創世記21章6節である。「サラは言った。『神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。』」という。既述の17章17節「笑って」(資料J典)と18章12節「笑った」(P典)と均衡を保ちながら、ここE典によってのこの「笑い(イサク)」という言葉は、著者が改めて「イサク」の名の説明を試みている。
この「笑いをお与えになった」の原文は、「笑いを造られた」である。この文章には、跡継ぎ「イサク」が神の干渉によって実現したことへのアブラハムとサラの側に深い反省を誘発させているのが見られる。その結果、神だけがなしうる恵みの業として、彼らを喜びへと誘い込むのであった。
7節である。「サラはまた言った。『誰がアブラハムに言いえたでしょうサラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました 年老いた夫のために。』」という。この時代といわずいつの時代も、不妊の女の悩みは深い。奴隷の側女に、その子イシュマエルを産ませたのも、その悩みが原因であった(16:2~4)。
しかし、自分に子が生まれると、単純にその悩みがなかったかのように振舞う。いや振舞える。ここの「しかし」には、わたしたちは、サラの「嘲笑」が「喜びの笑い」に変わる大いなる発想の切替えを見ることができる。神の側では、神のご予定通りにたんたんと事が進むのである。神のご計画は単純ではないが冷静である。人間社会の神の歴史はかくの如くである。