帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 源宗于 (二)

2014-08-22 00:27:16 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 源宗于 三首(二)


 つれもなくなりゆく人の言の葉ぞ 秋よりさきの紅葉なりける

 (冷淡になりゆく女の言葉の端々よ、秋より先に、厭き色になったことよ……連れることなく成り逝く・我、女のこ門の端には、飽き満ち足りるより先の、厭き色だったのだなあ)


 言の戯れと言の心

 「つれもなく…冷淡に…すげなく…連れもなく…独りで」「ゆく…行く…逝く」「人…女」「こと…言…言葉…小門…おんな」「こ…小…接頭語」「と…門…おんな」「葉…言葉の端々…端…身の端」「ぞ…強調する意を表す…(ことの端が)主語であることを表す」「秋…飽き…厭き」「もみぢ…紅葉…飽き色…厭き色」「なりける…なりけり…であったのだなあ…断定し気付・詠嘆の意を表す」

 


 この歌は、古今和歌集 恋歌五にある。題しらずながら、恋の果ての歌である。女の冷淡な様子と、その原因・理由の男の様子が一つの言葉で言い表されてある。


 同じ恋歌五にある、よみ人しらず、女の立場で詠んだ歌を聞きましょう。


 しぐれつつもみづるよりも言の葉の 心の秋に逢ふぞわびしき

 (晩秋の雨降りつつ、紅葉となってゆくよりも、君の・言葉の心の秋に遭うぞ、わびしいことよ……その時のお雨ふりつつ、飽き色になりゆくよりも、わたしの・こ門の端が、君の・此処ろの厭きに遭うぞ、がっかり、興ざめよ)


 言の戯れと言の心

 「しぐれ…晩秋の降る雨…時雨…その時のおとこ雨」「もみづる…飽き・厭き色となる」「言の葉…(上の歌に同じ)」「心…情…此処ろ」「ろ…ら…接尾語…親愛の意を添える」「わびし…がっかり…気ぬけ…興ざめ…頼りない…やりきれない」

 


 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。