昨日、「いじめを苦に母子心中した父親が市長・教育長あてに、調査を求める要望書を出した」というニュースが流れた。
いじめは学校も把握し、保護者とも話し合っていたが、学校や教育委員会は、事態の深刻さに十分な対応をしなかった。
このため母親と長女は体調を崩し、精神的に追い詰められ、昨年11月に母子が無理心中をしたという。
教育や福祉だけではないが、ある課題への対応が不十分なために大切な命が失われるということは、絶えない。いじめ、パワハラ、モラハラ、長時間労働など自死至るケースが目につく。
これらに共通するのは、本来課題に正面から取り組まなければならない側(学校や福祉施設、会社、行政機関など)の“事勿れ主義”や“穏便に”という姿勢の表れではないかと思う。
“事勿れ主義”を広辞苑では「(『事勿れ』は、これという事件がないように、の意)ひたすら何事も起こらず無事ばかりを望む消極的なやり方。」とある。
また、同様に“穏便”は「おだやかなこと。かどがたたないこと。」となっている。
とくに組織の中では、上位に行けば行くほど、そう願うようだ。
私が中間管理職として勤めた職場で次のようなことがあった。
課長として赴任した初日だったが、課長席に座り書類等を机の引き出しにしまうため開けたところ、奥には封筒があった。
その封筒の宛先は前任課長宛てで、サービスの利用者からのものだった。
すでに開封されていたので、前課長は目を通していただろう。中を読んで驚いた。
サービスに係る苦情申し立てであった。この組織では課長が苦情処理の責任者だったからだ。
私が赴任したのは4月1日だった。その手紙が書かれたのは正確な日付は忘れたが3月中旬だった。その時期は、移動の内示がされた後だった。
前課長は悩んだだろうが、自らの安泰を選んだのか。移動に係る事務引き継ぎの際には、この苦情申し立て書の存在の申し送りはまったくなかった。
この申立書を読んだ直後は、切なさというか情けないというか、もやもやした気持ちになったのを覚えている。同時に、これは取り上げなければならないという気持ちも沸いてきた。
この苦情の処理について、私の上司は言葉には出さないが、“穏便に”というニュアンスがあったのは歪めない。私はその意向を忖度しようと思えば、できたのかもしれない。しかし、実際は組織あげて苦情として取り上げ、第3者委員に依頼・相談しながら対応した。結果の良し悪しは疑問だが、申立人と管理者と話し合いの場を設け、和解ということになった。方向としては“穏便”だったのかもしれない。しかし、そのプロセスにおいて、第3者委員の活用と申立人と管理者の話し合いができたのは評価できる点だと思う。
今日の主題からそれた。本題に戻ろう。
自死という結果に至らないためには、“事なかれ主義”“穏便に”の観念で動くのではなく、課題が発生した初期の段階で取り組んで欲しかった。このとき、“いじめ”の事態は、ネガティブで忌み嫌うもので“問題”ととらえがちだ。しかし、たとえネガティブな事案でも、“課題”として捉えたらどうだろうか。いじめをする人にとってもその行為を行ってしまうのは“課題”だ。いじめを受ける人にとっても“”課題だ。両者の保護者にとっても“課題”だ。そして、対応する学校側などにとっても“課題”なのだ。“問題”ととらえると、どの立場の人もネガティブで、忌み嫌う、厄介なものとしてイメージしてしまう。
“問題”としてではなく “課題”として捉え、ポジティブな方向へと向かうというスタート地点に立てばよいのではないかと思う。
いじめは学校も把握し、保護者とも話し合っていたが、学校や教育委員会は、事態の深刻さに十分な対応をしなかった。
このため母親と長女は体調を崩し、精神的に追い詰められ、昨年11月に母子が無理心中をしたという。
教育や福祉だけではないが、ある課題への対応が不十分なために大切な命が失われるということは、絶えない。いじめ、パワハラ、モラハラ、長時間労働など自死至るケースが目につく。
これらに共通するのは、本来課題に正面から取り組まなければならない側(学校や福祉施設、会社、行政機関など)の“事勿れ主義”や“穏便に”という姿勢の表れではないかと思う。
“事勿れ主義”を広辞苑では「(『事勿れ』は、これという事件がないように、の意)ひたすら何事も起こらず無事ばかりを望む消極的なやり方。」とある。
また、同様に“穏便”は「おだやかなこと。かどがたたないこと。」となっている。
とくに組織の中では、上位に行けば行くほど、そう願うようだ。
私が中間管理職として勤めた職場で次のようなことがあった。
課長として赴任した初日だったが、課長席に座り書類等を机の引き出しにしまうため開けたところ、奥には封筒があった。
その封筒の宛先は前任課長宛てで、サービスの利用者からのものだった。
すでに開封されていたので、前課長は目を通していただろう。中を読んで驚いた。
サービスに係る苦情申し立てであった。この組織では課長が苦情処理の責任者だったからだ。
私が赴任したのは4月1日だった。その手紙が書かれたのは正確な日付は忘れたが3月中旬だった。その時期は、移動の内示がされた後だった。
前課長は悩んだだろうが、自らの安泰を選んだのか。移動に係る事務引き継ぎの際には、この苦情申し立て書の存在の申し送りはまったくなかった。
この申立書を読んだ直後は、切なさというか情けないというか、もやもやした気持ちになったのを覚えている。同時に、これは取り上げなければならないという気持ちも沸いてきた。
この苦情の処理について、私の上司は言葉には出さないが、“穏便に”というニュアンスがあったのは歪めない。私はその意向を忖度しようと思えば、できたのかもしれない。しかし、実際は組織あげて苦情として取り上げ、第3者委員に依頼・相談しながら対応した。結果の良し悪しは疑問だが、申立人と管理者と話し合いの場を設け、和解ということになった。方向としては“穏便”だったのかもしれない。しかし、そのプロセスにおいて、第3者委員の活用と申立人と管理者の話し合いができたのは評価できる点だと思う。
今日の主題からそれた。本題に戻ろう。
自死という結果に至らないためには、“事なかれ主義”“穏便に”の観念で動くのではなく、課題が発生した初期の段階で取り組んで欲しかった。このとき、“いじめ”の事態は、ネガティブで忌み嫌うもので“問題”ととらえがちだ。しかし、たとえネガティブな事案でも、“課題”として捉えたらどうだろうか。いじめをする人にとってもその行為を行ってしまうのは“課題”だ。いじめを受ける人にとっても“”課題だ。両者の保護者にとっても“課題”だ。そして、対応する学校側などにとっても“課題”なのだ。“問題”ととらえると、どの立場の人もネガティブで、忌み嫌う、厄介なものとしてイメージしてしまう。
“問題”としてではなく “課題”として捉え、ポジティブな方向へと向かうというスタート地点に立てばよいのではないかと思う。
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