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帯とけの三十六人撰
四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。
藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。
源宗于 三首(一)
ときはなる松のみどりも春くれば 今ひとしほの色まさりける
(常盤なる松の緑も、春くれば、いま一染めのように、色彩増すことよ……常に変わらぬ女の若さも青春くれば、井間、ひと肢おの、色情まさることよ)
言の戯れと言の心
「松…長寿な木…待つ…女」「みどり…緑色…幼い…若い」「春…季節の春…青春…春情」「いま…今…すぐに…新たに…井間…おんな」「ひとしほ…一染め…いちだんと…人肢お…一おとこ」「色…色彩…色情」
源宗于(みなもとのむねゆき)は、光孝天皇の孫、宇多天皇の甥。紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京した承平四年(934)頃、宗于は、右京大夫(右京の行政、警察、司法を司る役所の長官)であった。
この歌は、寛平の御時(889~897)后の宮(宇多帝の皇后)の歌合で詠んだとして、古今和歌集春歌上にある。宗于の若いころの歌と思われる。姿清げで、心におかしきところがある。
松の言の心は女であると気付き心得るには、「まつ…待つ…女…松」というような連想もあるが、紀貫之は『土佐日記』で松の言の心を教示しているようである。まず正月九日、「宇多の松原を行き過ぎる、何千年経っているのだろう、根元毎に浪が打ち寄せて、枝毎に鶴が飛び交う。おもしろいと見て、船人の詠んだ歌、
見渡せば松のうれごとに住む鶴は 千代のどちとぞ思ふべらなる
この歌は、所を見る感動に優らない。と記す。歌よりも「松と鶴(鳥)は何千年も前から友だちだ」ということ、言の心はもとより同じだといいたいのだろう。
また、土佐日記二月十六日、我が家にたどり着いたが、五年ぶりに見る庭は荒れ、在った松の木もない。今生えたようなのが雑草に混じってある。この家で生まれた女の子を、土佐に赴任早々に病で亡くして、共に帰れなかったことがどれほど悲しいか、悲しさに堪えられず、詠んだ歌、
生まれしも帰らぬものをわが宿に 小松のあるを見るぞかなしき
この歌は心を知る夫婦の溜息のような歌であるが、「小松は少女」で「松は女」であることを明らかに示している。
『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。
藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。
清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。
上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。