帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの九品和歌 下品上

2014-11-10 00:21:13 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 公任の歌論『新撰髄脳』に、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになる。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。

 


 「九品和歌」 下
品上


 わづかにひとふしあるなり。

(僅かに一節有るのである……取るに足りないが、一つ心にとまるところが有るのである)

 

吹くからに野辺の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ

 (吹くとすぐに、野辺の草木が、萎れ・枝折れるので、なるぼど、山風を、荒らし・嵐というのだろう……吹くとたちまち、延べの女と男が、しおれるので、なるほど、山ばで吹く心風を、嵐というのだろう)


 言の戯れと言の心

「からに…によって…とすぐに」「のべ…野辺…山ばではないところ…延べ…延長になっている…伸べ…身も心も伸びている」「草木…女と男」「草…言の心は女」「木…言の心は男」「しをる…萎る…肢折る…しょんぼりする…ぐったりする」「むべ…うべ…なるほど…もっともだ」「山…(ものごとの)山ば…頂上…のぼりつめたところ」「風…心に吹く風」「あらし…嵐…荒し…山風…山ばの心風」

 

歌の清げな姿は、野分(秋台風)吹く野辺の風景。

心におかしきところは、吹きだせばたちまち肢折れつられて萎れる、をとことをんなの山ばの気色。

古今和歌集 秋歌下にある。歌合の歌。深い心は無い。


 この歌に限らず、この作者の歌を、紀貫之は古今集仮名序で次のように批判する。「文屋康秀は、ことば巧みにて、そのさま身におはず。いはば商人のよき衣着たらむが如し(詞は巧みで清げな姿をしているが、中身に相応しくない。云わば商人が・身分不相応にも・人柄に不似合いな、良い衣着ているようなものだ)」。清げな姿
しか見えなければ、この批判は理解できない。

 

荒潮のみ津の潮合ひに焼く塩の からくも我は老いにけるかな

(荒潮の深津の潮合いで焼く塩のように、からくも・つらくも、わたしは老いてしまったことよ……荒肢おの、みつの、肢お合いに、身を・焼く肢おの、やっとのことに、わたしは感極まったなあ)


 言の戯れと言の心

「あらしほ…荒い潮の満ち引き・流れ…荒肢ほ…荒しお…元気はつらつのおとこ」「みつ…三津…御津…深津…難波の津…水…見つ」「津・水…言の心は女」「見…覯…媾…まぐあい」「しほあひ…潮合い…しお合い…肢お合い…まぐあい」「やく…焼く…藻塩を焼く…身を焼く…心を焼く」「からく…辛く…塩辛く…つらく…かろうじて…とうとう…やっと」「おい…老い…(年齢が)極まる…追い…(ものごとが)極まる…(感情が)極まる」「にけるかな…なってしまったことよ…詠嘆、感動の意を表す」

 

歌の清げな姿は、辛くも(つらいことに、とうとう)老いてしまった・詠嘆。

心におかしきところは、辛くも(やっと)感極まった・女の感動。

深い心はない。古今集 雑歌上、題しらず、よみ人しらず。女の歌と聞く。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。

◇一節あるという両歌は、今では清げな姿しか見えていない。和歌は一義な薄っぺらいものになってしまっては、節は見えない。貫之のいう「歌の様」を知らず「言の心」を心得ないからである。

◇「おい」という言葉を一義に決めつけようとした結果、近代人は、「伊勢物語」の初段の「おいづきていいやりける」という部分を、「追いつぎて言い遣った(すぐつづいて歌を遣った)」または「老いづきて言いやった(大人びて歌を遣った・老練ぶって歌を遣った)」という、二つの訳を一つに決めかねて悩む。

その場面をみれば、初冠(うひかうぶり…元服)したばかりの十三~十五歳の少年が、狩り(娶り)に行ったとき、春日の里で艶めいた姉妹を垣間見た。とってもはしたない様子だったので、少年は・心地惑うてしまった。着ていた狩衣の裾を切って、歌を書いてやる。「春日野のわかむらさきのすりころも、偲ぶのみだれ限り知られず」と、おいづきていいやりける(感極まってこんな歌を遣ったのだった)。
 「おい」の言の心を心得ていれば、一つの意味に決めつける必要も無く、歌と物語の複数の意味を、当時の人々と同じように享受することができる。


帯とけの九品和歌 中品下

2014-11-08 00:40:12 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌


 

公任の歌論『新撰髄脳』は、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言ふべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、貫之が古今集仮名序の結びにいう「歌のさまを知り、こと(言)の心を心得る人」であることが必要である。


 

 「九品和歌」 中品下


 すこし思ひたるところあるなり。

(少し思っているところが有るのである……詠み人は・少し思っていることが有るのである)


 きのふこそ早苗とりしかいつのまに 稲葉そよぎて秋風ぞ吹く

 (昨日よねえ、早苗採り・田植したのは、いつの間に、稲葉そよいで秋風が吹くの……木の夫だからよ、さ汝枝とい入れたわ、いつの間に、否端、揺らいで、飽き風吹かすのよ)


 言の戯れと言の心

「きのふ…昨日…ほんのこの前…木の夫…つよくかたいおとこ」「こそ…限定して指示・強調する意を表す」「こ…おとこ」「さなえ…早苗…さ汝枝」「さ…接頭語」「な…汝…親しみ込めその身の枝」「え…枝…身の枝…おとこ」「いなば…稲葉…否端…否という身の端」「そよぐ…揺らめく…よれよれになる」「秋風…飽き風…あきの心風」「秋…季節の秋…飽き…あきあき」「風…心に吹く風」

 

歌の清げな姿は、光陰矢の如し。

心におかしきところは、よみ人の女は、媾淫矢の如きおとこのはかないさがについて、すこし思うことがあるのである。

深き心はない。古今集 秋歌上、題しらず、よみ人しらず。

 

 

我を思ふ人を思はぬむくいにや 我がおもふ人の我を思はぬ

(我を思う人を思わない報いなのか、我れの思う人が我を思わない……俺に思いを寄せる女を愛おしく思ってやらなかった天の報復か、俺の思いを寄せる女が、俺を何とも思わないのは)


 言の戯れと言の心

「思ふ…心にかける…愛おしく思う」「人…異性…女」「むくい…報い…ある行為の結果として受ける事態…因果応報」

 

歌の清げな姿は、因果応報の自覚。

心におかしきところは、まわりくどく、失恋を自嘲するところ。

深い心は無い。古今集 雑体の誹諧歌、題しらず、よみ人しらず。誹諧歌は滑稽に誹謗する(嘲笑する、時には自嘲する)歌。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。

 

◇「我を思ふ人を…」の歌は、三十一文字の中に、「思」が四箇所、「我」が三個所、「人」と「ぬ」が各二箇所ある。これは歌の病(欠陥)である。承知しながらあえてそうするのは自虐。ここまでやれば諧謔となる。


◇このような歌には軽く次のように返すのだろう。古今集に並べられてある歌、「思ひけむ人をぞともに思はましまさしやむくいなかりけりやは(思いを寄せてくれた女と、相思相愛になればよかったのになあ、確かに・失恋の・報いはなかったかなあ、いや、確かに・おぬしは女に・報われないなあ)」。「むくい…報い…因果応報…果報…幸運」「やは…反語の意を表す」。


帯とけの九品和歌 中品中

2014-11-07 00:16:32 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 公任の歌論『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この歌論に基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」 中
品中


 すぐれたることもなく、わろきところもなくて、あるべきさまをしれるなり

 (優れたところも、悪いところもなくて、あるべき様を知ってはいるのである……優れたところも、良くないところも無くて、歌のあるべき表現様式を知ってはいるのである)


 春きぬと人はいへども鶯の 鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ

 (春が来たと人は言っても、春告げ鳥の・鶯が鳴かない限りは、春では・ありはしないだろうと思う……心に春の情がきた・身には張るものがきたと、女は言っても、浮くひすのように泣かないかぎりは、そうでは・ありはしないだろうと思う)


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…情の春…張るもの」「人…他人…人々…女」「鶯…春告げ鳥…鳥の言の心は女…うぐひす…鳥の名…名は戯れる。浮く泌す、憂く秘す」「鳴く…泣く」「じ…ないだろう…打消の推量の意を表す」


 歌の清げな姿は、季節の春についての感想。

心におかしきところは、性愛における女の春情について、男の感想。

古今集 春歌上にある。深い心は無い。歌の様(表現様式)は知っている人(壬生忠岑)の歌である。


 

いにし年ねこじてうへし我が宿の 若木の梅は花咲きにけり

 (去年、根から掘り起こし植えた我が家の、若木の梅は花咲いたことよ……去った疾し、根こじ入れて、うえつけた、わがや門の、若木のおとこ花咲いてしまったのねえ)


 言の戯れと言の心
 「年…とし…疾し…一瞬のこと」「根…おとこ」「こじて…掘り起こして…こじ入れて」「うえし…植えた…うえつけた」「宿…女…やと…屋と…や門…おんな」「梅…木の花…男花…おとこな花」

 

歌の清げな姿は、我が家に植えた若木の梅に花が咲いたという。普通の姿をしている。

心におかしきところは、はかないおとこのさがについての女の詠嘆。

深い心はない。拾遺和歌集 巻十六 雑春に、花見の歌や屏風絵の歌の群の中に置かれてある。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。


◇「春」という言葉を季節の春と決めつけ、この歌では、春情や張るという意味など、論理的にあり得ないとばかり排除してしまったとき、和歌は、貫之や公任とは異なる文脈に移し植えられている。「はるきぬと人はいえども」の歌は、姿以外なにも見えなくなった。


◇「梅の花」という言葉が、男花などという意味が有るなど、今の人々には夢にも思えないだろうが、平安時代、手習いの初めに習う歌は「難波津に咲くやこの花冬籠り」である。此の、木の花は梅の花で「皇太子」の比喩である。つまり、手習いの最初から梅の花は男花と教えられた。「わがやどの若木の梅は花咲きにけり」の「心におかしき」意味は大人なら自ずからわかるのである。


帯とけの九品和歌 中品上

2014-11-06 00:08:13 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 極楽浄土には、上品、中品、下品の三段階それぞれに上中下の三つの階級があるという。それに倣って、公任は自らの歌論に基づいて和歌を九品に仕分けたのである。


 公任の歌論『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。これに基づいて『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け、「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」 中
品上

 
 心ことばとゞこほらずしておもしろきなり

 (心、言葉が滞らず面白いのである……心、言葉淀みなく表現され、明白になる快感が有るのである)

 

たちとまり見てを渡らむもみぢ葉は 雨と降るとも水はまさらじ

(立ち止まり見物してから渡ろう、もみじ葉は雨となって降っても、川・水嵩は増さないだろう……立ち留まり・踏ん張って、見てだよ、つづけよう、飽き色の身の端はお雨となって降っても、をみなは、心地・増さらないだろう)


 言の戯れと言の心

「たちとまり…立ち止まり…立ち留まり…踏み留まり…頑張り」「たち…接頭語…起立」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「を…経過して…それから…感嘆詞」「わたる…(川を)渡る…しつづける…継続する」「もみぢ…紅葉・黄葉…秋の色…飽き色…厭き色」「雨…おとこ雨」「水…川…女…をみな」「まさらじ…(水嵩)増さないだろう…(心地)増さないだろう」

 

歌の「清げな姿」は、川岸の紅葉の景色。

「心におかしきところ」は、男のさがのはかなさを自覚して踏みとどまるところ。

屏風絵を見て詠んだ歌なので、深い心はない。

 

 

かの岡に草刈るおのこなはをなみ ねるやねりその砕けてぞ思ふ

 (彼の岡で草刈る男、縄が無いので、練るや練り麻が・切れて草束砕け心も・砕けてぞ思い悩む……あの低い山ばで、をみなめとるおのこ、汝はおとこ並み、練りいれたか・縒りかけたか、練り其が、砕けてぞもの思う)

 

言の戯れと言の心

「岡…低い山…低い山ば」「草…言の心は女」「かる…刈る…狩る…猟す…とる…めとる…まぐあう」「縄…綱…緒…おとこ」「なはをなみ…縄が無いので…汝はお並み…そのおとこ君普通」「ねるやねりそ…練るや練リ麻…鍛練したか撚りかけた麻のお」「くだけて…身を砕いて…心砕いて…身も心もくたくたになって」「思ふ…思い悩む…もの思う」

 

歌の「清げな姿」は、岡で草刈る男の風景。

「心におかしきところ」は、男のさがのはかなさを自覚して、練りも撚りも入れて強くしたはずが、身も心も砕けて、もの思う男の様子。

深い心はない。拾遺集では題しらず、恋歌三の巻にあるので、恋歌と聞いていた。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮説である。


◇和歌は、貫之と公任と俊成の歌論に学べば、当時の人々と同じ聞き耳をもって、歌の複数の意味を聞きとることができる。


◇木は男、月は男、草は女、などと述べて来た。また、水は女、鳥は女だとも述べていくが、言葉の意味に、根拠や理由がいちいちありはしない。唯、記紀歌謡・万葉集・伊勢物語・古今和歌集を通じて、そのような「言の心」で用いられてあるから、そのように心得るだけである。


帯とけの九品和歌 上品下

2014-11-05 00:02:18 | 古典

       



                   帯とけの九品和歌



 極楽浄土にも上品、中品、下品の三段階、それぞれに上中下の合計九つの階級があるという。公任は和歌を極楽浄土に倣って仕分けたのである。


 『新撰髄脳』には、「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が明確に述べられてある。この公任の歌論に基づいて、『九品和歌』を紐解いている。帯はひとりでに解け「心におかしきところ」が顕わになるだろう。それには先ず、紀貫之のいう「歌のさまを知り、言の心を心得る人」であることが必要である。



 「九品和歌」
上品下

 
 こゝろふかからねども、おもしろき所あるなり

(心深くはないが、面白いところが有るのである……心深くはないが、秘められたことが明白になる快感が有るのである)

 

 世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 (世の中に、絶えて桜が無いならば、季節の春の、人の・心はのどかだろうにな……女と男の仲に・夜の中に、耐えて、お花さく情態が、無くかりすれば、春の情はのどかだろうになあ)


 心得るべき、言の戯れと言の心

 「おもしろき…面白き…隠れているものが表面に表れ明白になる快さ」

「世の中…男と女の仲…夜の中」「たえて…絶えて…絶滅して…耐えて…我慢して」「桜…木の花…男花…咲くら」「木の花…言の心は男」「ら…状態・情態を表す」「なかりせば…無かったならば…無く狩りすれば」「かり…猟…あさり…まぐあい」「春の心…季節の春を迎える人々の心…春の情」「のどか…長閑…温暖でうららか…気分がゆったり穏やか…慌ただしく無い」「まし…もし何々ならば何々なのに…現実ではない事を仮に想像する意を表す、願望や不満の気持が含まれる」

 

 歌の清げな姿は、桜花の咲き散る慌ただしさに不満を述べながら、季節の春を言祝ぐさま。

 心におかしきところは、誰もが思うことながら、内に秘めていたおとこのさがの慌ただしさを、明白にしたおも白しさ。

 心深くは無い。


 

 望月の駒ひきわたす音すなり 瀬田のながみち橋もとどろに

(貢物の・望月産の駒、ひき渡す音がするようだ、瀬田の長道、橋もとどろかせ……充実したつき人をとこ、こ間、ながくつづける音がする、背多の長みち、身の・端もとろけるほどに)

 

言の戯れと言の心

「望月…充実した月人壮士…立派なおとこ」「月…月人壮士(万等集の歌詞)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「駒…馬…小ま…股間」「ひきわたす…引率して渡す…長く続く」「瀬田…地名…名は戯れる。背多、男多い、好色な女」「田…多…女」「長道…長路…永路…持続する女」「路…女」「橋…端…身の端…おんな・おとこ」「とどろ…轟くような音…ととろ…とろけるようなありさま」

 

歌の清げな姿は、ひずめの音、駒の連なりと瀬田の長橋の風景。

「心におかしきところ」は、言の戯れにより顕われる性愛のありさま。

人の心の浅いところを掬って見せられたような快(おもしろきところ)は有るが、心深くない。


 

原文は、『群書類従』和歌部の「九品和歌・前大納言公任卿」による。



 以下は、伝統的和歌について、これまでに得た、ささやかな仮の説である。


◇優れた歌は「心深く・姿は清げで・心におかしきところが有る」と公任は言う。このような複数の意味を一つの言葉で表現する歌のさま(歌の表現様式)を確立するとともに、心におかしきところのある(エロチシズムのある)最上級の歌を詠んだのが柿本人麻呂である。古今集仮名序で、「歌のひじり」と称されたのはそのためだろう。


◇音楽は複音の協和ならば、和歌も複数の意味の協和で成る。すでに万葉集の歌に於いて、単音の調べや、一義な意味の歌詞に、満足できるような段階ではなくなっていた。歌は、品の上中下にかかわらず、必ず複数の意味が有る。


◇近世以来、国学と国文学によって解説されてきた「序詞・掛詞・縁語」などという概念は不用である。これは、近代人が自らの理性と論理性を信じ自然科学の方法を真似て、分類分析して「浮言綺語」の如く戯れる歌言葉を牛耳ようとした結果である。古今東西のいかなる哲人も言葉と格闘して勝った人はいない。古代人は、なやましいこの言葉の戯れの複数の意味を逆手に取って歌を詠んだ。高度な表現方法を得ていたようである。