あきほの 気まま日記

日常の出来事を 気ままに好きなことをつづってみます・・・

史跡巡り 3

2018-06-11 | 歴史散歩
渋谷氏について、前回の史跡巡り 2 で
「入来院氏は 鎌倉幕府から逃れて 相模国の渋谷から薩摩入りした渋谷一族の一人で渋谷氏の5男だそうです。」と書きましたが、
夫から ちょっと違うのじゃないかと疑問符がつきました。
改めて 調べてみました。
私の聞き違いというか 覚え間違いというか私の失態でした。

渋谷氏は 鎌倉時代の北条氏と三浦氏の戦い宝治合戦の恩賞として北薩の地頭職を得たことから 相模国の渋谷から下向してきた一族。
一人は相模国に残し 他の兄弟と関東の武者大勢で薩摩の北部に入りました。
一族は、入来院 祁答院 東郷 鶴田 高城に分かれた為に「渋谷五家」といわれます。
元々の領主の島津氏としばしば戦いますが、1569年島津氏に降伏し 以後家臣となります。
(尚古集成館資料より)

今回は 渋谷五家の中 筆頭格の 入来院家の墓所を見に行きました。









現在 入来院家の墓所を管理している入来院氏は 私の家とも縁親戚で子供の頃からの知り合いです。
墓所が有る事は知っていて管理するのが大変だという事も聞いていたのですが、初めて行ってみて 思っていた以上に大きくてびっくりしました。
大小様々な石塔が20個以上あります。
島津氏からお嫁入りした方には島津家の家紋があって、何代かに渡って縁組が有ったようでした。

歴史を感じさせてもらった墓所に 深々とおじぎをして去りました。

来月は、渋谷五家の一つの 東郷 だそうです。又 楽しみです。
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史跡巡り 2

2018-06-09 | 歴史散歩
今年は大河ドラマで 「せごどん」を放送していますが、
せごどんで 後日放送になると思う西南の役にちなんだ話しを聞いてきました。

その前に 昌了寺墓地を見学しました。
昌了寺は、寛永14年(1637年)に 入来院16代重高が、夫人の位牌所として建立した寺院でした。(案内板より)
寺院は 廃寺となり この仁王像だけが残り、夫人を中に両脇に仁王石像が守ってくれています。



入来院氏は、鎌倉幕府から逃れて相模国の渋谷から薩摩入りした渋谷一族の一人で渋谷氏の5男だそうです。

そのお墓のお隣にあったのが、西南の役に関連した「巡査殿墓」がありました。
私も、初めて知りました。



案内板の手前の小ぶりなお墓です。
案内板をズームします。



私の曽祖父も 田原坂の戦いに参戦しているという話を祖母から聞いています。
薩軍3万人の中に入って居たんだと思うと感慨深いです。

うちのお墓の前の道が 「薩軍敗走の道」だったようで、最近看板が立てられました。

次回は、入来院氏の墓所について書きます。
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文化財巡り

2018-06-08 | 歴史散歩
市民大学講座の一環で
今年度は、「渋谷氏文化財巡り」があります。
5月から始まり 今日は第2回目。場所は入来地区。
9時に公民館を出発して 入来地区へ。
今回訪れた所は、渋谷有重の供養塔
昌了寺墓地 三十三観音塔 入来院領主古石塔 の 4ヶ所でした。

渋谷有重氏とは、鎌倉時代の弘安の役(
元寇)に入来から80名を率いて出陣し、筑前博多の海で戦死した方です。
この供養塔は、基礎石にかさ石をかぶせ、その上に納骨用の円塔を乗せ、更にその上にかさ石をかぶせて最上段に相輪を置く珍しい型で、県内では他にはないみたいです。



右が鎌倉時代に建てられた供養塔。
時代が過ぎて崩れたところもでてきています。
左は、後年に建てられたレプリカ。
有重氏は 戦功が著しくて結果は戦死したけれど、戦功賞として、鎌倉幕府から
筑前の国早良郡比伊郷(現在の福岡市内)を給与されました。
「案内板より」

直ぐそばに、お供の仏像が供養塔を御守りしていました。



700年前のジンギスカンとの戦いに こちらからも出陣した事を知り 感慨深く歴史の前に佇み聞いていました。
今日は ここまで。
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文化財史跡巡り 3

2017-07-21 | 歴史散歩
前編の続きです。
樋脇の中心地から 少し離れた倉野に在る磨崖仏を見に行きました。


「倉野の磨崖仏」



後ろの竹林は、寺院があったらしい。
道から見上げる小高い岩壁に17個の梵字 浮彫りの仏像が1個 浮彫りの五輪塔が3個があります。
その中で、貴重なのが、右端の月輪中に彫られた梵字オーンクらしいです。



オーンクは日本に1つしか無い文字で、真言宗の最高尊を表現するものらしいです。



私にはわからない文字ですが、倉野では鎌倉末期に中央と劣らぬ高度の仏教研究がなされていたようです。


「倉野の六地蔵塔」
磨崖仏の近くにありました。



この六地蔵塔は、一族の生前供養塔として生前と死後のの平安幸福を願い建てた物です。
六つの地蔵さんと245文字を彫ってあります。

今回の史跡巡りは、初めての土地だったので 知らない事ばかりで
非常に勉強になりました。
コメント (2)
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文化財史跡巡り 2

2017-07-21 | 歴史散歩
前編の続きです。
旧樋脇駅近くにある 「三島の仁王像」をみました。
廃仏棄釈で ばらばらに処分された仁王像は、
上半身 下半身別々にあり 上半身は瑠璃光寺跡地で
見つかったようです。
おそらく 瑠璃光寺が繁栄していたころ、
山門の両脇で寺院を守る為に 厳しい顔で建っていたのでしょう。
と云う説明。



すぐ横に 田の神さぁがいらっしゃいました。



田んぼを見わたす所に鎮座していたのですが、耕地整理でここに引っ越しとか。

もう一つ 田の神さぁを
「本庵の田の神像」



玉淵寺遺跡群は、樋脇川の近くにあります。
その片隅に 一風変わった田の神さぁがいました。
鎧 兜を身に着けて 手には弓と矢を持った姿は 初見です。
平安期に寺院を守護した四天王像に類似しており
勝軍地蔵型の田の神さぁと呼ばれているとか。

今回は、ここまで。
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文化財史跡巡り

2017-07-20 | 歴史散歩
今日は 月1回の「郷土文化財巡り」の日でした。
今回は、樋脇地区。
この樋脇は、車で通過するだけで殆ど言って良いぐらい何も知らない地区です。

市のマイクロバスに乗り込んで、25人位で巡りました。
最初に行った所は、石室(いしむろ)
初め聞いて 信じられないと びっくりしました。
「快慶入定(かいけいにゅうじょう)の石室」
快慶というお坊さんは、樋脇地区に在る瑠璃光寺の住職でしたが、寛文6年(1666年)に住職を弟子に譲り 隠居寺の栄源寺の脇の土地に深さ2m50cm位で 幅1m余り四方の石室を掘らせ 生きながら入室し 石蓋をしてその上に石塔を建てさせた。
読経三昧の日々で、僅かばかりの隙間から差し入れされるおにぎりや水で 2年数ヶ月過ごし成仏されたとの説明でした。



初め意味が理解できず、罰を受けて入ったのですか?と聞いてしまいました。
自分から進んで入ったと聞いて びっくりでした。
今まで史跡を巡って 1番のショックでした。
石塔は、5輪塔になっています。


次に行ったのは、「瑠璃光寺跡石塔群」





この瑠璃光寺は、文化6年(1474)し 以来樋脇郷の祈願寺として栄えてきましたが、明治維新の廃仏棄釈でばらばらになりました。
のちに 拾い寄せ集めたそうです。

まだまだ ありますが、又後日にアップします。
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史跡巡り

2017-06-22 | 歴史散歩
雨が心配される中 月1度の郷土文化財巡りに参加してきました。

今回は、入来地区。
訪れたのは 五ヶ所でした。
最初は、磨崖仏



この磨崖仏が彫られたのは、代々早世する子女が多かった家の親御さんさんが
子供の供養をする為に石工を頼んで阿弥陀如来を彫って貰い供養した物らしいです。
硬い安山岩の岩璧に 幅1m 高さ1.38mの板碑型に切り抜き、
中に40cmの阿弥陀仏坐像があります。
この磨崖仏完成後 3年目に子宝に恵まれたて 子福者になったと書いてありました。


いくさ墓



階段を上った先に木にお覆われて 眠っていました。
いくさにいく前に 自分のお墓をみんなで建て 七七日の仏事もした逆修塔。
なんと 悲しい事でしょう。



旦那墓
この史跡は、私の遠縁の人が管理者になっていました。





町内の宝塔中最も豪華な石塔で、薩摩一円の支配権を得た偉人の墓塔としてふさわしく、
塔身各部の彫刻が精微美麗で 高さが2m余りあり豪華な石塔です。


家付き田の神さぁ



田の神さぁは 沢山みてきましたが、
家付きの田の神さぁは 初めてみました。



入来には 田の神さぁが30体あるそうです。
マップを入手したので 又個人で巡ってみようと思います。

もう1ヶ所行きましたが 省略します。
雨も遠慮してくれて 傘もささずに巡る事ができました。
次回は、樋脇地区の予定です。
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郷土の文化財巡り

2017-05-26 | 歴史散歩
昨日の25日に 市民大学講座の「郷土の文化財巡り」が有りました。
第一回目は 藺牟田地区と轟地区です。
集合場所からは マイクロバスに乗り換えて藺牟田に向かいました。
資料を見ると 巡るのは9ヶ所。
先ず、麓西の石敢当(せっかんとう)へ



写真では、わかりにくいですが塔は中央右の黒い石 木の下です。



この当は麓西の民家の宅地の土手の上に立てられており
悪魔 魔物 悪霊を防ぐ物として
1754年の建立で 県下で第2位に古いとされています。

4番目が 藺牟田古城跡
約800年前の平安末期頃 築城された山城で
代々藺牟田の支配者が居城していたが 勢力争いに敗れ
1485年に落城、以後廃城となり 山となっています。



右後ろの山が古城跡です。

9番目の良重寺跡石塔群
この石塔群は轟地区に有りました。





説明を聞いている参加者達。


祁答院氏最後の良重氏を弔ったお寺跡にある石塔です。
解説者の話を聞いて 戦国の世の悲しさを感じました。
妻の実家から 夫を殺す命題を与えられて結婚し
やがては実行し妻 自身も刺されて亡くなると云う悲しい話。
この事で 祁答院氏は途絶えたと云う事でした。

知らなかった事ばかりの 歴史のお話で 歴史好きの私にとっては
ぐーな企画でした。

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宗功寺墓地

2015-12-05 | 歴史散歩

昨日 温泉に行く途中にある 宗功寺墓地に 立ち寄ってみました。
この墓地には、高校生の頃同級生と一緒に来た事が有りました。
墓地は綺麗に管理されていて 昔もこんなだったかなと思いました。

宗功寺墓石群


さつま町教育委員会資料より
この墓地は、江戸時代 宮之城郷の領主であった宮之城島津家の墓所で、
島津家本家 島津貴久の弟 尚久を初代とし、
墓地には、尚久の嫡男 忠長(2代)から14代久實まで
家族を含め 35基の墓石と 「島津久通祖先世功碑」が あります。
此処には、慶長の頃(1596~1615) 忠長が 京都妙心寺の末寺として
「大徳山宗功寺」を 創建しました。
お寺は、江戸時代末まで有りましたが、明治初めの廃仏棄釈で壊されました。
今ある墓石群が、当時の面影を残しています。
墓の形状は、祠堂型をした壮大な造りで 他に類を見ないと言われます。
台座には彫刻が施されています。
墓地中央には 5代久竹が 延宝6年(1678)に建立した 「島津久通祖先世功碑」が
あり、台座は亀跌となっています。
昭和50年に県指定史跡文化財に指定されています。

案内板


2代 忠長の墓石


14代 久實の墓石


墓地の中央にある 島津久通祖先世功碑


こんなところに 淡墨桜

岐阜の淡墨桜は有名ですが、まだ見た事ないので 今度此処で見ましょう。

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清色城跡に・・

2015-12-03 | 歴史散歩

入来の武家屋敷群の続きになります。

重要文化財指定の旧増田家住宅の 見学が終わって 前方を見ると
とても とても大きな建物が見えました。
手前にある個人の住宅も かなり大きめですが、桁違いに大きな建物です。
何と 思われますか?


それが、城跡に建っています。

直ぐ近くなので、直進です。

入来院家が治めていたお城は「清色城」(きよしきじょう)といったそうです。
お城は、本丸のほかに山城が6つもあり、
城跡の面積は18haが国の史跡に指定されています。

お仮屋馬場からの 碑


案内板


階段を上って行くと、何と入来小学校でした。


あまりに大きくて、校門の近くからは一枚に収まらなかったので、
ホームページから 写真をいただきました。
自分で撮ったのが 左下。右下は、昔の大手門で 今は昇るの大変だけど校門です。


こんな大きな小学校は見た事無いので、感嘆していたら 下から先生が上がって見えました。
挨拶して しばらくお話ししたら
創立146年で 明治2年寺子屋から始まり 入来小学校となり、
その後名称が何度も変わりながら 現在は、薩摩川内市立 入来小学校となっているとか。
この校舎もまだ新しく 児童数は 87人(うろ覚え)で 幼稚園も併設していると話されました。
その方は、年齢や服装 身だしなみからみて、校長先生ではなかったかしら?。
礼をして辞して階段を下りながら、昔の城下まちを見ました。



お堀も 残っていて、入来院家700年の歩みを偲ぶ事ができる
歴史と伝統のある学校として生き続けている えらい小学校だなぁと思いました。
コメント (2)
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