前回、今はもう存在しないロダンという京都のカフェの話をした。今回はそのカフェのご主人とイメージの近い人物を紹介したい。
あくまでも私個人の主観である。その人の名前もわからないし、現実にお会いしたこともない。ただ人となりというか雰囲気が微妙に似ているのだ。
私はその人を1970年代後半にテレビのドキュメンタリー番組で拝見している。それは東西冷戦の時代にベルリンの壁を取材した内容で、西ドイツに住む娘夫婦と孫に会う為に、東ドイツから年老いた父親が訪ねてくるという実話である。ここで驚いたのは当時の東ドイツ国民の65歳以上の年金生活者が、国境の厳重な壁を越えて西ドイツに訪問どころか移住さえも可能だったということ。
約30分ほどの番組であったが、家族の大切さが真摯に伝わってくるものであった。このドキュメンタリーの主役ともいえる老紳士は、番組の最後に娘夫婦や孫に別れを告げて西ドイツから東ドイツへと戻る。
娘がインタビューで「私はお父さんに西ドイツへ移住して来てほしいんだけど、お母さんのお墓がある東ドイツで人生を終えたいそうなの」というようなことを答えていた。
この老紳士は亡き妻の待つ隣国へ自らの意志で帰っていくのだが、戦争が無ければこの家族はそもそも分断されることはなかったわけである。
今でもその番組のラストの映像をかなり鮮明に思い出せる。質素なフェルトハットと地味なスーツという身なりで片手にアタッシュケースを持ち、要塞のように巨大で強固な壁に設置された橋をゆっくりとした足取りで歩く老いた後ろ姿が慎ましやかで渋い。白いキャンバスに淡い青を滲ませたような広大な空には東も西も関係がなく、無意味である。私はこの時、壁の存在が瞬間的に消えてしまったような錯覚を覚えた。そしてこの老紳士を迎える東ドイツの国境警備兵の表情も和やかであった。
一歩一歩前へ進む老紳士は、まさか約20年後に壁が崩壊するとは予想もしなかっただろう。しかしひょっとしたら、誰にも悟られることなく密やかに、壁が無くなることを心の何処かで確信していたかもしれない。
京都のカフェ・ロダンのご主人もこの東ドイツの老紳士のように奥様へ常に敬意を払っておられた。
あくまでも私個人の主観である。その人の名前もわからないし、現実にお会いしたこともない。ただ人となりというか雰囲気が微妙に似ているのだ。
私はその人を1970年代後半にテレビのドキュメンタリー番組で拝見している。それは東西冷戦の時代にベルリンの壁を取材した内容で、西ドイツに住む娘夫婦と孫に会う為に、東ドイツから年老いた父親が訪ねてくるという実話である。ここで驚いたのは当時の東ドイツ国民の65歳以上の年金生活者が、国境の厳重な壁を越えて西ドイツに訪問どころか移住さえも可能だったということ。
約30分ほどの番組であったが、家族の大切さが真摯に伝わってくるものであった。このドキュメンタリーの主役ともいえる老紳士は、番組の最後に娘夫婦や孫に別れを告げて西ドイツから東ドイツへと戻る。
娘がインタビューで「私はお父さんに西ドイツへ移住して来てほしいんだけど、お母さんのお墓がある東ドイツで人生を終えたいそうなの」というようなことを答えていた。
この老紳士は亡き妻の待つ隣国へ自らの意志で帰っていくのだが、戦争が無ければこの家族はそもそも分断されることはなかったわけである。
今でもその番組のラストの映像をかなり鮮明に思い出せる。質素なフェルトハットと地味なスーツという身なりで片手にアタッシュケースを持ち、要塞のように巨大で強固な壁に設置された橋をゆっくりとした足取りで歩く老いた後ろ姿が慎ましやかで渋い。白いキャンバスに淡い青を滲ませたような広大な空には東も西も関係がなく、無意味である。私はこの時、壁の存在が瞬間的に消えてしまったような錯覚を覚えた。そしてこの老紳士を迎える東ドイツの国境警備兵の表情も和やかであった。
一歩一歩前へ進む老紳士は、まさか約20年後に壁が崩壊するとは予想もしなかっただろう。しかしひょっとしたら、誰にも悟られることなく密やかに、壁が無くなることを心の何処かで確信していたかもしれない。
京都のカフェ・ロダンのご主人もこの東ドイツの老紳士のように奥様へ常に敬意を払っておられた。
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