コロナ前は、自分でなんでもやらなければ
だった
コロナ以降 は 得意でないことは、人に頼ることにした
どうしてこういう変化を来たしたかというと
精神的にやられてしまったから
人から心配されるほどに、体調と精神に異常をきたしたのは
初めてである。
それまでは、だれかに尽くすことが「与えること」だと思っていた
しかし
たくさんの人に助けられないと生活できないことがわかった今
だれかに「行動で 尽くす」ことだけが「与えること」ではないと
気づいた。
誰かに、自分の代わりにやってもらって「ありがとう」と言うことや、
対価を支払いねぎらうことでもって喜ばれることもあるのだと知った。
与えるということは、自らの行動で働きかけるだけではなかった。
なにかをしてもらう、してもらって感謝することも「与える」になるのだと
初めて知った。
これは収穫であった。
それまでは
なんでも自分で、全てについて出来るだけ網羅し、責任をとること。
未来に起こるであろう出来事も予測し責任が持てるよう(後悔しないように、あるいは影響を受ける家族にも後悔させずに済むよう)に納得してから行動すること。が最善だと思っていた。だれかに「なにかをされた」とおもうことは必ず遺恨を残し、自分の気に入らない結果が出た時に後悔が何倍にも膨らむから。
でも、今回
コントロールが困難な事態が訪れた。
実は日本にいても、かの国に検閲されて、情報収集されています。
自由な意思だとか民主主義だとかそういうのは「幻想だった」と
気づかされ、愕然としていますし、そういうことを共有できる人もあまりいません。
YouTubeを観ている最中にアプリがおかしくなったり(表記の文字が外国・・になった)パソコンも壊れたり、ということが起きています。偶然だと思いたいけどそうではない。
それで、鬱になっちゃったんですね。
なんだ、違う方向に文章が流れて行ったぞ。
そう、
奪うよりも 与える方が幸福だと。
そして
誰かに(助ける)与えると言うことでもって、ありがとうと感謝されると
与えてもらった人よりも三倍も幸福感が続くということを「ほんまでっかTV」でやっていました。
与えることこそ、幸せになる道だと言っていて
それにとても共感していました。
そこで示されていたのは「席を譲る」という行為でしたが
人に与えるという行為でなく
人に与えられて「感謝する」ということが
ここまで喜ばれるとは思いませんでした。
そして、
得意分野(翻訳だとか、情報集取だとか、あるいは占星術だとか)を持っているひとが、それぞれ「人に与えることが好き」だと自覚している人が
世の中にたくさんいて、それぞれが志で自分の生業としたり、無償で
様々に手を貸してくれる世の中だと言うことも知った。
自分が知りたいことを知るために探しても英語だとわからないのに
翻訳を無償でしてくれている人もいた
外国でも、情報統制に喘いでいる人たちが情報集取をしていたり
それを日本向けに翻訳して情報を伝えてくれているニュースサイトもあることを知った。
それぞれの人たちが、お金のためだけではなく、自由のために、誰かを助けるために、自分を助けるために、行動している。
そんな人たちは(気づいている人が少ないから。)まだまだ少数派かもしれないけど、確実にいる。
(もちろんそこにも意図があるかもしれないし、全てを鵜呑みに出来ないかもしれないけど)
誰かがやってくれるという、ぼんやりした期待ではなく
主体的に、情報収集して考え、行動していく時代になった
でも
人の手を借りること
人には得意分野があるから。
自分だけではないから。
自分にある欠けを 誰かが補ってくれる
一人では、生きられないから。
かならず、誰かが必要だから。