大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

茨木童子 ①刀の話

2024-08-30 07:15:00 | 神話・物語・本から

昨日の続きです。


「茨城」の地名は、土雲、都知久母(ツチグモ)征伐と深い関係がある話があります。この地名の茨城と大阪にあります茨木の響きはおなじです。茨木は、昔の摂津国です。


ツチグモ征伐とは、鬼とよばれた、いわゆる当時の「逆賊」征伐のようなもので、また、東北の蝦夷征伐にもつながる気がします。

青森のねぶた祭りで鬼がよく使われるのは、この背景があるのかな。




茨木童子(いばらきどうじ)の話も、鬼退治物語です。この物語には、鬼を切る刀がでてきます。鬼の中の鬼と恐れられた酒呑童子(しゅてんどうじ)の家来が茨木童子です。






酒呑童子を、退治したのは源頼光で、茨木童子を退治したのが頼光の臣下で、頼光四天王の筆頭、渡辺綱です。「源氏物語」の「光源氏」のモデルともいわれ、全国の渡辺姓の祖らしく、そして綱が使った名刀「鬼切安綱」は、「髭切」とも別名で呼ばれ、今では、北野天満宮のご神宝のようです。


渡辺綱は、嵯峨(さが)天皇の血筋を受け継ぎ、源綱から母方の渡辺の姓に変え、渡辺姓は摂津国から全国各地に広まりました。綱の子孫は渡辺党と呼ばれ、摂津国の武士団として住吉(住之江)の海である大阪湾を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄したようです。


この渡辺綱が退治した鬼、茨木童子は酒呑童子の家来です。親分の仇を討たんと、美女に変身し、綱の気を緩ませた末、その髪の毛を掴んで愛宕山に連れ去ろうとします。綱は、手にした名刀「髭切(ひげきり)」を振り下ろして、鬼の腕を切り落とします。後に失った腕を、次は綱の叔母に化けて取り返しにきたとの話も伝わっています。


まるで、阿蘇の霜神社でみた、切っても切っても復活する鬼伝説を思わせますし、また、鬼滅の刃の切っても切っても復活する鬼のようです。


この鬼を切った刀こそ、「鬼切安綱(おにきりやすつな)」別名「髭切」です。この刀は、その後、茨城県にあります竪破山にて、源義家が霊夢にみた刀(前回の内容)と繋がります。


渡辺綱が、「茨木」童子の腕を切り落としたという名刀と、

八幡太郎源義家が「茨城」で夢で黒坂命からツチグモ征伐に授かった太刀には、深い関係があり、同時期に作られたものか、同じようなものなのではないか?ということです。この2人には頼光(らいこう、と呼ばれた方)を通して深い「綱」がりがあるからです。


綱が使った刀は、まるで、「鬼滅の刃」で、家族を「鬼」によって惨殺された主人公、竈門かまど炭治郎が、鬼になってしまった妹を人間に戻すため、「鬼殺(きさつ)隊」に入り、

そこで出会った仲間たちと共に鬼と戦う話で出てくる日輪刀のようです。


特別な刀鍛冶が鍛えた「日輪刀にちりんとう」が鬼滅の刃には出てきます。



実際に、鬼とよばれた人を斬ったと伝わる刀は、数多く残されているようで、頼光や、頼光四天王というリアル鬼殺隊がかつていたことになります。

鬼滅の刃が人気なのは、鬼には鬼にならなければならなかった背景があり、そこには悪者としてだけでは片付かない悲しみを見たからだと思えます。
姉から借りた陰陽師の漫画に、怨霊として菅原道真公がでてきます。
安倍晴明は言います。
怨霊となっな道真公を、祓うのではなく、生きていた時の純粋な本当の自分を思い出させ、そして理解することなんだ、、と。

重い過去が残る土地では、悲しみで散った人々に想像を馳せてみる。今ある差別の問題にも繋がります。

まいた種は実となります。縁があるから、結ばれて、もつれた場合は、その糸を糺すようなことも、縁者がやらなければならないことなのかもしれません。

参拝にはそんなこともある気がしまています。

つづく



薩都神社 in 茨城

2024-08-29 08:56:00 | 神社仏閣

大分県佐伯は大和朝廷に抵抗し、サエギったとも言われ、山の佐伯野の佐伯と言われたとありました。義父の実家が佐伯なので、縁のある地に行こうと一昨年は九州をまわりました。

土蜘蛛が抵抗した地に行きました。そこは、数えきれないほどのトンボが飛んでいました。


「茨城」の地名の起りについて『常陸国風土記』には佐伯のことが記されています。

「山の佐伯と野の佐伯 が土地の人々に危害を加えるので、この悪賊を滅ぼすのに茨(うばら)で城 (き)を造った」という説です。山の佐伯、野の佐伯を土雲、都知久母(ツチグモ)ともよんでいます。

茨城の地名の由来のもう一つは、黒坂命が国栖(くず)たちを征伐する際に、彼らの住居に茨棘(うば ら)を仕掛けたからという説でした。国栖とは、ツチグモと同じようなまつろわぬ抵抗勢力です。


茨城県にあります竪破山の頂上にこの黒坂命が祀られている黒前神社があるようです。

この山はもとは角枯山(つのかれやま)と呼んだようですが、紀元前80年頃、蝦夷征服に出征していた黒坂命(くろさかのみこと)がこの地で病気になって死んで以来、黒前山と呼ぶようになったと、「常陸国風土記」で紹介されています


その後、江戸時代になって、八幡太郎源義家の故事にちなんだ岩に、西山公徳川光圀が「太刀割石(たちわれいし)」と名づけ、この名前からこの山を竪割山、竪破山と呼ぶようになったようです。


八幡太郎源義家の故事とは、寛治元年(1087年)、八幡太郎源義家が、奥州遠征(蝦夷討伐)の折立ち寄り、巨石の前で野宿をしていると、夢の中に「黒坂命」が現れ大太刀を差し出し、その大太刀を一振りすると、岩が真っ二つに割れた話で、太刀割石(たつわりいし)→竪破山(たつわりやま)となった、とか、、。

この地は、ツチグモ征伐の黒坂命が病に倒れた地であり、また、八幡太郎源義家が平安時代末期に奥州の蝦夷征伐の戦勝祈願した地など、戦いの伝説がのこります。

この竪破山にある巨岩は、刀で切られたような岩であり、鬼滅の刃の聖地みたいですね。


写真はお借りしました。


この夢の中ででてきた「黒坂命」は、茨蕀(うばら)(いばら)をもって土着先住民の国巣(栖)(くず)をほろぼし、また、陸奥の蝦夷を討ったとつたえられています。


茨城の薩都神社に行ってきました。薩摩が都、というような名前だなぁと思いました。こちらの神社は風光明媚な田舎に静かにたたずむ神社でした。周りの雰囲気は、どこか、阿蘇の霜神社に似てるねと夫と話しました。






薩都神社の御祭神は、
立速日男命(たちはやおのみこと)
風土記では、立速日男命の祟りに苦しんだ住民たちの要請を受けて、中臣鹿嶋連の祖・片岡大連が朝廷より派遣されて祭祀させたとあります。


また、常陸国風土記』には薩都神社の項が存在し、788年松澤の地に社を建てたのを創祀とする。800年には村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼之峰(日立市入四間町)に遷座、更に806年には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座したとありました。


参拝をおえると、不思議なことがありました。一枚ヒラヒラと空から白いものが落ちてきました。なんだろうと思って地面に落ちたものをみると、鳥の小さな羽なのです。この羽🪶、大切にします。




薩都神社のあとは御岩神社にむかいます。御岩神社の中腹には、薩都神社が祀られているし、御岩山頂まで登拝したいと思い、以前も御岩神社は姉と参拝しましたが、再度、今回は登山装備で御岩神社に向かいました。


薩都神社を去ってすぐ、大きな青鷺がもう少しで車にぶつかるかもしれないほどの距離で飛翔していきました。先日も、妹と大瀬神社に行った時に同じ事がありました。

不思議だなぁと思いながらも、薩都神社で手にした羽の主かもなと思いました。


貝殻の歌 ハンセン病元患者の竪山さんが奏でる歌

2024-08-25 07:13:00 | ひとりごと

ハンセン病元患者の竪山さん。

差別の歴史は長く、強制隔離の歴史も長いです。


13歳で隔離された竪山さん。

13人のらい予防法原告団は、天が遣わした使者だと私は思っています。

日本のハンセン病療養所の数も13箇所。


自分のこととして

自分がされたらどう思うか

自分が家族だったらどう思うか

果たして耐えられるか



15分弱の動画です。

ご覧ください。





烏食い神事

2024-08-23 10:17:00 | 神仏について
昨日のつづきです。


展示場で撮影した写真が、八咫烏の一枚だけ残った不思議。



烏食い神事を調べました。イザナギ流の祭りのある高知だけかなぁ、と調べていると、宮島にあります厳島神社にあるようですね。厳島神社では、神の使者である「腹の白いカラス」に団子を食べていってもらう神事のようで同じです。


山口の、岩国市美和町の阿賀の明神様でも、「烏喰い神事」が行われており、これも、厳島神社から伝わったとありました。


また、美和町という地名の由来は、活玉依姫を身ごもらせた若者の素性を探ろうとした父母が、麻糸を通した針を男の裾に刺しておいたところ、その糸は鍵穴を通って神の社の前まで続いていた。 

その麻糸が糸巻きに3巻だけの残っていたことから、この地は美和(三輪)と名づけられたとあり、このお祭りは、三輪山の大物主とも関係があるかも、なんて地名から思いました。


カササギは、カラス科だし腹の「白い」カラスとは、カササギみたいですが、腹の白いカラスはカササギの他にもいるようですね。




あいつは、腹黒い、とか、見た目だけで判断出来ない中味について腹黒は使いますが、腹白のは、真逆ですね。オセロみたいに、黒は白に。白は黒に。色んなことは、トキがたつまでわからないものですね。😌


七夕で織姫と彦星に橋をかける鳥がカササギ(鵲)です。昔は、このお話、男女の和合、陰陽、黒白の統合の話のように思っていましたが、2者の恋愛話だけでなく、坐をする私には、自ら自然に坐して身体の器が内鳴るものに和することだと感じています。


人の身体の腹側の任脈と背側の督脈を繋ぐために、坐中に舌を上顎につけることを鵲(カササギ)橋とも呼びます。


本当に大切なものを守るためには、他の何かを犠牲にしてもやむを得ないことを意味することわざが「背に腹はかえられぬ」です。ただ、「お腹が空いては戦さはできぬ。」わけです。


人は、食(腹が満つ)があるからこそ生きていける。その食への感謝、食を生み出す大地や海、国土に感謝する、そうして、腹は背に、背は腹にかえしながら、感謝の渦で身魂を満たすこととも感じます。


陰は、陽に。陽は、陰に。人の気が周り、大地のキとも和する。先ずは自ら和する。人の身体は、実は感謝により陰陽を中和させるための器なんだと、感じます。落とすなら感謝の気を。なるだけ気はあげる⤴️。


腹の白い、背は黒いカラスに団子や餅を食べてもらう神事は、人が生きる根源である食を生み出す大地や海への感謝に繋がります。


土佐神社で祀られる、加茂族の祖神アジスキタカヒコネ神は、八咫烏であり、アジスキタカヒコネは、ニギハヤヒと同一神かなぁ、なんて、昨日書きました。


ニギハヤヒは、日の出の神であり、事代主であり、また、恵比寿様。

また、三輪山は、日の出の神に感謝を捧げる、何モノかが御坐す大地。大物主神を祀ります。


日本には、八百万の神がおられ、沢山のご神名がありますが、名前は人がつけるもので、大元は名前などなく一つに統合される大地の運行かな。当たり前ではなく、何モノかが御坐さなければありえない。


その大地の鎮まる中で命が生かされていることに、今を生きる人が、ただ感謝する。

日本に残る奇祭といわれる烏食い神事は、そんな神事のひとつなのだと感じました。




八咫烏とイザナギ流 土佐神社へ

2024-08-22 08:56:00 | 神話・物語・本から

土佐国風土記によりますと、土佐神社の神、高鴨神はアジスキタカヒコネ命であり、八咫烏とも呼ばれます。


先日帰省して、私はイザナギ流のお祀りの展示が今されているというのでみてきました。妹も姉も、イザナギ流のお祀りに参加したことがあり、物部神道に関係があるのか、非常に興味深い伝統が残っていました。


いざなぎ流は、土佐国で独自発展した陰陽道の要素を含む民間信仰のようですが、中世や京都で発展した陰陽師の家元であるある土御門家賀茂朝臣氏と関係があるようです。


今回の帰省で、姉が陰陽師の漫画14冊を私に貸してくれたので、これを機会に読んでみようと思います。


私は、このイザナギ流のお祭りに参加したことがないので、色々写真に残して後で学ぼうとしていたのですが、何故か一枚以外写真が全て消えている、という謎の不思議がありました。笑


写真禁止は、とある10個くらいのお面のところだけでしたので、それは写真に残しませんでしたが、20枚くらいは学びのために撮影しました。

このお祭り、口伝のみで伝わるものなので、なにものかに、ダメと何ものかにいわれている?のかと、不思議に思い妹に聞くと、妹の写真は全部残っているとか。笑


何故かは何もわかりませんが、


その残った写真が八咫烏のこの写真です。



不思議なことがあるものだなぁ、と思いました。イザナギ流の特設展示場をみた後、土佐神社がとても近く、姉と妹と行ってきました。




 土佐国の一宮である土佐神社は、夏祭りとして志那禰様(しなねさま)というお祭りが近々あるようで、幟がありました。


志那(シナ)に禰(神職)を持つという意味かな。シナは昔の呼び名ですから、秦氏などの渡来人を想起します。秦氏に縁が深い土佐の長宗我部氏は土佐神社に縁が深く、長宗我部氏に関する逸話も土佐神社には紹介されていました。


とはいえ、秦氏の神社かというと、土佐神社が祀る神は秦氏が渡来した3世紀よりもっと古く、アジスキタカヒコネ、高鴨神とも一言主神ともいわれます。


アジスキタカヒコネは、八咫烏なんですね。


展示場で撮影した写真が一枚だけ、八咫烏の一枚だけ残った不思議。少し、色々がかさなり、八咫烏を深掘りしたくなりました。



高鴨神は加茂族の祖神です。奈良の高鴨神社は、昨年妹と参拝しました。イザナギ流のこの写真にあるように、熊野から飛来する八咫烏。

神武天皇が熊野で道に迷った時に吉野へ先導し助けたのが八咫烏です。

 

紀伊半島の山奥深くには、熊野三山と呼ばれ修験道の聖地があります。神話に暗示される背景とは。


調べていくと、八咫烏とウマシマジの関係を指摘するものがありました。神武東征には、饒速日命の子とされる、物部氏の祖、ウマシマジが関わります。高知は、饒速日命(ニギハヤヒ)が流されてきた話があり、また、ウマシマジに縁がありそうな馬路村なども安芸郡にあります。


このウマシマジの父ニギハヤヒ命は、土佐に配流されています。また、土佐に配流された高鴨神アジスキタカヒコネ神、つまり、事代主神を祀るのが土佐神社。また、昨年奈良に行った際、土佐に配流された逸話のある葛城一言主神社 (in 奈良

それらはバラバラに存在する逸話でなく、実は一つだったのかもという気がしてきました。


つづく