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帯とけの三十六人撰
四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。
公任(きんとう)は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、太政大臣藤原兼家も道長も、藤原公任を詩歌の達人と認めていた。江戸の学者たちの国学とそれを継承した国文学の和歌の解釈は、公任の歌論を無視した。和歌は鎌倉時代に秘伝となって埋もれ木のようになっていたため、漏れ聞く「古今伝授」の歌の解釈やその方法は荒唐無稽に思えたのだろう。そして、字義どおりに歌を聞き、論理実証的に解釈した。解明された歌の内容は、明治時代に正岡子規よって「古今集はくだらぬ集に有之候」「無趣味」「駄洒落」「理屈っぽい」歌のみと罵倒されるまでもなく、味気も色気もない技巧だけがある歌に見える。「古今集」の歌を、「心深く、姿清げで、心におかしきところ」があるなどと思う人は誰もいなくなった。そして、国文学の合理的解釈方法に異を唱える近代人は誰もいないので、そのまま現代に至る。
清少納言や紫式部は、今の人々と同じように、和歌を聞いていたのだろうか、大いなる疑問である。江戸時代以来の学問的な訳と解釈方法(序詞・掛詞・縁語などの概念を含む)を棚上げして、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。
公忠 三首(二)
万代もなほこそあかね君がため 思ふ心のかぎりなければ
(万代であろうとも、ますます、飽きないぞ、君の為に、親が子を・思う心が限りはないので……万夜であろうとも、汝おこそ、飽きない、君の為に、もの・思う心が限りないので)
言の戯れと言の心
「代…世…夜」「なほ…なお…猶…汝お…そのおとこ…直…直立」「こそ…強調する意を表す…子ぞ」「あかね…飽かず…飽き飽きしない」「ね…ず…打消しの意を表す」「思ふ心…親が子を思う心…男のこの君が異性を思う心…言いかえれば、情欲・煩悩」
この歌は、拾遺和歌集 巻五 賀にある。詞書のよると「中納言敦忠が母の賀(長寿の祝い)をされたときに」公忠が詠んだ歌。敦忠の母は在原業平の孫娘である。
源公忠(みなもとのきんただ)は、光孝天皇の孫、延喜十三年、掃部助。その後、蔵人、修理権亮、太宰大弐となっている。和歌や管弦の上手として名声を得た。後の世の、新古今和歌集にも二首入集している。
歌は「清げな姿」があり「心におかしきところ」がある。ときには「深い心」がある。
近世以来、和歌は字義通り一義に読み取られ、それだけでは満たされないので、歌の心を、聞き手がそれぞれ憶測することが、解釈と思われ、且つ、歌の修辞法を、これとこれとは掛詞、また、縁語。ここまでは序詞などと指摘することで、和歌は解けたと思われてきたのである。ほんとうに解けたのだろうか。近世から今までの学問的解釈とその方法の根本を、微力ながら揺るがしているのである。
『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。
藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。
清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。
上のような歌論と言語観は、今では無視されるか、曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。