大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

神様の神器 ③ 弓と神道、弓と言霊のつながり

2024-01-22 05:37:00 | 神仏について

弓について書いていますが、今日は弓道と神道の繋がりや言霊の中の弓道について書いてみます。写真は、↑十里桃花の神様から〜笑。(俳優さんがタイプとかは全然ないですよ😅)


弓矢の弓部分には真竹や黄櫨(こうろ)を使うようです。黄櫨からは黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という天皇陛下が重要な儀式の際に着用する、「黄櫨染」色の袍のことを思い出します。天皇しかご着用が許されないこの衣の色である黄色は陰陽5行の真ん中の色でもあります。


  


弦輪(つるわ)は、弦の両端の、弓弭(弓のはず、上下端部分)に掛ける輪の部分で、上側を日の輪、下側を月の輪といい、日の輪は陽であり赤い布、月の輪は陰であり白い紙を巻いてあるようです。弦を弓に張るには人の調和が必要だと昨日書きましたが、弓の上下の弭にかける弦の輪には、日月の陰陽☯️があったのですね。




弓の弦の素材は神道と深い関係があり、昔は苧(からむし)や麻などだったようです。大麻は罪穢れを祓う聖なる植物として、神宮大麻や注連縄(しめなわ)など、様々な神事と関連してあらゆる場面で利用されています。


弓矢の矢の先端に取り付けた石器には太古は黒曜石などが使われたみたいですね。黒曜石は霊的な石です。鳥やウサギなど、小動物の狩猟だけでなく、御守りなんかにも使われました。太古はとても貴重だったみたいです。



弓矢の素材をひとつずつみても、神事と縁があるのがわかります。


大相撲の横綱の化粧まわしにも弓弦と同じく大麻が使われているようですが、相撲も神事です。その相撲の中にも弓取式(ゆみとりしき)というのがあります。




また、京都の上賀茂神社では、烏(カラス)相撲という奉納相撲が行われており、土俵上で神職が烏になり、弓矢で追い回すという神楽の後、奉納相撲を行うみたいです。

弓矢とカラスの組み合わせとは、神武天皇vs長髄彦の戦いを想起させます。


弓は流鏑馬などの神事でも使われ、また、破魔矢などをお正月に買う人もいると思います。




次に、弓に関する言葉についてご紹介します。


「弓」に関する言葉は今も実は沢山あるようなんです。

自分の持っている技術や情報を明かすことを「手の内を明かす」といいますが、「手の内」とは、弓を持つ手の整え方からきています。内は整えるということかぁと感心します。

また、「かけがえが無い」という言葉の「かけ」とは、弓道で右手にはめる革製の手袋(弽:ゆがけ)のことだったり、

「矢面にたつ」「的をはずす」「図星」など、弓に由来する言葉は沢山あります。

相撲の白星、黒星なんかも的からです。




また、俗語かもしれませんが
「やばい」のヤバは矢場のことで、弓矢の置かれた場所が危険だからのようです。

弓道とかをしていなくても、神様のご神器である弓が、意外にも日本人の生活の中や言霊に深く残されている不思議は、とても面白いなぁと思いました。


あ、


ヤバい⁉️


また、マニアックになってしまった。





反省、反省。😂



【写真は全てお借りしました】


神様の神器 ②弓の弦について

2024-01-21 04:55:00 | 神話・物語・本から
弓の弭(はず)について昨日は書きましたが、その続きで今日は弓や琴などに張る弦について書いてみます。


弓は、神器であり、武器にもかわります。日本神話だけでなく、世界の神話でも弓は描かれます。


アポロン神

弓には、弦をかけます。弦を張った楽器の琴についても以前書いています。

弓も琴も神様の神器だというのは、弦を指でハジいて揺らし、それに祓の力があるからです。




お釈迦さまの弟子で琴を上手に弾くソーナさんのお話をご紹介します。

霊鷲山の山中では、ソーナさんがいつも精進して修行に励んでいました。

しかし、ソーナさんの熱意とは裏腹に懸命に取り組んでも悟りに至れるような気配はありません。

ソーナさんは意気消沈します。

「お釈迦様の弟子の中でも、一番といっても過言ではない程熱心に修行に取り組んでいるのに、未だに欲望は無くならないし、悟りに至ることができないではないかなぁ、、。😞

修行などやめて気ままな生活をしていたほうがいいんではないだろうか?」


そんな彼の心の叫びを、お釈迦さまは耳にし、彼を呼び寄せることにしました。

「ソーナ。最近あなたはこの道を捨てて、元の生活に戻りたいと思っているらしいですね?」

「何故その事を知っていらっしゃるんですか?」

ソーナさんは、はじめはびっくりしましたが、正直に胸の内を明かしました。お釈迦様は、彼の話を聞き終わると、このように言いました。

「ソーナ。私の質問に、正直に思うように答えてみなさい」

そう言うと、お釈迦さんは、彼に対してこう尋ねました。

「ソーナ。琴を弾くのがとても上手らしいですね。」

「はい、、」

「琴を弾く時、弦が硬いと良い音は出ますか?」

「いいえ。良い音は出ません」

「では、弦が緩いと良い音がなるんですね?」

「いや。単に緩くすれば良いというものでもありません」

「では、一体どうしたら良い音がなるのでしょうか。」

「あまり緩めすぎてもいけません。張りすぎてもいけません。強すぎず、弱すぎず、琴と弦の具合を見て、しっかり調整しなければ本当に良い音はでません」


そこでお釈迦様は、笑みを浮かべました。


「まさしくあなたが今言ったように、精進するのも張りつめすぎると、気持ちが高ぶってしまいます。また反対に、緩みすぎても人を怠惰におとしめるのですよ」

その言葉を聞いたソーナさんは笑みを浮かべて喜び、この琴の喩えの教えをしっかりと受けとめました。


以上。

ソーナさんはお名前のようですが、ソは流す意識、ナはつかむ意識のこともいいます。


二つの極端な行いに偏らない「中道」を、琴を上手に弾く「ソーナ」さんに、弦の張り方で教えたとしたら、その人に一番わかりやすい方法で説いて悟らせるお釈迦さまは本当に素晴らしいです。


弦の張りを弱すぎず強すぎず、調整することは今の言葉では、チューニングです。

中にいくぅ。😚


弓に弦をかける行為にしても、弓に合わせて弦を適切な長さにしないといけません。大きな弓に1人で弦をかけるのは難しく、弓をたわめて弦を懸けるのには、要する人数によって、三人張の弓、五人張の弓というようで、弓の強さを示す名とされるみたいです。


難しいことも3人、5人で弦張る、いや、頑張ると丁度良い感じに出来るし😊、

何より、神器を作り上げるには、人の調和が必要ですね。😌


神様の神器 ① 弓の弭について

2024-01-20 06:12:00 | 神話・物語・本から

神武天皇即位紀の際の絵で、よく出回っているのがこちら↑です。弓の弭(はず)に鴉が止まった事により戦況が変わります。


この弓🏹の弭(はず)ですが、長髄彦にとってはこんな「はず」じゃなかった、なんて感じだったのかなぁと思います。この弭は、弓の両端の弦をかける部分、ゆはずのことであり、本弭、末弭とも、弓へんに耳と書きます。




耳は、漢文では、「~のみ」と読みます。

「~而已」も、「のみ」です。而已は、「~にして已(や)む」つまり、「~で、おしまい。それ以上言うことはない」ということです。その「而已(ジイ)」が一音に発音されて「耳(ジ)」になったようです。


弓➕耳、弭は会意文字なので、弓を使うのは、もうおしまいにしようよ、という意味もありそうですね。弓は神器であり、武器でもあります。


孔子は「60にして耳に順う」といいました。他人の意見に反発を感じず、素直に耳を傾けられるようになると説明されていましたが、私には、内鳴る神霊の聲、内奥からの魂の声が聴けるようになり、その聲に従順になることかなと思っています。


内鳴る声、内奥からの聲は、心も身体も明鏡止水のような静止状態になった時に聴こえるのものかもしれません。


この、弭の漢字を使った語に、弭化(みか)があります。人心によって知らず知らずのうちに蓄積した負のエネルギーを化して無くすこと、災刧を未然に防ぐことと理解しています。この弭化」の為に静坐は切り離せないと感じています。


弭兵(びへい)という言葉にも弭は使われています。これは、兵(いくさ)を弭(や)める会議のことをいいます。


弓を力一杯引いた状態で溜まったエネルギーを想像します。




弓の弭(端っこの部分)の弦と弓を繋ぐ部分は、人の指が矢を放つまでエネルギーをぐっとためて耐えている部分ともいえます。


しかし、一旦指を放つと、矢は飛んでいき何かに刺さります。負のエネルギー(人心の乱れや欲心)が溜まったあと、放たれた先に命中🎯するところは、やはり、相応の負の結果かな。悪因悪果。


なので、溜まりつつある時に止める、弭が耐えられなくなるまで弓を引き切らないように自省するのも弭化に繋がる気がします。止めるか否かは人心によります。


人心が整えば、色んなことは改善されていく気もします。人心で引き起こされる戦争のような愚かなことは無くなる気がします。今は弓矢でなく、ボタンひとつで地球が吹っ飛ぶ爆弾ですが、それすら人の指一本にかかっています。


人心はそう考えたら怖いです。


神話で弓矢を放つのを止めるために、神武天皇の弓の弭(はず)に鴉(カラス)が止まったとすると、この暗示に、神武天皇から皇統を守り続ける日本🇯🇵の大きなお役目がある気がします。

戦いはしないこと。聖徳太子が唱えた、和を持って尊しとするその大和を、混乱する世界の中でも戦いは止めようよと声を上げ続けること。


こんな時代だからこそ、沢山の人心が浄化されて、清いエネルギーを大地にお返しし、様々な人災が弭化されるといいなと思います。地球のあらゆる積もり積もった負の人心を弭化するには、静かに無心の坐をする人が増えたらいいなと思います。


天皇陛下の祈りは日本と世界の安寧です。

日本は伝統を大切にし、皇統を守っています。生活様式の中や、言霊の中にも、様々な昔から大切にしてきたものが残っています。


戦いの愚かさはどの時代も怨恨となり繰り返されています。戦いの無かった大和の縄文人に、弓矢を使う狩猟民族が渡来してきたことが、日本の争いの歴史のスタートでした。


やったりやられたりの輪廻はそろそろ卒業し、全世界が平和🕊️になり、どの人も大いなるものと繋がる兄弟のように区別されない世界になるといいなと思います。


欲を削ぎ落とす

2024-01-16 09:57:00 | ひとりごと
期待しないということは大切だなぁと思います。
他人に期待しないことです。

期待は、一種の欲だなと気づきました。

全くの善意でやったりしたことが受け取る側が全く予想外の反応をした時にショックを受けたりするとしたら、それは、受け取る側に自分と同じように思って欲しいという独りよがりの欲があったという事かなと気づきました。


そう考えると、人の欲とは物欲とか食欲とか

かりやすいものだけでなく、

本当に無限に沢山あって、無欲にはなかなかなれないものだなぁ思います。


そうして、善意でのおこないさえ、全く違う受け取り方をされたりした際に一瞬感じるチクリと胸を刺す痛みには、またひとつ、自分の中にある欲する気持ち(=欲)を、他人を通して気付かせてもらえた痛みであり、それはひとつ学んだことでもあり

全て良かったなと思います。


自分がされたく無いことは他人にしない

自分が言われたら傷つくことは他人に言わない

というのはとても大事だけれど

自分が良いと信じたこと善意でさえ

他人がどう受け取るかを

期待する気持ちが少しでも

自分にあったとしたなら


それは、お節介かもしれないし

たまたま独りよがりの期待だったと

わかった際の心の持ち様は

さらりと、あー、

自分は欲を捨てきれていないんだなあと

流せるように、他人に期待しない事を学びました。


自分の心を守り磨くのは

静かな流れの川も止まっていないように、自分が気づいてなかった欲がわかれば直ぐに流し削ぎ落とすことかもしれないなと思っています。




煉丹炉 十里桃花より

2024-01-14 14:26:00 | 十里桃花

年明けから見始めた三世三生十里桃花58話を無事にみ終わりました。


何度も観ているから、特にハラハラすることも無く落ち着いて観る事ができました。

最後はハッピーエンド。良かったです。


色々あったけど、良かったなぁ。


そんな感じで終わりました。


私の生涯も、最期息を引き取るときはそうありたいなと思います。まだまだ、この世に生きたいですけどね😚 

そうしたら、あちらの生活がスタートしますね。♾️


修練で得た力を神様が薬に変える場面が何回か出てきます。薬は丹です。そしてその時、錬丹炉を使います。そこで、自らの力を取り出して薬草と力を炉で変成させて、丹を作り、苦しみの渦中にいる神々を救います。

まさに火による錬丹です。


自らの利己的な欲で、その炉を使ったりは神々はしません。必ず、瀕死の神を救おうとして、自分の力を差し出します。


また、瀕死の神は、自らの命を他を生かすために差し出し瀕死になっています。自己犠牲ではなく自己発露、その助け合いの連鎖が繰り広げられます。


そうして、神様は、苦しみの渦中の神様を救うのです。ドラマでは、炉は昆倫山の聖域にありました。


それを観ながら、

自分の胸に、そのような聖なる炉があって、自らの心の灯火を不滅の火に変えられると良いなぁなんて思いました。


ドラマでは、人間は神々からみたら何の力もなく、人間界は罰として行かされるような世界でした。

生まれる時点で、やり直しのスタートなんだなと思いました。


しかし、神々のような力(エネルギー)はなくても、自分の胸に聖なる場所を感じながら生きることは、人にも出来る、そう思っています。


神々は自らの修養の力を、炉の火の中に入れ強力な丹を作ります。血を吐いてしまうくらいですから、自神には相当のダメージがありますが、他を救うためには厭いません。


人も、胸、心臓あたりに、優しさや愛や誠を感じることで、ほっこりその空間が温かくなります。

神々のように修養の力を火の中の炉に入れなくても、人も胸に霊(ヒ)を感じて大切に守り、他者に優しくすることは出来ます。


この霊(ヒ)が自分の主となり、霊と交わり(十)、霊十(ヒト)に人が変成すると争いのない、助け合いの連鎖の優しい世界になりますね。😌


そして、そんな霊性を兼ねたヒトが、自らの心を私欲ではなく公のためにどんどん使うなら、それは、ドラマの神様のようなお働きが、仙術なんか無くても、この地球上で出来るということかもです。


そんなヒトが溢れる世界を地球の神様🌏は、待っている気がしました。