標高330mのモノローグ

富士山の10分の1、東京23区最高峰の10倍の山間に暮らして20年。地域の自然や思いを綴ります。

夕日を浴び伸びた影法師。世界でひとつのもう一人の自分。

2019-01-25 08:22:39 | 日記
だいぶ日が延びた。今日は強風が吹いていたが、陽ざしは明るかった。16時過ぎでも西に傾いた太陽は明るい。天気予報によると、昨日から東京地方の日没時刻は17時台になったという。

タロ(犬)の散歩道の緩やかな下り坂で、背中に日没直前の太陽光を浴びるところがある。今日は16時過ぎで、タイミングよく背中に西日が当たっていた。私の影法師は、少なくとも10mは伸びていた。


夕日を浴びながーく伸びた影法師

よくよくみると影法師は、まぎれなく私だった。影なのでまったく口・目・鼻などは分かる由もない。しかし、伸びてはいるが、その輪郭は何十年間と鏡や写真で見た私に違いなかった。影も世界で一つの存在なのだと、しばらくタロの影と私の影を見つめていた。

帰宅後、ネットで“影法師”ということばの由来を調べたが、確固たるものは得られなかった。“法師”とは、仏教経典では人の師となるほどの学識・経験を備えた僧侶に対する敬称とのこと。また、僧侶全般に関する呼称、僧侶姿の呼称。中世以前においては、一人前でありながら自らの坊を持たない僧侶のことを指したとあるという。使われ方や時代によりニュアンスが異なるようだ。
そして、転じて人物一般の呼称、また、それらに似た物に対する呼称となっているとのこと。

次のような興味ある解釈もある。
ドイツ語でドッペルゲンガー(Doppelgänger)という言葉があり、「自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象」とのこと。「自分とそっくりの姿をした分身。第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所に姿を現す現象を指すこともある。超常現象事典などでは超常現象のひとつとして扱われる」という。日本語でいえば幽霊もその一つかもしれない。

今日見た影法師は、私が移動すると、先に進むか付いてくる。光が無ければ消える。しかし、常に私の分身で親しみがわく。
子供の頃、影踏み鬼という遊びを行った。影を踏まれないように逃げるのに必死だった。まだその頃は、影に対する感慨はなかったが、子供ながら踏まれると、何となく心の痛みを覚えていたようにも思う。

散歩の帰り道の上り坂、すでに日は沈み、影法師はなかった。昼間ほど強い風ではなかったが、名残の北風が冷たかった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 林野火災のため出動した消防... | トップ | 昨日の記事に写真を添付しま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事