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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な「歌の様(歌の表現様式)」をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (165)
蓮の露を見てよめる 僧正遍昭
はちす葉のにごりに染まぬ心もて なにかはつゆを珠とあざむく
蓮の露を見て詠んだと思われる・歌……をみなの端の白つゆを見て詠んだらしい・歌。 僧正遍昭
(蓮の葉が、泥池の・濁りに染まらない清い心を持っていて、どうして露を真珠と・見せて人を、欺くのか……八す女の端が、白濁に染まらない強い心を以て、どうしておとこ白つゆを真珠と自らを騙すか騙してはいない・白つゆのはかなさに泣いている)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「はちす葉…蓮の葉…水草の言の心は女…聖なる座…玉の台…玉のうてな…大切な人をお乗せするもの…八す端…多すの端」「八…多い…多情」「す…洲…巣…おんな」「は…葉…端…身の端…おんな」「心もて…心を持ちて…心を以て…心によって」「なにかは…どうしてか…疑問を表す…(白露を真珠に見せかけるのは)どうしてか…どうして(何々)か、そうではない…反語の意を表す…(どうして白露を真珠と自分を騙すか騙さない)」「つゆ…露…水玉…つゆ…汁…液…おとこ白つゆ」「たま…珠…真珠…白玉…宝玉」「あざむく…欺く…見せかける…騙す」。
蓮の葉が泥池の濁りに染まらない清い心を持っていて、どうして露を真珠に見せかけたりするのだろうか。――歌の清げな姿。
多情な女の端が、泥水に染まらない心を以て、どうしてはかないおとこ白つゆを真珠と自らを騙すか騙したりしない・白玉をすぐさまよこせと泣いている。――心におかしところ。
女も清い心だけを持っているのではない。それに、男どもよ、女の八すの端は、おとこ白つゆごときを真珠だと、自分を騙さない、満足できなくて、且つ乞うと永久に泣きつづける。――これがこの歌の、深き心だろうか。
(161)「ほととぎす声も聞こえず山彦は」より始まった空しいおとこ誇り(おとこ自慢)の歌の終了を締め括る歌に相応しい。
仮名序に僧正遍昭の歌についての批評がある。「僧正遍昭は、歌の様は得たれども、まこと少なし、たとえば、絵に描ける女を見て、いたづらに、心を動かすが如し」。これまで(27)(91)(119)(161)と見てきたが、他の人の多くの歌に比べると、「まこと少なし」という少ないものは、エロス(生の本能・性愛)であることは明らかだろう。
色好み歌の氾濫する中にあって、それに染まらない遍昭の歌を愛でる批評である。
国文学的解釈は、少ないのは、「真実味」「実意実情」とか「情」とか「誠実」と訳す。歌の「清げな姿」しか見えていないので、そのように訳すしかない。真実味が少ない歌とはどういうことなのか。仮名序は、遍昭の歌を貶めているのだろうか。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)