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帯とけの三十六人撰
四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。
藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。
敏行 三首(三)
心から花のしづくにそぼちつつ うくひすとのみ鳥の鳴くらむ
(心から梅花の雫に濡れながら、浮く泌すとばかり、鳥が鳴いているようだ……心から、おとこ花のしずくに戯れ・濡れながら、憂く干す・薄情よいや心が渇くとばかり、女が泣いているようだ)
言の戯れと言の心
「花…梅の花…木の花…男花…おとこ花」「しづく…雫…水滴…ほんの少し」「そぼち…そぼつ…しっとり濡れる…潤む…戯れる」「つつ…継続・反復の意を表す」「うくひす…鳥の名…名は戯れる。浮く泌す、憂く干す」「鳥…言の心は女」「鳴く…泣く」「らむ…推量する意を表す」
この歌は、古今和歌集 巻十 物名の巻頭に、「鶯」という題で、藤原敏行朝臣の歌としてある。この並びに、「梅」という題で、よみ人しらずの歌がある。女の歌として聞きましょう。
あなうめに常なるべくも見えぬかな こひしかるべき香はにほひつつ
(あゝ梅に、常にあるはずと思えないわ、恋しくなる香は匂いながら……あな埋めに、常盤だろうとは見えないわあ、乞いしくなる香は匂いつつも)
言の戯れと言の心
「あなうめ…ああ梅…ああ男花…穴埋め…穴ふさぎ…おとこ」「あな…阿那…ああ…感嘆詞…穴…おんな」「つねなる…常に有る…常盤である」「べく…可能性を推定する…できるだろう」「見えぬ…目に見えない…思えない…まぐあえない」「見…覯…媾…まぐあい」「こひし…恋し…乞いし」
両歌とも、言葉遊びは歌の「清げな姿」である。言の心を心得る大人には、歌の「心におかしきところ」が顕われる。
梅花は男花、鳥は女などという近代人の論理的思考を逆撫でするようなことを、認めなければならないので、厄介なことであるが、難波津の咲くやこの花の歌をはじめ、古事記などで多く梅や鳥と接して「心得る」べき事柄で、なぜ梅は男なのかという問いに答えはない。
『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。
以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。
紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。
藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。
清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。
藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。
上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。