大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

大象

2022-01-31 05:33:00 | 神話・物語・本から

猿と馬について以前書きましたが、象にいってみます。


無為自然を説いた老子の第三十五章に大象の文字が出てきます。


原文

大象、天下往。往而不害、安平太。

樂與餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見。聽之不足聞。用之不足既。


現代語訳


巨象にのって世の中を行けば進むのに妨げはなく、安らかで泰平である。路傍の楽の音と食餌は旅人と象の足を止めるが、道は無言のまま淡々と続く。道の距離そのものには味はない。目をこらしても見えないし、耳をすましても聞こえない。しかしその変化は無尽蔵である。

(保立道久訳)


訳は、訳す人の感性によりますから、著者の心とドンピシャはないと思います。


老子が大きな象に乗った絵がないかなあと探しましたが、見つからず、水牛に乗っている絵はありました。




象に乗ったかどうかはわかりません。何故象なのでしょうか。当時の貴重かつ陸上で一番大きな生き物だからでしょうか。


象には「かたどる」という訓読みがあります。


ものは形をとっています。そこから、「象」形文字が作られ、中国は甲骨文字から漢字になりました。


日本人も漢字が馴染みあるので、象形文字のこちらの動画はオススメです。


はじめはシンプルに、川や山、木や人、日や月、田や舎、犬や鳥や網など、人々の生活に密着したものを象ったんですね。


そして、次は目に見えない抽象的なものを象っていったのだと思います。象られた文字のおかげで、古代からの賢人の書を今も読む事ができます。


ただ、形のないもので、文字や言葉で表せないものってあります。抽象的なものを言葉にするのは難しい。「愛」だって、捉え方は人それぞれです。「宇宙」もあるのは知っているけれど、全体は把握できない。結局は、目に見えないものは感じるしかない。


宮沢賢治のオツベルと象という話があります。白象が出てきます。月を愛する美しい心の白象を、オツベルは我欲にかられ働かせ痛めつけます。白象とオツベルは会話をしているようで、会話が成り立たないのです。白象の言葉は、冷酷なオツベルには上滑りし伝わる事などないのです。


無為自然を説く老子の書は、短く簡潔です。しかし、老子が言いたい事は壮大で一部は見えても、全体ゾウをとらえるのは難しいと思います。現代訳も色々あって、象を大いなる「道」と訳しているものもあります。


水牛に乗る老子の姿は、日本語の「タオやか」な感じです。悠々として、周りの事象に惑わされず、ゆったりと微笑みながら動じないで進み行くイメージです。


老子の説く道はタオです。


老子の説く無為自然の奥深さは、大象のたった2語だけでも、沢山の含蓄があり、9×9の81章は、一生かけても理解や到達出来ない境地だと感じます。


私は漢文の素養がないので、誰かの訳に頼りますが、原文の漢字からいつか自分で少しでも感じとれるといいなと思います。


良い書からの学びは奥深く行き着くところがないと思います。


行き着くところがないからこそ、象るには難しく、それを老子はある一章の中の大象というたった2語にこめたとすると、老子の書が奥が深いということだけは、私にもわかります。


もう、何回も読みましたが、ずっと、これからも何回も愛読して行くゾゥ🐘。


無為自然

ありのままに、自然に素直にいられるようになるといいですね!








【画像は伊藤若冲の絵より】


悪口を言わない

2022-01-30 05:36:00 | ひとりごと

悪口を言わない。

これは頭ではわかっていますが自分を含め、悪口噂話を今までの人生でひとつも言わなかった人は少ないかもです。


反省をこめて、何故悪口噂話がイケナイのか?考えてみました。


私には、悪口は、波のない静かな水に小さい石をポンと投げるイメージがあります。


はじめは、小さな石なのですが広がるんです。周りもポンポン石を投げ始め、水面は揺れに揺れ真実も歪み何も映らなくなる。地震が震源から発生し、壮大な範囲にダメージが広まるイメージも近いです。人が死ぬ事さえある。


悪口を聞いた場合、聞いた方は、白いカミにペンキを塗り付けられたように、心の眼で、言われた方を見ることが出来にくくなります。


もしや、あの人そんな悪い人だったんだと巧妙な話に便乗する人もいるかも。


その人がまた、噂を流す。


悪口を言った方が、力関係で強かったり、人気者なら、長い物に巻かれよで、聞いた方もだんだんとよそよそしく言われた方に態度を変えてしまいます。


これが、虐めの始まりです。


ある時みんなが自分から引き潮の如くさる経験をした人がいるかもしれません。関わりの無い人も、話したことの無い人も急に挨拶さえしなくなる。


そんな環境にもし貴方が置かれたらどうでしょう?


子供なら学校いきたくない。行けない。

大人なら職場に行きたくない。行けない。


私なら


そうなったら、逃げます。逃げて合う場所を探す。その場所しかないとか思わない。自分を守ります。




最初は、ひとつの小さな石ころからです。


人の口から出る悪口噂話は、この類の石です。


自分の心の波を自分で静めることもせず、他人に波及させる行為が悪口、噂話、静かな水面に石を投げ込む行為が、虐め、差別を生み出します。


石が光る玉ならを水面に投げ込むと水面をキラキラさせて沈みます。玉は良い言葉、笑いなど。


それも波のように広がります。


何も言わないは静かなまま。これが実は一番いいかも。自分で感じられるから。


人を褒めるのは、玉を投げる感じ。心がこもった玉は宝珠ですね。


悪口ではなく、ここは言わないと本人が後々困るなと思う事、親が子を諭す時なんかの言葉は、本人にさりげなく言うか、言わずに気づかせるような自分になることですね。これは、難しく反省ばかり。



悪口、噂話は、他人に言ってしまうと、虐めを生んだり広める張本人になる可能性があります。


ヒットラーのなげた石。そこから最悪な波がうまれました。しかし誰も同調しなければ石はただ水に沈むだけでした。同調意識も怖いです。



虐めは卑劣な行為です。


卑劣な行為を生む張本人にはならないし、それに同調するヒトにはならないとみんなが決めると、素敵な世界になりますね。



あの鐘を鳴らすのはあなた

2022-01-29 05:43:00 | 神仏について

あの鐘。aの鐘。ひらがなの最初の音、アルファベットの最初のaが日本語のアです。


ひらがなの「あ」は、阿から象られました。


神話では、最初イザナギ、イザナミ様は、路島を生まれます。次に四国。四国の徳島は、「阿」波国です。世界では、アフリカを弗利加と書きますね。


吽の呼吸とありますが、最初の音「あ」と最後の音「うん」、口を開けるのと、口を閉める狛犬がいますね。



ところで、そのの意味は、山や川の入り組んだところ、らしいんですね。

はじまりの音「あ、阿」には、わかりにくいというイメージがあります。


キリスト教のアーメンは漢字にすると阿運みたいですね。


阿(わかりにくい)からはじまり、吽(おわり)に向かいながら人生を運んでいるのかな。


この運行のサイクルを人は何度も輪廻します。空海さんがおっしゃった、


生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し


というのは、同じ輪の中を何世も何世も開眼せずにぐるぐる輪廻することかなぁと思います。


輪廻を離れる事が出来ないから、生まれるのでしょうが、同じ所をぐるぐるせず、人が自分は霊であり、霊主体従に気づくのが次のステップへの扉を開けることに繋がると思います。


目をくらまされて始まりますが、最後まで神様と二人三脚、同行二人だと信じ、心の眼が開いたら、鐘がなるのかも。


そんなふうに考えると

和田アキ子さんの

「あ」の鐘を鳴らすのはあなた

って凄い歌かもって、また想像を膨らませます。


阿は、最初の一。まるで岩戸隠れの状態です。そして、マイナス一をプラス十にかえると鐘が鳴ります。


鐘を成らしたら、十の次は多分その次の十一に行けますよ。行けなかったら、一からまた始まり輪廻が終わることがないみたいにも感じます。


あの鐘の、「あ」は最初の文字で、地を這うところからはじまり、わからずぐるぐるする、サナギの人生からの脱却し、岩戸を「あ」け、蝶のように羽ばたくイメージさえしています。








十一は、十一面観音とかの十一です!!

最後は笑う観音様。明るくいましょう!


和田アキ子さんの11枚目のシングルが、

この歌なんです!

この歌の作詞が久悠さん。

出来過ぎではないですか♪  




因みに、和田アキ子さんの笑って許して♪も良い歌ですね。


阿の鐘は、目に見える鐘ではなく、干支でいうと、番目のトリ、酉、鶏。天照大神の岩戸開き、苦(九)難を開(八)いた後の、自然の音、天籟(てんらい、ten、十籟)かもって考えます。



岩戸を開いて、神の国にしましょう、日本は日の出の国ですから。阿の鐘を成らすのは、神様の分け御魂いただいているアナタ!アナタなんですよ!


って、アナタ、アナタ、アナタ、アナタ、を連発した氷川きよしさんが紅白で歌った、美空ひばりさんの名曲を思い出します。


正直、無期限休養は残念です。氷川きよしさん、kinaさんの声と歌唱力は天性のものだと思います。辛かったのを我慢されていたのかな、自分を出せて良かったなと思っていましたが、ゆっくり休んで歌いたくなったら、また歌を聴かせて欲しいです。



日本は良い歌が多いですね。。。



あの鐘を鳴らす人で溢れ、和気藹々とした世界をひとりひとり作ることが出来ると嬉しくなりますね!



昭和には名曲が多いですね。





遍く照らす神様

2022-01-28 04:57:00 | 神仏について

天照大御神様ですが、遍く照らす神様です。「らす」は、「羅や、良」と「統べる、主」の漢字の響きと同じです。

まずは、

についてですが、

網羅の羅です。

この言葉から浮かぶのが、

「天網恢恢疎にして漏らさず」です。

善は必ず栄え、悪は必ず滅びる、

天の網の目は一見粗いようだが、

決して悪を見過ごすことはない。 

悪行には必ず天罰が下るということで、

「恢恢」は、網の目の大きく粗いことです。


天は、全てを網羅して把握しているよ!




荏原神社にて

ということですね。閻魔大王とも繋がります。



羅は、罒糸隹、で成り立っています。目と糸(神の意図)、フルトリ(古くからある十理(道理)。

闇の中にいる人が、心の眼を神様と出合い開眼してゆくイメージがします。


神の分け御魂をいただいた、神様の赤ん坊の人間が、この世で何も解らない状態にさせられた後、精進して一人前に育っていくことを、羅の漢字は表しているんだと思います。


また、網羅の網は、悪さを網で捕まえるでだけでなく、善い事だって、一つ残らず網羅していると考えます。楽網という熟語をある本で見つけました。ハンモックにゆったり楽にしてるイメージです。


統べるには、


闇と光、陰陽、月と日、女と男など、水と火、真逆を合わすことにより、神様(キリスト教では「主」とも呼ばれています)の世界を和するイメージです。偏らない。


世界には、女の子が幼くして人身を売られたり、真っ黒いサリーを女性のみ灼熱の地で身につけなければいけない宗教上の決まりがあったり、また、女の子というだけで教育が受けられない国もあります。


男性は、田を耕す力持ちが男の漢字です。しかし、本来の神田を耕す為の力を腕力、暴力、威力などマイナスの方に使ったりする話はあります。


男尊女卑の時代は長く続き、世界をみても女性の地位向上は道半ばです。



性差におけるマイナス−の現状も、神様の意識に向かい和してプラス十となり、道祖神のように仲良くが理想ですね。

大きな和、プラス十が、クルクル風車みたいに、卍🌀、輪天しエネルギーを増すといいですね。







神様、太陽、月、地球、全てに感謝と、人も、自分と神様の和、自分と周りの和を合わせて生きることを大切にプラスの意識と言葉がこの世に溢れるといいなと思います。






時代の変化に期待する

2022-01-27 05:47:00 | ひとりごと

当たり前なんてこの世にはなくて、全てありがたいとよく言われています。当たり前と感じる環境は確かに有難い。


今は人をあやめてはイケナイは当たり前、法でも罰せられますし、法がなくても殆どの人はしません。


しかし、江戸時代や明治初期辺りまで、この当たり前は当たり前ではなかったです。


頭を垂れよ、無礼者!なんて言って、刀を振りかざしたり、藩と藩が自分の信条と違う!なんて、斬ったり斬られたりし、それを正義とした時代もありました。


今の時代の法律に当てはめると、そういう人達はみんな死刑ですね。

そんな感じなのに、昔はそういう人も罰せられず崇められたり、今でも、そういう国はあります。


過去世とかわかる方がいるようですね。私は知るのが少し怖いです。なぜなら、呑気に田舎で農作業したりして人生を終えてたら良いけれど、万が一、人をあやめてたり、

更には、無いとは信じたいけど、悪い殿様で民を見下し富を我が物としてのさばっていたり、悪代官だったりした日には、

何世も生きて償わなければならないから。


「人をあやめない」という当たり前の感覚でさえ、そういう感じでかなり近年まで当たり前ではなかったし、人により罪に問われない時代もあったのです。


人をあやめない、これは、自分も含まれています。


大人も子供も、自分も他人もあやめない。それが当たり前になる世界と、そういう世界に生きる事を有難いと思える時代がくるといいですね。


自分で命を絶つ人が多いのが、今の日本。


誰かがその選択をすると、世間は犯人探しが始まります。これは怖い。〇〇のせいで△△はその選択をした。辛い事がおこった時に、あなたのせいだと、他人から言われたくないのは誰しも同じ。ただでさえ、そういう辛い時には、自分の心を自分は責めがちです。


死を選んだ方は、あちらの世界で凄まじい後悔をするようです。〇〇のせいで、というふうに自分に近い人が自ら選択した死の責苦にもがいているのを非常に辛く感じるようです。


また、その選択をした自分のことを激しい後悔のもと猛省するようです。飯田史彦先生の生きがいの創造は死後の魂について教えてくれます。


死を選択するのは、今の最悪の状態で全てを止めてしまいます。振り子は振り切ったらまた逆に向かうのにです。


心が変わる可能性を放棄してしまった事を一番後悔するのは自分のようです。


自分をあやめない。命をあやめない。それが、時代が流れていく中で当たり前になる世界。自分で死を選択する人がゼロになる世界。生きることを否定しない、そういう有難い世が、時代の流れとともに到来するといいですね。