創世記22章3節である。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。」という。ここに、わざわざ「朝早く」とは、翻訳者が特別な時の到来と見ているようである。原文のヘブライ語を見ると、朝早くの「早く」がない。普通に「朝起きて」というよう言葉使いになっている。「そして、彼は、朝起きて、」といつものように普通に「起きた」というように読んだ方がいいのではなかろうか。
ここでは、1節に「神はアブラハムを試された」ということばから始まっているから、彼は信仰の試練にあっている最中と見られる。従って、確かに彼の夜は、普通の夜ではなかったであろう。それにもかかわらず、神への服従と信頼に心に決めて夜眠り、普通に「朝起きて」神のご要求に従いつつ、何か神ご自身の御心を示されるのではないだろうかと。淡々と薪の準備をして二人の若者を従えたのであろう。
22章4節である。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、」という。「三日目になって」と。まる二日間歩いた。三日目になってどれぐらい歩いたのかは想像に任せる。歩くのが普通の時代であるから、これくらいで、60~80キロというところは一休みの距離であったのかもしれない。
しかし、休みどころではない。「目を凝らすと、遠くにその場所が見えた」と。予定の場所に来たという、いよいよ神様からのご命令を実行に移さねばならない。やっと得た一人の息子の命をささげねばならない試練である。遅疑逡巡、複雑な心境であったに違いない。信仰的決断がここに来て試さると見るべきであろう。