昨年の大統領選挙の際
子供の肉体を食べる、
あるいは
子供を積極的に性的な対象として「消費する」
人々がいるという情報を見た
そんなことありえないと
普通の人は思うだろうし、
そんなネット情報に踊らされてと
おそらく多くの人はワタシの事を哀れむかもしれない。
多くの国境で売り買いされる子供達の命や性は
一つ3000万ほどのお金を産むという話もみた。
そんなはずはない、国境に壁を作るなんてナンセンスだと
テレビのニュースを信じてみている人たちはおそらく言うと思う
ただ、
子供を性具として扱う映像が実際存在するし
その様子をあたかも芸術作品のように表現し、それが売り買いされるという
事実が、どうにも否定しにくいのだと ワタシの神経が認識してしまったのである。これは、その風景を題材にしないと描けないであろう絵画で、
その行為を好んでいる人たちがモチーフ選び、それを表現すると言う事が
慣例としてあるという事がなければ存在しないであろう、と思う絵画が
存在するのだ。どうしてこのような「表現をしたい」というパッションが生まれたのかというと、それはその現実としての欲望が「在るから」であって、
それに 正当性さえ感じる、嗜好を持つ事に躊躇いもなく、喜びを感じる人々が存在していなければ生まれ得ない絵画だと、ワタシの神経は、そう認識してしまった。
残酷な物語を好むのは人であり
その残酷物語の対象は、常に人であった
そういう映画や物語は、人を対象にした屠りであり、それに対して恐怖とたまらないエクスタシーを感じる人々の娯楽なのである。
子供を食べたり、子供を性具として扱う人々が、
表出しはじめたのが昨年
そして、その正当性を
性的指向として、世間に認識させようとする緒としての
ジェンダーレスであり、
男 と 女性という区別を無くそうとする試み
男性が、女性のトイレに入り込んで「きゃー」と叫ぶと
「きゃー」と叫んだ女性が「差別主義者」として裁かれる
ということが現実として起きている
いろいろな事が、ねじ曲げられて表現され、
それを「正統だ」と認識するように「思わされ」
それを「否定したい」と思う心の動きさえ
監視される世の中に移行しようとしている。
子供を食べる事も
子供を性的対象とする大人たちの嗜好も
同一性障害のような「生まれつきの性的な認識の障害である」として
「受け入れる」事が、是とされる世の中に、なっていくのだろうか。
子供が恋愛対象である教師が「そういう一つの志向をもつ人を差別しないために」教育現場に「躊躇なく」配置されるようになるのだろうか。
子供を食べる事も変態行為も、「そういう志向があるのだから、差別するのはやめろ」と言われて
私たちは「子供を好きな人が、食べるのはその人の生まれ持った障害(的な志向)なのだから致し方ない」と受け入れるように「思わされる」時代がくるのだろうか?