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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」巻第二 春歌下(89)
亭子院歌合歌 貫之
さくら花ちりぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける
亭子院歌合の歌 つらゆき
(桜花、散ってしまった、散らした・春風の余波には、水なき空に、花びらの・白波が、立っていることよ……おとこ花散り、濡る、春情の風の余波には、をみななき・満つ無き、空しきところに、白浪が立つことよ・白々しい汝身ぞ絶つことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「さくら花…桜花…木の花…言の心は男…おとこ花…おとこ端」「ちりぬる…散ってしまった…散り濡る…果てて濡れる」「ぬる…ぬ…完了した意を表す…濡る…濡れる」「風…春風…春情の心風」「なごり…名残り…余波…余情…余りの情…残りの情」「水…みづ…言の心は女…満つ…満ち足りる」「なき…亡き・逝き…無き」「空…空虚…空しいところ」「浪…なみ…波…汝身…おとこ…並み…普通」「ぞ…(なみを)強く指示する意を表す」「たち…立ち…断ち…絶ち」「ける…けり…詠嘆を表す」。
春風に桜の白い花びらの散り舞う風情。――歌の清げな姿。
おとこ花散り、濡れる、山ばの激しい心風の余波には、をみな満つること無き、空虚な処に、並みの汝身が白々しく絶つ気色。――心におかしきところ。
亭子院歌合の歌。この歌は「延喜十三年亭子院歌合」にある。三十七番左歌、貫之の歌である。合わされた右歌三十八番は、同じ貫之の歌で、注あり「右勝つ。内の御歌、いかでかは負けむ、となむとのたまはせける」。通訳すれば「今上天皇の所蔵の御歌がどうして負けたのかなあと、その御父の亭子院が仰せになられた」。左歌は勅撰集である古今集の歌で、延喜五年に奏上されたのであるから今上の所有される御歌である。左歌が古今集の歌であることは誰でも知っていたのである。「歌よみ」は、題に適った歌を提供するだけで新作でなければならない定めはない。勝ち負けを決める「判者」は誰だったのだろうか、判者として信頼すべき藤原忠房はこの日「さぶらはず」とある。院はたいそう残念がっておられたという。
勝ちとなった右歌、貫之の歌を聞こう。
水底に春や来るらむみよしのの 吉野の川にかはづなくなり
(桜散って・水底にまで春が来たのだろうか、みよしのの吉野の川に、初夏の・蛙が鳴いているようだ……女の心の底に、春情は来たのだろうか、見・身好しのの、好しののをみなに、かはつ、泣いているようだ)。
「水・泣く虫(蛙)の言の心は女…川・つ(津)…おんな」「み…接頭語…身…見…覯…媾…まぐあい」「よし…吉…好し…快楽…喜び」「なく…鳴く…泣く」
この歌合は、内親王をはじめ女御、女房、女蔵人まで、女達による、女たちの為の歌合いで、女たちの共感出来る判定だろう。この歌の歌言葉の戯れに顕れるのは、女の妖艶な痴態である。負けた「なみぞたちける…並みぞ・汝身ぞ、絶ちける」歌は男の恥態。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)