日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2015-05-21 00:26:15 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第9歌(カッコ内は筆子、その14)

◯すると答えた、「ここにはあらゆる宗派の異端の長(かしら)が、追随者たちとともにゐて、信じられぬほど多くのものが、これらの墓に詰込まれてゐるのだ。

似たもの同士が一緒に埋葬されてゐて、墓の熱さには強弱がある。」さう言つて師は右手に向ひ、わたしらは苦悶と高い城壁の間を進んでいつた。(ここまで前回)

ダンテの「神曲 地獄」編 第10歌(カッコ内は筆子、その1)

◯いまやこの都市(まち)の城壁と苦悶の間の秘密の小路(こみち)を、師と師の背後のわたしは進んでいく。

  「おお、異端の圏(かこい)をぐるりと導く、至高の徳よ、」とわたしは口を切つた、「よろしければ、わたしに話してわたしの切望を叶へて下さい。

  これらの墓の中に横はつてゐるものたちは、見られるのですか?すでにすべての蓋が持ち上げられてゐて、いかなるものも見張つてゐませんが。」(つづく)

 

◯2015年5月17日は、今年の第二十主日。日聖協の「聖書愛読こよみ」は、申命記7章6~11節、その7節である。「主が心を引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」という。宝の民と呼ばれるイスラエルの民は「貧弱であった」が、神の愛によって選ばれた。神の前で誇らないためである。 

◯写真は、閉店間際の大分県立美術館。(12日18時50分撮影)


プロテスタントとカトリック

2015-05-12 02:59:43 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(311)

4.近代の教会の夜明け

―宗教改革―スコットランド

(「わたしの最期の日は近づきつつあります。~わたしはこれによって、その重いつとめを終え、わたしの様々な苦しみと悲しみから解き放たれて、主キリストの御許に行くことを望んでいます。しかしわたしの心から願いは、~神の言葉の真実とその教養のほか何をも語るまいと願っていました。多くの会衆のうちにはわたしの説教の難しさに不満を抱いた人々があったようですが、わたしはそうした人々を疎み嫌ったことはなく、そうした人々を導いて、神の秘められた御言葉の真理を悟らせるように骨折っていたことは神の知っておられるところです。~わたしの良心も証します。~神の権威を拒む人々、また真理を捨て去った人々を警戒しなさい。これ以上語ることは健康が許しません。」と。(ここまで前回)

語り終えると感謝して、静かに彼らを引き取らせた。集まった者らは心に大いなる感動で満たされ熱心に祈った後、少数の残った者らに、とくに聖アンドルーズの知事に忠告し、敵対するメアリー女王の徒党に対して、一層結束してこれに当たり、改革教会のために戦うべきことを勧めた。やがて神の審判が女王一味の上に下されるであろうとも言って励ました。  その後時々刻々と彼自身は、自分の死が近づいていることを知った。四日後、十一月二一日(金)彼は自分の棺の製作を依頼した。(つづく)


聖書研究

2015-05-12 02:54:54 | 大分中央ウィークリー

創世記21章7節である。「サラはまた言った。『誰がアブラハムに言いえたでしょう サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました 年老いた夫のために。』」という。この時代といわずいつの時代も、不妊の女の悩みは深い。奴隷の側女に、その子イシュマエルを産ませたのも、その悩みが原因であった(16:2~4)。 

しかし、自分に子が生まれると、単純にその悩みがなかったかのように振舞う。いや振舞える。ここの「しかし」には、わたしたちは、サラの「嘲笑」が「喜びの笑い」に変わる大いなる発想の切替えを見ることができる。神の側では、神のご予定通りにたんたんと事が進むのである。神のご計画は単純ではないが冷静である。人間社会の神の歴史はかくの如くである。 

8節である。「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。」という。この乳離れは、われわれが常識的に考える生後Ⅰ~2年の乳離れの意味ではないようである。「盛大の祝宴」という感覚が不似合いである。盛大な祝宴にふさわしい子供の成長を見たときを定め、この祝宴を持ったのかもしれない。 

日本には七五三の儀式がある。人間の社会は、時代が進んだからといっても、変化しないものがある。人間社会の組織や構造は変化し、祝いの方法は時代によって変化するであろう。しかし、生きる形態を保持する文化的なものはそんなに変化しない。子供の成長を祝う親の気持ちは変わらない。「盛大な祝宴を開いた」とは、時代を超えた一種の親しみを覚える。

 


牧 会 通 信

2015-05-12 02:49:22 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第9歌(カッコ内は筆子、その14)

◯石棺(はか)の間には火がばら撒かれてゐて、それで墓はみんなすつかり灼熱させられ、いかなる技術も鉄をそれ以上灼熱させることはできなかつた。

すべての墓の蓋が持上げられてゐて、拷問に苦しめられている悲惨なものたちにふさはしい、激しい悲嘆が発してゐた。

わたしは言つた、「師よ、これらの石棺(はか)の中に埋葬されて、悲痛な呻きを聞かせてゐるのは、いかなるものたちですか?」(ここまで前回)

◯すると答えた、「ここにはあらゆる宗派の異端の長(かしら)が、追随者たちとともにゐて、信じられぬほど多くのものが、これらの墓に詰込まれてゐるのだ。

似たもの同士が一緒に埋葬されてゐて、墓の熱さには強弱がある。」さう言つて師は右手に向ひ、

わたしらは苦悶と高い城壁の間を進んでいつた。(この項終わり)

(次回、ダンテの「神曲 地獄」編 第10歌)

 

◯2015年5月10日は、今年

の第十九主日。日聖協の「聖書愛読こよみ」は、箴言10章1~12節、その2節「不正による富は頼りにならない。慈善は死から救う。」という。「慈善は」という「慈善」とは、ここでは不正の富の反対語である。正しく獲得した富は、人を死から命へ生かすと。わたしたちの日々の生活のあり方を考えさせられる。人のために役立たない富は、不正の富である。

 

◯写真は、牧師館応接間から見た大分県立美術館である(5月8日午後3時ごろ撮影)。


プロテスタントとカトリック

2015-05-04 23:27:55 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(310)

4.近代の教会の夜明け

―宗教改革―スコットランド

(さらに彼は自分の魂のためにはしばしば詩編を読んでもらい、慰めを受けていた。四日目、11月14日(水)、朝7時頃、彼はベッドから起き上がったので、側近たちは驚いて、静かに休むよう頼むと、彼は言った。「わたしは、今日は安息日だと錯覚していた。昨夜中、キリストの復活について瞑想し、それを語って、自分も慰められたいと考えていた。」と彼はなおも、キリストによって恵みと祝福を追い続けていたといえる。17日(土)には、エディンバラ教区の主な教職たちその他の人々をベッドの周囲に集わせ、「わたしの最期の日は近づきつつあります。(ここまで前回)

~わたしはこれによって、その重いつとめを終え、わたしの様々な苦しみと悲しみから解き放たれて、主キリストの御許に行くことを望んでいます。しかしわたしの心から願いは、~神の言葉の真実とその教養のほか何をも語るまいと願っていました。多くの会衆のうちにはわたしの説教の難しさに不満を抱いた人々があったようですが、わたしはそうした人々を疎み嫌ったことはなく、そうした人々を導いて、神の秘められた御言葉の真理を悟らせるように骨折っていたことは神の知っておられるところです。~わたしの良心も証します。~神の権威を拒む人々、また真理を捨て去った人々を警戒しなさい。これ以上語ることは健康が許しません。」と。(つづく)