大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

伊奈波神社 in 岐阜

2024-03-01 06:35:00 | 神社仏閣

思いつきで岐阜まで一人バスに乗っていきました。伊奈波神社にあります、黒龍神社に参拝したくなり、気持ちにまかせ、家族に明日帰るからと言って、夜中に家を出ました。


家族の都合がなかなか合わないから、一人で行ってこよう、、と思い立ったらすぐ夜行バスを予約していました。


翌朝早朝岐阜に到着。岐阜は、数年前、白山中居神社を参拝して以来です。郡上の山奥にあります白山中居神社は3月末でも雪深かったですが、いなば神社は岐阜駅から徒歩で行けますし、そんなに寒くは無かったです。


なぜ急に行きたくなったのかはさておき、黒龍神は、私のイメージでは地龍神です。人が生まれるずっと前から、大地を形成した、そんな神様。大地が汚され削られたりすると全身で痛みを受けたりするのかもしれません。


大地は人間の罪の蓄積を引き受け耐えきれなくなり揺れるのかも。まるで、生きた龍体が溜まった膿に悶え悲鳴をあげるごとく。。


大地に人が落とした罪を引き受ける神様、そんなイメージが黒龍神にあります。お陰様、気づかれないお働きをする神様のイメージです。大地は生きていて、人はすまわせてもらえています。落とすなら感謝の気を。


岐阜の白山中居神社も、黒龍神と縁深い地のようでした。伊奈波神社に祀られます黒龍大神も、ずっとこの地にいらっしゃる神様のようです。






早朝でしたから、人もほとんど居なくて静かな空間でした。


伊奈波神社と黒龍神社だけ参拝する予定でしたが、これですぐ帰るのもなぁ、、と調べていると、伊奈波神社の背後にある金華山ロープウェイで金華山頂上に行けることがわかりました。

折角きたから、山の上にいってみることにしました。


金華山の山中の丸山に、実は旧伊奈波神社はあったようです。行って分かったことですが、金華山は昔は稲葉山という名前でした。それで、「伊奈波」神社なんだ!と急に親近感があがります。




母の実家の高知県高岡郡津野町にあります稲葉洞は、龍王洞で、昔から白龍神と黒龍神がおられるという逸話があり、同じ「稲葉」で、さらには、黒龍神!だと思ったわけです。


そして、金華山の登山道に、旧伊奈波神社跡地である丸山があるのをロープウェイ乗り場でみつけて、歩いて山道を登っていったのでした。


麓から15分くらい歩いたところでしょうか、そこには、烏帽子岩があり、昔のような社はないもののお祀りはこの地で継続されているようでした。そして、地質は龍体のようでした。

南半球海底の岩石層ってすごいなと思いました。地球創生🌏を感じました。金華山は、チャート、この岩石層で出来た山でした。





丸山到着です。山中、急に開けたゴツゴツした地の周りに生い茂る森を、ざわざわと何かが動く音がしました。


可愛いリス達が沢山🐿️駆け回り、小鳥が私の目の前を飛び近くにとまってくれました。この太古からの祈りの地にひとりでしたので、神社跡地にすわり、この小動物にとても癒されました。






帰りの新幹線の駅へむかう電車の中で、なんと、、ちりゅう、、という地名が案内板にでてきました。




黒龍神様、地龍神様、伊奈波神社の神様、参拝させていただきありがとうございました。🐉




夕焼けの歌

2024-02-28 11:56:00 | ひとりごと

魂の父であります竪山勲さんが、涙した歌だと書いておられたのが、島倉千代子さんの夕焼けの歌。


竪山さんは、ハンセン病被害訴訟、原告団のおひとりです。


お母さんを、幼い頃ハンセン病で亡くします。竪山さんの目の前で、お一人看取り、そして、ご自身も中学生の時、療養所に隔離されました。

お母さんは慈悲の方だった、優しかったと仰っていました。


竪山さんは、ハンセン病により母と、また自ら発症したことにより、父、ご兄姉、家族と生き別れ、国の政策で自らの人生を奪われた御方です。


この歌が沁み入るのは、すべての毛穴からなのかもしれません。すべての感覚が研ぎ澄まされている御方。


果てしなく優しくて

果てしなく厳しい


感覚が研ぎ澄まされ、

心で観て、

心で感じ、

心で発する。

その言葉も行動も。


いつかお空で竪山さんがお母さんにあったとき、

「よくがんばったね、いさお」

と優しい手で、息子の手を握るんだろうな。


みえない手は、今もずっと握っているとは思いますけど。


また会いたいな。魂の父に。鹿児島の父。



夕焼けの歌   島倉千代子


夕焼け空です お母さん
いっしょに眺めた 幼い日
握ってくれた手の中の
あのあたたかさ あのなつかしさ
もう一度 握りたい
お母さんのやさしい手
なんにもいえずに 泣くでしょうね

一番星です お母さん
明るい子供に なるように
教えてくれたあの歌が
今この胸に よみがえります
もう一度 聞きたいな
お母さんの歌う声
私もいっしょに 歌うのよ

わがままいいたい お母さん
生きてく悲しみ ありったけ
ぶつけて聞いてほしいのに
ああいないのね ああ遠いのね
もう一度 みつめたい
お母さんのやさしい目


心配かけたい 甘えたい




優しさと誠の神社参拝

2024-02-25 06:24:00 | 神社仏閣
早朝、夫からのラインでこの動画を見てと。

なんだか、これだと思えました。🥹

この方の純粋さ、津野山の時の妹をみてるみたい。😭😭

イワレ、とか、由緒、とか、立場とか、、そんなもの要らなくて、

ただ、

その土地への優しさと誠の神社参拝。





寒川神社参拝記

2024-02-17 11:35:00 | 神社仏閣

久しぶりの神社参拝記となります。

神奈川県相模國一ノ宮寒川神社です。

以前、職場で神社巡りが趣味だと話していたら友人が、それじゃあ寒川神社今度一緒に行こうと誘ってくれました。

私は、よく、ひとり神社参拝をしたりするので、あまり関東で誰かを誘って神社に行く事はないのですが、誘っていただけたので一緒に行く事にしました。

大きな神社でしたが、人も少なく、青森県のねぶたを思わせるはりこが飾られていました。


友人がいいます。

「パパと前に来た時は、誰も居なかったのよ。今日は人いるね」

私は、「ん!?」と感じました。

こんな大きな神社なのに、今日は人が少ないなぁと感じていたからです。

「これより少なかったの?誰も居ないなんて、人祓えじゃないかなぁ」

と私は言いました。

「うん、誰も居なかったよ。」と。

神社の歓迎の証で、太鼓の音がなったり、人が居ない神社に参拝出来たりするのは良い事らしいよと言いました。

色々話していると、友人のご主人のご実家の亡くなったお祖父さんは、新潟の由緒正しい神社の奧宮の神主だったというのです。

今は過疎で、神主も違うかもだけど、義理のお兄様は細々とお祀りしているとか。

また、友人自身の母方のお祖父さまは、福井の永平寺の小僧だったともいいました。

私は、永平寺にも行った事があり、常住坐臥の道元さんのことや、私も坐をしていることを話しました。

また、高知の津野山の神様の話しを友人にはじめてしました。

田舎で過疎で神社を守るのは大変かもだけど、きっとご先祖様やご自身のルーツには、深いご神縁があるから大切にしてね、きっと深いご神縁により、歓迎されて人祓えがおこったのかもね、と言いました。

友人は、私の話を聞けて良かったーと言ってくれました。

そしたら、拝殿を後にしようとしたら、ドーンと太鼓の音もしました。



自宅に戻って、今日私と神社で話したことを、ご主人に話したようです。すると、あんな山奥の神社をその様に言ってくれて嬉しいと言って、こちらの神社だよと教えてくれました。そちらの神社は新発田市の二王子神社(奧宮)でした。


後由緒、二王子岳に鎮座、山裾の本社に大 国主命、豊受姫大神、一言主命、熊野加布呂命を祀っている

老婆心ながら、マニアな私は調べて、神様のいわれを色々と伝えました😅

すると、今までそこまでとは思ってなかったけれど、私の話を聞いて、ご主人がとても喜んだようでした。

早速夏に、義理のお父さまと子供達も連れて皆で参拝に行く事にしたと言っていました。

いつか、私も参拝させていただきたいな🥹と思いました。


私にありがとうと言ってきましたが、こちらこそ、職場でも仲良くしてくれて、ご縁に感謝でした。


あ、、寒川神社のお話は、どこかにいってしまいました。申し訳ありません。とても、とても、素晴らしい神社でした。

御祭神は、寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)のニ柱の神を祀り、寒川大明神と奉称しています。 寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方をご開拓になられ、衣食住など人間生活の根源を開発指導され、関東地方文化の生みの親神様として敬仰されてきました。いわれはこちらより。



八方よけのご利益があるようで、四方の神獣もおりました。











また、狛犬はそれはそれは見事でした。




参拝させていただきありがとうございました。





坐と気質の変化

2024-02-02 06:16:00 | ひとりごと


自分の嫌なところは、自分で気付いている場合もそうでない場合もあります。

自分で気づいて治そうとしても、なかなか自分では治せない。染み込んでいるから。


ただ、坐をするようになって、穏やかになったと家族からも言われます。


気質を自分で無理矢理治すのではなく、坐が少しずつ気質を直してくれているのかもしれません。


エネルギーがある人ない人いますが、気が病になるのは、清浄な気が不足した状態かもです。


様々な外からの影響や育った過程で積もった塵のような妄想を含めた濁気に身体ががんじがらめに絡まってしまうのかな。


昔は、良いと信じていたことが、間違っていたように今は感じています。坐により自分の濁が見える化されます。


沢山反省しますが時間は戻せません。だから、気づいたその時から直します。


気質が変わると、自分が自分がという我が無意味で、りきまなくなります。


ただ、シンプルに、悲しんでいる人や病の人には寄り添うとか、優しさとか、全部おかげさまだとか、生かされていることが有り難い、そんな感情が自分の中に満ちてくる感じです。それはとても幸せです。


写真は坐している役小角です。座禅🧘ではなくで、坐は椅子にすわってこの形で物は持たずです。


敢えていうなら、手のひらを脛にくっつけて、舌の先を前の歯の後ろにくっつけて目は半眼にしてやります。時間も16分からスタートです。ただ坐る、それだけです。


坐はまだまだ未熟ですが、気質の変化についての実況報告でした☺️。



【写真はお借りしました】