天皇陛下62歳ご会見全文
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天皇陛下の記者会見は、2022年2月21日(月)に皇居・宮殿「石橋の間」で、午後5時4分から51分まで47分間行われました。
質問は、事前に提出した5問と関連質問が2問、そのうち撮影があったのは3問目までです。
会見の全文を紹介します。
【問1】
この1年は、新型コロナウイルス感染症の影響が続く中、東京オリンピック・パラリンピックのほか、皇室では御所へのご移居や上皇さまの米寿のお誕生日など様々な出来事がありました。印象に残った出来事についてお聞かせ下さい。国民と直接ふれあう機会が限られる状況の中、オンラインで各地を訪問された感想や、今後「ウィズコロナ」や「ポストコロナ」での活動のあり方についてもお考えをお聞かせください。
【陛下】
この1年も、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るいました。
亡くなられた方々に深く哀悼の意を表しますとともに、家族、友人など大切な方を亡くされた多くの方に、心からお見舞いを申し上げます。
感染症の影響により、仕事を失ったり、苦しい生活状況に陥る人、孤立を深める人も多く、心が痛みます。
医療従事者の皆さんは、自らの感染の脅威にさらされながら、強い使命感を持って、昼夜を問わず、最前線で患者さんの命を救うための尽力をされています。
また、罹(り)患した人々を適切に医療現場につなぐべく、同様に尽力されている救急隊や保健所などの関係機関の皆さんの御苦労もいかばかりかと思います。
そして、このコロナの状況下で、支援を必要としているお年寄りや障害のある方、生活に困窮している方や生活困窮世帯の子供たちなど、社会的に弱い立場にある人々を支え、その命と暮らしを守るために力を尽くされている方が多くいることや、エッセンシャルワーカーの皆さんが多くの人の日々の生活を支えていてくれることも有り難く思っています。
これら多くの方々に心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。
長引く感染症の感染拡大への対策を継続することは大きな努力を要します。
親しい人との直接的な接触を避け、暮らしの隅々にも注意を払うよう、自らのできる範囲で感染の拡大防止に努めている人も多くいると思います。
こうした国民の皆さん一人一人の努力を深く多といたします。
長く困難な状況が続いておりますが、今しばらく、誰もがお互いを思いやりながら、痛みを分かち合い、支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができるものと固く信じております。
昨年は東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会が開かれました。
新型コロナウイルス感染症の感染拡大という困難な状況の中での開催となりましたが、大会を無事に終えることを可能にした運営スタッフ、ボランティア、医療従事者、警備担当者など多くの関係者の尽力に敬意を表したいと思います。
私たちもそうでしたが、参加した選手一人一人が力を尽くして競技に臨む姿から、新たな希望と勇気を見いだされた方も少なくなかったのではないかと思います。
また、参加国の選手同士がお互いの健闘をたたえ合う姿や、例えば、女子バスケットボールの表彰式の後で、日米仏3か国の選手全員が自然に入り交じって記念撮影に臨む姿など、国境を越えた選手同士の交流が各所で見られたことにも感慨を覚えました。
この度の北京での冬季オリンピックでも選手同士の心温まる交流を目にしましたが、そのような光景を見ながら、私は、50年前の札幌冬季オリンピックでの、70メートル級スキージャンプで金メダルを取った笠谷幸生(かさやゆきお)選手の健闘をたたえて笠谷選手を肩車した、ノルウェーのインゴルフ・モルク選手の姿を懐かしく思い出しました。
国と国との間では、様々な緊張関係が今も存在しますが、人と人との交流が、国や地域の境界を越えて、お互いを認め合う、平和な世界につながってほしいと願っております。
昨年も、現在人類が直面する最大の課題の一つとして、気候変動問題に関心が集まりました。
その解決に向けては、国・企業・研究機関・一般の人々など幅広い関係者が手を携えて脱炭素社会の実現に取り組まなければなりません。
そのことは、時として、乗り越え難い壁のようにも見えますが、近年においても我々はこのような課題に挑戦してきました。
例えば、平成初期には、地表に降り注ぐ紫外線を増加させる「オゾン層の破壊」が地球環境問題として真っ先に挙げられる課題でしたが、数十年に及ぶ国際的な連携・協力やその下でのフロン回収技術等の企業の技術革新、消費者の理解と協力などにより、早い地域では2030年代にはオゾン層が1980年の水準にまで回復する、との見通しを国連の専門機関が示すほど状況が改善していると聞きます。
このオゾン層の回復は、地球規模で対策に臨んだ環境問題の改善の好事例として、気候変動対策に向けた努力が始まりつつある中で勇気を与えてくれるものです。
そのような中で、昨年、眞鍋淑郎(まなべしゅくろう)博士が、温暖化予測にも用いられた気候モデルの開発を評価され、ノーベル物理学賞を受賞されたことを喜ばしく思います。
こうした、これまでに蓄積してきた知見も十分にいかしながら、各国・地域の関係者や一般の人々が協力して対策を進めるべく努力を続けることで、気候変動問題が改善していくことを心から願っています。
東日本大震災の発生から間もなく11年を迎えます。
この震災により、2万人を超える数多くの方が亡くなったり、行方不明になったりしたことは、今思い出しても深く心が痛みます。
その後の復興の過程で、人々の生活や産業を支える社会基盤の整備等は進んだものの、精神的なサポートを必要とする人が近年になってむしろ増えていると伺うなど、本当の意味での復興はまだ道半ばにあるものと思います。
私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです。
思い返せば、東日本大震災直後には、現地に駆けつけたボランティアに多くの被災者が勇気付けられたものと思います。
海外の多くの国々からも支援物資等が届けられ、ボランティアが被災地に駆けつけてくれました。
先月の海底火山の噴火による被害が伝えられるトンガの皆さんからも、その時、様々な支援を頂いたことは記憶に新しいところです。
その時の感謝の気持ちは今なお色あせるものではありません。
ここに改めて、この度のトンガの噴火により被災された方々に心からのお見舞いをお伝えいたします。
東日本大震災の発生と同じ平成23年、トルコで起きた震災に日本から支援活動のために赴いていた宮崎淳(みやざきあつし)さんが、余震により残念ながら現地で亡くなりました。
舗装道路などのインフラも十分でない被災地において、見ず知らずのトルコの人々のために力を尽くし、亡くなったとして、当時のギュル大統領は、トルコ国民の心を動かす献身的な活動をした宮崎さんをいつまでも忘れない、と上皇陛下に親書を送られました。
そして、以後、トルコの各地で宮崎さんの名を冠した公園や学校が開設されているとの報道に昨年接したことも、トルコの人々の温かい気持ちと共に印象に残りました。
災害により困難な状況に陥った人々を助けようと尽力する災害ボランティアの精神は誠に尊いものです。
日本の多くの人々が国内外で災害ボランティア活動に従事してくれていることに敬意を表したいと思います。
我が国では、今後、いくつかの大きな地震の発生が予測されています。
また、近年、大きな被害をもたらす豪雨災害等が頻発しており、気候変動の影響により、今後、気象災害のリスクは一層高まる恐れがあると言われており、発災時に多くの人が助けを必要とする場面はより多くなると予想されます。
そのため、私たち一人一人が防災や減災の意識を高め、災害に対して自らの備えをするとともに、どこかで災害が起きたときには、一人一人が、自らのできる範囲で被災した人々に寄り添い、その助けとなるべく行動できるような社会であってほしいと願います。
新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています。
それでも、オンラインにより昨年3月、4月に東日本大震災被災3県を訪問して行った復興状況の視察を始め、全国各地をオンラインで訪問することにより、現地の方々のお話を伺い、交流することができたことは私たちにとって意義深く有り難いことでした。
例えば、5月の「こどもの日」にちなみ、熊本県の阿蘇山の麓にある高森町と、鹿児島県の離島である三島村の学校を半日のうちに続けて訪問し、それぞれ特色のある地域の子供たちと交流できたことや、第5回国連水と災害に関する特別会合に各国の研究者と一緒にオンラインで参加できたことは、オンラインの活用が、感染症対策としての利点だけではなく、例えば複数の場所にいる人々に同時に会うことができたり、離島や中山間地域など、通常では訪問がなかなか容易にできない地域の人々とも比較的容易に、しかも臨場感を持って交流することができるという利点と可能性があることを改めて実感させてくれるものでした。
様々な場所を実際に訪れ、現地で多くの人々と直接お話しをしたり、同じ体験を共有したりしながら、その土地、その土地の雰囲気を肌で感じるなど、実際の訪問でなければ成し得ない部分はあるものの、感染が収束しない現状では、オンラインは、国民の皆さんや世界の人々と私たちを結ぶ上で、有効な手段と考えられます。オンラインなりの課題もあるかもしれませんが、状況に応じた形で、引き続き活用することができればと思っています。
また、感染収束後も、オンラインを活用することが適当な場合には、その活用も視野に入れていきたいと思います。
新型コロナウイルス感染症の影響により、現在は様々な形の交流が難しく、直(じか)に会って人と人との絆(きずな)を深めたり、つながりを広げたりすることが容易ではない状況が続いておりますが、そのような中にあっても、皆がお互いのつながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに灯(とも)し続け、更には、国や地域の境界を越えて人々や社会がつながり、お互いを認め合い、支え合える年になってほしいと願っています。
上皇陛下には昨年暮れに米寿を迎えられ、上皇后陛下には今年米寿を迎えられることを喜ばしく思います。
昨年12月と今年の元日に、久しぶりに両陛下に私たち二人そろってお会いできたことをうれしく思っております。
また、日頃より、私たちや愛子を温かくお見守りいただいておりますことを有り難く思っております。
両陛下には、新型コロナウイルス感染症の感染拡大にお心を痛められつつ、日々を送っておられることと拝察いたします。
これからも、お身体(からだ)を大切に、末永くお健やかにお過ごしいただきますよう心よりお祈り申し上げます。
【問2】
皇后さまは療養を続けながら、陛下と公務に臨んでこられました。ご回復の状況はいかがでしょうか。
長女の愛子さまは二十歳を迎えられました。成年行事でのお姿を見てどのように思われましたでしょうか。
これまでの20年間を振り返り印象深い思い出やオンライン授業が続く現在の学生生活、今後の歩みへの期待や結婚について、父親としての思いをお聞かせください。
【陛下】
雅子は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はありますが、種々の工夫や努力を重ねながら、幸いにして、都内での式典やオンラインによる各地への訪問、新年ビデオメッセージなどに一緒に臨むことができました。
養蚕については、昨年、より多くの作業に取り組むことができ、楽しみながら作業をしている様子を見て、私もうれしく思いました。
また、皇居への移転に伴い、生活環境が大きく変わる中で、自分なりに公務と生活のリズムを整えようと懸命に努力していると思います。
しかしながら、いまだ快復の途上で、体調には波があり、大きな行事の後には、疲れがしばらく残る傾向にあります。
これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います。
雅子は、また、私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています。
私も、今後ともできる限り力になり、支えていきたいと思っております。
国民の皆さんには、これまで温かく心を寄せていただいていることに、改めて感謝の気持ちをお伝えするとともに、引き続き雅子の快復を温かく見守っていただければ有り難く思います。
愛子は、昨年12月に成年を迎えました。
成年に当たっての感想の発表や成年の行事に臨むに当たり、緊張もあったと思いますが、何とか無事に諸行事を終えることができ、私たちも安堵(ど)しました。
また、いつの間にか二十歳(はたち)という年齢を迎え、大人の仲間入りをすることになったことを感慨深く思いました。
日頃から、多くの人々に助けられ、支えられているということに愛子が感謝の気持ちを持っていることを親としてもうれしく思っています。
印象深い思い出については、学校の水泳の授業で、小さい頃にはビート板を使ってプールで短い距離を泳いでいた愛子が、女子中等科時代、静岡県の沼津の海で3kmの遠泳ができるようになった時や、中学の修学旅行で広島を訪れた際に強い衝撃を受け、平和への思いを文章にまとめた時などに成長を感じ、うれしく思ったことを覚えています。
愛子は、一昨年大学生になりましたが、新型コロナウイルス感染症の影響により、授業にはオンラインでの出席が続いています。
2年生になり、演習の授業での発表があったり、課題の提出などで忙しい毎日ですが、大学での勉学に一生懸命に取り組んでいます。
私自身の大学生活を振り返ってみますと、気が付けばもう40年くらいも前になりますが、大学では様々な人たちと顔を合わせて授業を受けたり、放課後の部活動で一緒に参加したり、見ず知らずの人と学生食堂で隣り合ったり、新しい発見と経験の連続であったように思います。
そういう意味でも、愛子には、感染症が落ち着いて、いつの日かキャンパスに足を運べるようになると良いなとは思いますが、たとえどのような環境にあっても、実り多い学生生活を送ることができればと願っています。
愛子は、家族との時間を大切にしてくれており、愛子と3人でいると、私たちの団欒(らん)は、笑いの絶えない楽しいものになっています。
昨年も述べましたとおり、愛子には、いろいろな方からたくさんのことを学び、様々な経験を積み重ねながら視野を広げ、自らの考えを深めていってほしいと願っています。また、今後、成年皇族として、思いやりと感謝の気持ちを持ちながら、一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたいと思います。
その過程で、私たちで相談に乗れることは、できる限りしていきたいと思います。
【問3】
めいの小室眞子さんが昨年10月、結婚により皇室を離れました。
一時金が支給されず儀式が行われないという異例の経過や皇室への影響について、陛下の受け止めをお聞かせください。
眞子さんの体調に影響を与えたとされる週刊誌報道やインターネット上の書き込み、また皇室の情報発信のあり方については、どのようにお考えでしょうか。
【陛下】
眞子内親王は、小さいときから姪(めい)として成長を見守っておりましたし、成年に達してからは、昨年秋、結婚により皇室を離れるまで、様々な公的な活動に真摯に取り組んでいたことを深く多といたします。
結婚について様々な意見があるなど、結婚に至るまでの状況を踏まえ、納采の儀などは秋篠宮家の判断で、また、朝見の儀などについては、私の判断で執り行わないこととなりました。
今後、幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが、同時に、この間、多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています。
昨年も述べたとおり、皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。
そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことが大切であると思います。
皇室を構成する一人一人が、このような役割と真摯に向き合い、国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております。
同時に、皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なことと考えています。
週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては、人々が自分の意見や考えを自由に表現できる権利は、憲法が保障する基本的人権として、誰もが尊重すべきものですし、人々が自由で多様な意見を述べる社会をつくっていくことは大切なことと思います。
その中にあって、一般論になりますが、他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があると思います。
他者の置かれた状況にも想像力を働かせ、異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております。
【問4】
政府の有識者会議が報告書をまとめ、皇族数の確保策として女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、旧皇族の男系男子を養子に迎える案の2つを示しました。
一方、皇室の歴史を振り返ると、過去には皇位を巡る危機的な時期が幾度もあり、そのたびに乗り越えてきた経緯があります。
歴代天皇について深く学んでこられた陛下は、今日まで皇位が連綿と継承されてきた長い歴史をどのように受け止められていますか。
【陛下】
皇室の歴史を紐(ひも)解くと、皇位が連綿と継承される中では、古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題となった様々な出来事がありました。そのような中で思い出されるのは、上皇陛下が以前に述べておられた、天皇は、伝統的に、国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っておられた、というお言葉です。
このお言葉に込められた思いは、ひとり上皇陛下のみのものではなく、歴代の天皇のお考えに通じるものと思います。
平成28年に愛知県の西尾市を訪問した折に岩瀬文庫で拝見した戦国時代の後奈良天皇の宸翰般若心経(しんかんはんにゃしんぎょう)は、洪水など天候不順による飢饉(きん)や疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らが写経され、諸国の神社や寺に奉納されたものの一つでした。
その後、京都の醍醐寺では、後奈良天皇の般若心経を拝見し、奥書に「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず心を痛めている」旨の天皇の思いが記されていました。さらに大覚寺でも、嵯峨天皇のものと伝えられる般若心経や、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇が自ら写経された般若心経を拝見しました。
このように歴代の天皇は、人々と社会を案じつつ、国の平和と国民の安寧のために祈るお気持ちを常にお持ちであったことを改めて実感しました。
また、武ではなく文である学問を大切にされてきたことも、天皇の歴史を考えるときに大切なことだと思います。
例えば、鎌倉時代の花園天皇が皇太子量仁(かずひと)親王に宛てて書き残された、いわゆる「誡太子書(かいたいしのしょ)」においては、まず徳を積むことの大切さを説かれ、そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。
このような歴代の天皇の思いに、深く心を動かされました。
私は、過去に天皇の書き残された宸翰などから得られる教えを、天皇としての責務を果たしていく上での道標(しるべ)の一つとして大切にしたいと考えています。
そして、その思いと共に皇位を受け継いでこられた、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研鑽(さん)を積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての務めを果たすべく、なお一層努めてまいりたいと思っています。
【問5】
今年は沖縄の本土復帰から50年となります。
陛下はこれまで訪問を重ね、「豆記者」との交流なども続けてこられましたが、沖縄についての思い出や、先の大戦で大きな被害を受けた沖縄の歴史や人々への思いについてお聞かせください。
【陛下】
私は、幼少の頃より、沖縄に深い思いを寄せておられる上皇上皇后両陛下より、沖縄についていろいろなことを伺ってまいりました。
子供時代の沖縄との関わりについては、毎年夏を過ごした軽井沢での沖縄の豆記者の皆さんとの交流がありました。
そうした機会は、幼少の私にとって、沖縄について知るとても良い機会でした。
会の途中では、豆記者の生徒さんが、沖縄の空手の形を披露してくれていましたが、昨年夏の東京オリンピックで金メダルを取った沖縄出身の喜友名諒(きゆなりょう)選手の空手の演技を見ながら、当時を懐かしく思い出しました。交流会の終わりには全員で沖縄民謡の「てぃんさぐぬ花」と「芭蕉布」を合唱しました。
また、子供の頃から、毎年、6月23日の沖縄慰霊の日には、黙祷(とう)を捧(ささ)げていました。
最初に沖縄を訪れたのは、昭和62年の夏季国体の折でしたが、それに先立って、沖縄学の研究者であった外間守善(ほかましゅぜん)教授から、沖縄の文化や歴史についてお話を伺ったことも、沖縄への理解を深める上でとても良かったと思っています。
沖縄では、ひめゆりの塔や戦没者墓苑を訪問し、沖縄が被った戦争被害の痛ましさに深く思いを致したことをよく覚えています。
結婚後には、雅子と共に、「平和の礎」を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました。
また、沖縄の人々にとって大切なシンボルとなっていた首里城が焼失してしまったことはとても残念でしたが、首里城や今帰仁城跡などの史跡を訪れたり、様々な折に組踊や琉球舞踊などを鑑賞したりして、沖縄の歴史や豊かな文化に触れることができたことも良い思い出になっています。
先の大戦で、悲惨な地上戦の舞台となり、その後、約27年間も日本国の施政下から外れた沖縄は、人々の強い願いの下、50年前日本への復帰を果たしました。
この間、今日に至るまで、沖縄の人々は本当に多くの苦難を乗り越えてきたものと思いますし、このことを決して忘れてはならないと思います。
本土復帰から50年の節目となる今年、私自身も、今まで沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し、沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたいと思います。
そして、これからも、多くの人が沖縄の歴史や文化を学び、沖縄への理解を深めていくことを願っています。
【関連質問1】
愛子さまについてあっという間にこういう成年皇族になられたとお話しになっていましたけれども、宮殿での成年の行事の時に、愛子さまのとても美しいお姿を御覧になった率直な御感想というのはどんな思いがおありだったでしょうか。
【陛下】
先ほどもお話ししましたけれども、小さかった愛子がもう二十歳(はたち)になった、そして大人の仲間入りをした、そういうような深い感慨を覚えました。そして今後とも、本当に幸せな人生を歩んでいってほしいというように、そのように心から願いました。
【関連質問2】
先ほど愛子さまのところでその大学生活御自身のことを振り返られながらもう少しお話しいただけたらと思うんですけれども、先日皇位継承順位第2位の悠仁さまが筑波大学附属高校に合格されて進学される見通しになったと発表ありましたけれども、高校在学中には18歳の成年を迎えられることになります。
このことに関して御感想と陛下御自身の体験を踏まえて今後皇位継承者としてどういったふうに過ごしてもらいたいといったような期待感などありましたらお聞かせください。
【陛下】
そうですね。
私の高校時代のことは、はるか昔のことのようには思いますけれども、また、年は経(た)っていますけれども、本当に高校時代の3年間はいろいろな人と出会い、友達もできてそしてまたいろいろな活動に取り組むことができた、そのような点で、ある意味では非常に充実した3年間を送ることができたというようなことを今でも懐かしく思い出しております。
先日、悠仁親王の高等学校の進学先が決まったという報告を受けましたが、やはり是非実り多い高校生活を送ってほしいというように心から願っております。