らく山上憶良が農民に憑依したような分身であろう。多分、奈良の都ではなく地方の下級役人であった頃の記憶を蘇らせているのではないか。そして後半では前半よりも貧困のどん底にいる人々が現れる。脆弱な竪穴式住居で暮らすその家族の悲惨極まりない生活描写は真に迫っており、ここでは作者の問題意識が如実に感じられる。地面に藁を敷いただけの狭い空間に、海藻のように裂けたボロボロの布を着た男と両親と妻子が、身を寄せ合い愚痴をこぼしながら固まって暮らしているのだ。釜には蜘蛛の巣が張っており、それは家族が食物を調達し、調理できないほど飢えた状態にあることを示す。これではその日その日を生きるのに精一杯どころではない。しかもそんな惨状をさらにエスカレートさせるが如く、鞭を手にした里長が、怒声を轟かせて税を早く収めろと恫喝してくる。里長とは公権力の僕であり、官が民を徴税という形で搾取する、その象徴として最後に登場してくるわけだ。
この里長の仕事は、まるでカラカラの空雑巾から無理矢理、もう殆ど無い水分をまだ搾り出そうとする愚行に等しい。まさに恐怖支配を背景にした重税という不条理であり、これこそが古今東西、なお続いている搾取の実態であろう。そしてこの長歌の末尾の部分で、私たち読者は過酷な納税義務を課された悲惨な家族に同情を抱かざるを得なくなる。またここで生まれたその同情心から、深い絶望感さえ湧き上がってくるはずだ。作者の山上憶良はきっとそのように読者の心が動くことを期待したと思われる。
ただ「貧窮問答歌」は、勿論この長歌で完結しているわけではない。長歌で発せられた問いかけに、短歌でこう答えて締めくくられている。こんな世界をつらいとも厭わしいとも思うが、鳥のように空へ飛び去って逃げることもできないと。この家族の悲嘆や絶望は深過ぎるが、逃げることはできないと彼らは諦観している。つまりこの家族の逃亡は不可能だが、搾取の酷い社会を決して肯定し受容しているわけではないのだ。ここで読者は痛感しつつ、絶望の世界を希望の世界へと変える意志を持つ。またそれは貧窮の極みにある人々の心に、翼を羽ばたかせて空を飛ぶ、自由の象徴のような鳥を、山上憶良が最終のキーワードに選んだことからも明白だ。彼は読者の心が動いて変化し、読者自身が社会を善処する方向に行動することを望んでいる。
万葉集は和歌の原点であり、旅や恋や死を主題として、自然を賛美しつつも歌い手の感情が社会の問題点と向き合ったものは少ない。その意味で山上憶良は非常に特異な存在だ。彼が古代人であっても、社会派の詩人だと評される所以である。では山上憶良はなぜ他の詩人たちとそのように一線を画していたのか。恐らくそれは、彼の生来の優しい人間性と40代の年齢で遣唐使になって中国大陸へ渡った経験が大きかったと思われる。
実は唐の詩人が詠んだ歌には、社会批判的なものも多い。これは唐の時代だけではなく、遠い昔から中国の漢詩は日本の和歌と比べると、如実に権威や権力に対する反骨心が感じられる。そして興味深いのは、山上憶良が滞在した時期の唐は、正確には国号が唐ではなく周と呼ばれていた時代であった。これは中国史上初の女帝の武則天が国号を唐から周に変えたからだ。しかも武則天が統治した時代は武周革命ともよばれ、賛否両論はあるにせよ、古代中国の律令制において、農民の反乱が殆どなく、また身分を問わない幅広い人材登用も実施されるという善政が敷かれていた。中国の歴史において武則天は、残酷な女傑で悪女という評価も下されているが、これは儒教の男尊女卑の倫理観が強く影響している。
多分、山上憶良は遣唐使として滞在した中国大陸において、儒教や仏教といった思想や宗教の最新形の理解を深めると同時に、それまでの約40年の人生では出会うことのなかった社会変革の気風を感じたのではないか。そして詩に詠まれた言葉の政治への影響力を確信したようにも思える。つまり文学で社会や世界を変えられるという信念を持つに至った。特にこの「貧窮問答歌」から想像できる情景は、私たちが生きる現代の戦争や内戦といった紛争地での悲惨な映像と衝撃的に重なるほどリアルだ。
つまり山上憶良は、彼の同時代の人々だけではなく、私たちを含めた遥か遠い未来の人々も読者として彼の視野に入れていた。またその未来世界が戦乱や搾取に蹂躙されているのなら、彼自身の言葉を読んでほしいと切に願っていたはずである。
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