大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

吉田神社と白山の神様

2024-04-25 05:41:00 | 神仏について

白山の神様といえば、白山くくりヒメと言われていますが、隠された神様で、イザナギ様イザナミ様の間をとりもった神様です。記紀神話には、菊理ヒメと一度だけ現れ、白山神と同一のようにいわれていますが、それは、吉田兼倶様が歓請し、白山神=菊理比咩となったようです。

御神名というより、そのお働きを感じると、白山のあります福井県の氣比神宮(敦賀市)の別名は「笥飯(ケヒ)宮」で、ケヒとは、交・契・係・経緯の意味もあり、くくりヒメとは、仲を取り持つ、交わりや、契約、などのイメージも膨らみます。

以前、一年ほど前ですが、京都に行った際に、宿泊先と近かったので、ふらっと吉田神社にいきました。 


吉田神社は、平安時代に藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになり、鎌倉以降は、卜部氏(吉田家)が神職を相伝するようになり、室町時代末期は吉田兼倶吉田神道(唯一神道)を創始したようです。



吉田家は幕末に至るまで神道界に大きな権勢を誇ります。白山のご祭神については、平安時代末期に、大江匡房が「扶桑明月集」に、菊理媛神を記載したのが最初のようです。

その後、室町時代、応仁の乱が勃発した2年後の1469年に、吉田兼倶が編集したとされる「二十二社註式」において、「客人宮第五十代桓武天皇即位延暦元年、天降八王子麓白山。菊理比咩神也。」と記されているようです。


「八王子麓白山。菊理比咩神也。」


この時代背景をみると、戦いの世(100年続く戦いの時代の始まり)です。太古から人々が崇めた真っ白な霊山を、仲直りの神、間をとりもつ神、女神であると神道でしめしたことは、とても意味がある気がします。


八王子」といえば、八岐大蛇と結びつきます。八王子祭りは、八岐大蛇やそれを退治したスサノオ神を祭ります。全国の八王子の地名には、八岐大蛇伝説との結びつきがあります。


八岐大蛇伝説は須佐之男命が、人々を困らす大蛇を退治し、最後には、大蛇の尾からは一振りの剣が現れ「天叢雲の剣」と名付け、姉である天照大神へと献上するお話です。


「八王子麓白山。菊理比咩神也。


八は、様々な方向に荒れ狂う動き。それをいさめるには、統べる、「す」さの王のような一振りの剣、一つになる力が大切なのかもです。

多くの人民が犠牲を伴う戦争が世界でおこり、いがみ合っています。まるで、八岐大蛇の形相のごとく。


仲良くなりませんか?あの美しい白い霊山の女神のお働きが大切ですよねと白い山を女神にみたてて語りかけているかのようです。


白山の神のようにいわれている、菊理比咩様は、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持つシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われていたり、

ケガレを払う神格、

ご神名の「ククリ」は「括り」の意で、他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、

「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものと説明されたりします。

「潜る」。どんどん潜ると闇に到達し、更に潜るとそこは闇さえないひらかれた境地。世界。辛さ、苦しさの先は、それらの経験を糧にできる和の境地が開く。

八はスエヒロがり、開くともいえます。闇から光へ。光を集めた「白」で、表されるのかもしれません。無形の様々な光が全て合わさった全ての光を併せ持つ色が白。


白山は泰澄が奈良時代に開山します。十一面観音や、九頭竜に出会った逸話があります。

山は、様々な様相を見せ、刻々,微々とかわり、同じ状態ではないけれど、あたかも変わらない姿を日々みせます。


時には九頭竜神のような怖い様相、時には、十一面観音のような優しい様相。一面だけでは、けっしてないそんな霊山が白山であるのかなと思います。


くくりひめ様は、アメノミナカヌシ神、宇宙根源神のひとつのあらわれ、あるひとつの御姿である気もしています。


故郷に縁がある白太夫の度会家を調べ、伊勢の外宮に豊受大神が雄略天皇により歓請されるまえ、あの聖地では外宮の神職、度会家の氏神をまつっていた話をしりました。その元の神は、太古は、天照大御神の坐ます前から、アメノミナカヌシ神、宇宙根源神が坐ますような気がします。それが、「天叢雲の剣」をスサノオが姉である天照大神へと献上した話になっているのかもですね。空想ですけど。


繰り返す歴史の混乱の世にあって、たたかわない大切さを、優しい女神のお姿になりしらしめる、白神は、根源神、アメノミナカヌシ神のひとつの顕れかなと空想したりしています。



金櫻神社と昇仙峡 in 山梨県

2024-04-19 05:01:00 | 神社仏閣

妹が所用にて関東にきていました。


私の平日休みに、妹も空いていたので、急にどっか行く?という話になりました。


まだ参拝していない神社で、関東圏では、安房神社か金櫻神社に行きたかったので、妹に選んでもらいました。


桜シーズンだし、金櫻神社は昇龍と降龍がいるというのを妹が見つけ、辰年だし、金櫻神社にしようと言いました。じゃあ、決定❣️と、車を運転してもらいました。


金櫻神社はいいよと、ある方に以前に勧められ、ずっと行きたいと思っていましたが、実際に行くと素晴らしい神社でした。


山梨の昇仙峡は、水晶発祥の地みたいですね。

安いものは500円くらいで水晶が手に入ります。娘たちに水晶をお土産に買いました。


金櫻神社は桜が満開でした。櫻が神社名になっているだけあり、ピンクで染められたご神域は息をのむ美しさでした。


参拝して、さらに、山の頂上むけて緩やかな坂道をのぼりました。空気が変わる場所がありました。龍が悠々と泳いでご神域をお護りしているように思いました。


頂上では、富士山と金峰山を遥拝できます。天皇陛下が皇太子だった時に詠まれた和歌の碑がありました。私達はふたりしか居ませんでしたので、自然の中で坐をしました。


目の前に松がありました。


桜の時期🌸に参拝できて、良かったです。


金櫻神社からすぐの所に昇仙峡がありました。


そちらも素晴らしかったです。

ご神域をおまもりしているのでしょうか。めったにみることが出来ない黒鷺が、水辺にずっといて、神々しかったです。黒鷺は、一昨年前冨士浅間大社に参拝したとき以来、久しぶりにみました。冨士神界のご眷属なのかも、、ですね。


桜満開で美しい金櫻神社と近くの昇仙峡、その途中に夫婦神社もありました。


行きの車では、雨がパラパラ、、行きは富士山🗻は遥拝出来ないかもね、、なんて妹と話しましたが金櫻神社に着く迄には雨もあがり、蒼空になりました。神社からは、富士山🗻は遥拝出来ませんでしたが、雲の織りなす自然美を何度も見ることができました。


楽しかったね、、と帰途につく道中、いきなり🦌が車の前に飛び出してきました。急ブレーキです。鹿をシカなくて、、よかった。。後にも車が来てなくて良かった。。。

ホッと一安心。

ご神域にいる動物達も、命がけで横断するんですね。。


帰りの高速道路から、ようやく富士山🗻を見ることができました。🥹感動。


動画にしましたのでもしよければご覧ください。





白太夫 と白江姓 と白山信仰

2024-04-18 05:00:00 | 神仏について

前回の続きです。


土佐の大津でお亡くなりになりました、菅原道真公の忠臣、白太夫について書いています。

色々調べると、渡會春彦(白太夫)を始祖とします白江家の話がありました。


白江家が代々神主をしています、綱敷天満宮のご由緒より。


道眞公左遷の折り、綱織天神社にお立ち寄りになり、道眞公自らお側近くに渡會春彦以下一族を召され、これ以上の追従は大変苦しいものであるから、汝ら一族は此処に留まるべしと言われたようです。


また、渡会春彦の一族の春茂に、御自身の御影を書き与えられ、「今より渡會の姓を改め白江と名乗るべし」と申され、この春茂をはじめとする一族六名、主との別れはつらい事ではありましたが、菅公の遺命に従ってこの当地に留まることとなった。


とありました。

そして残った白江の一族は綱敷天神社の神主として今につづきます。


その中で、白太夫だけは、やはり、菅原道真公についていくと太宰府までいき、そして主なき後は、遺品を土佐のご長子まで運ばれて、土佐の長岡の大津船戸でお亡くなりになりました。


京都を追放され、壮絶な長旅、命の危険と隣合わせ、道真公が、そのように言われた胸の内、辛かったことでしょう。

しかし、その苦境にあって、まわりを気遣う優しさ、、。菅原道真様のお人柄がこの逸話からも垣間見ることができます。


この白江姓についてですが、


綱敷天社の後由緒の中に、更にこんな逸話がありました。


この名は当神社(綱敷天社)の周辺、特に大川周辺の古い地名であった新羅江(しらぎえ)がその名の由来ではないかともいわれています。 


対馬に残る地名にも白江とあり、この地名は古代に交流のあった新羅から来ていることが確かな事から、新羅江→シンラエ→シラエ→白江となったとも考えられ、同じような理由で当神社周辺を古代では白江と呼び、菅原道眞公はそこから白江の名をお付けになられたとも考えられなくはありません。

ここまで

白江ときくと、歴史好きは、白村江の戦いなんかを思い出すかもしれません。

新羅、唐vs百済、日本の戦いだと習いましたが、役小角を紹介する本を読んでから、新羅という国、また、新羅からの渡来人は、日本の存亡の危機を救い多大な影響を与え、白村江の戦いのあと、弱体化した日本の国が唐からの侵略を阻止したのにも貢献した話が記されます。

一方、時の権力と対立したりしてその形跡は隠されたのではないかとも思います。


スサノオは、須佐の王、新羅からの渡来、という説もありますし、神武天皇の兄(次男)は新羅の王になった、という逸話があります。

また(シラヤマ)のある福井あたりにも、新羅に縁がある人物の逸話があり、渡来伝説がのこります。


白山のあります福井県の氣比神宮(敦賀市)の別名は「笥飯(ケヒ)宮」で、祭神イザサワケは新羅の王子・天日槍とされますが、境内東側にはツヌガアラシトを祀る角鹿神社も建ちます。天日槍はツヌガアラシトが来てから5、6年後に新羅から渡来し若狭国(福井県南部)にも住んだようです。


太古は国という概念がなく、大陸も近かったでしょうし、同胞が海を渡り散らばり、また後に帰還した、などはしばしばあったのかもですね。


伊勢の地に、雄略天皇が豊受大神を歓請する前、元々外宮の地には、渡会家の氏神を祀っていた話がありました。


あの聖地の元の御祭神は、渡会家の一族が白江(シラエ)家を名乗ることから、白山(シラヤマ)信仰だったのかもです。

外宮には、多賀宮が小高い所にあります。

全国各地にあります多賀神社は、白山多賀神社と呼ばれることもあり、白山系の神社です。


画像はおかりしました


白太夫 と紀貫之 高知県長岡郡大津

2024-04-16 05:57:00 | 神仏について

前回の続きです。


白太夫が,お亡くなりになった高知県の長岡郡大津村船戸ついてです。


「和名抄」記載では、大角(おおつ)郷の地とありますから、大津は、大角だったのですね。高知県高岡郡津野町にあります津野山(昔は東津野山と呼ばれていました)は「角山」だと以前教えてもらいました。


この地は、長岡郡に属し、村の東南部に高天ヶ原(たかまがはら)山の小丘が広がり、三ッ塚(みつづか)古墳群、そのほかに六郎山(ろくろうやま)古墳などがあり、かなり早くから開かれた地だったようです。


長岡郡に国府(現南国市)が設置されると、大津はその外港として重要な役割を果しました。


土佐守として赴任した紀貫之は934年、土佐を離れますが、その「土佐日記」一二月二七日条に「おほつよりうらどをさしてこぎいづ」としるします。


この貫之が船出した大津は、「今ノ大津村ノ中ナル、鹿児崎ノ東北ニアタリテ、船戸ト称フ地アリ、コレイニシヘハ国府ヨリ出テ、乗船セラレシ所ナリトイヘリ」と記され、現舟入川左岸の舟戸(ふなと)の地に比定します。


この大津の船戸で、白太夫は946年2月11日にお亡くなりになります。今の建国記念日ですね。


一方、紀貫之は、平安時代、土佐の同じ地、大津の船戸をわずか12年前に離れています。白太夫は同じ地で命つきます。同じ時代を生きた人が、土佐に縁をもつんです。


高知県にはもう1つ大津村が土佐清水にあります。土佐清水あたりは、四万十川が太平洋に合流するあたりです。





大津村地検帳によれば、安楽寺や天神の表記があるようです。


安楽寺は、菅原道真公に縁深い筑紫にあります安楽寺に因んで土佐に、息子が建立した菅原道真と縁深い寺です。


そのほか、大津村は、島根にもあるみたいです。斐伊川水運の要衝で、奥出雲と深くかかわっているようです。


中世、島根の大津村には杵築大社(出雲大社)の神田のほか日御崎社(日御碕神社)や鰐淵がくえん寺なども存在します。鰐淵といえば、ワニ族などに関係ありそうです。


出雲大社から北西に9km。日御碕(ひのみさき)という高台には素戔嗚尊(スサノオ)の終焉の地と呼ばれる遺跡があり、また、須佐神社も終焉の地とされています。


大津村の地名だけでも色々調べると、おもしろいですね。



わたしだけかもしれませんが。。😅


つづく


渡会春彦様 白太夫

2024-04-11 05:11:00 | 神仏について

昨日のつづきです。

菅原道真公の遺品を太宰府から土佐へ運び、長岡郡船戸でお亡くなりになりました白太夫について書いてみます。



白太夫


↑こちらは日本浄瑠璃の人形の頭です。伝統芸能は、こういう素晴らしい御方を残していて、すごいなぁと思います。そちらでの説明↓菅原道真に仕えたという老僕。「天神記」や「菅原伝授手習鑑」などに菅丞相の忠僕として登場。「菅原伝授手習鑑」の白太夫。頬と口元に特色があり、田舎の律義な好々爺(こうこうや)が生根。とありました。「田舎の爺」でハートがあったかいなんて、九州の大切な御方みたい。これは私の勝手なイメージですが🥰。



白太夫はお名前は、渡会 春彦(わたらい の はるひこ)様です。伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の禰宜でした。渡会家は、伊勢神宮に奉仕していた神主一族で、その歴史は古く、現在の内宮が鎮座する以前より伊勢の地、宮川周辺(現在の三重県渡会郡)を中心に住んでいた一族と言われています。


渡会家は内宮の天照坐皇大御神に奉仕したのではなく、外宮の豊受皇大御神に奉仕していましたが、実はこの豊受大御神は雄略天皇の時に丹後の地より勧請されたようで、それ以前は渡會氏の氏神を伊勢のこの地に祀っていたのではないかとあり、今の外宮の別称が「渡會宮」と言われているのもその名残かもしれないようです。


外宮と内宮なら外宮が古く、外宮から参拝するのは伊勢参りでは知られています。この外宮は、食物神の豊受大御神を祀るのですが、実は、雄略天皇により勧請された、、。とありました。では、元の神は?となりますね。そこで、調べてみると、どうも、白山とか新羅とかにも関係があり、つまるところアメノミナカヌシ神、宇宙根源神、なのではないかな、、ていう事になってしまいました。(←こう考えた経緯はまた、次に書こうかなと思います。長くなりますから、、)


渡会春彦様(松木春彦様)は、伊勢豊受大神宮大内人(おおうちんど)を務めていた渡会高主の6男として生まれます。父の高主は当初子供に恵まれず祈願します。すると、翌年には双子を授かります。翌年も双子を授かり、更に翌年も双子を授かり、春彦は最後の双子として兄・秋並(あきなみ)と共に11月18日に生まれます。


春と秋。。自然が好きなご両親だったのかもですね。たしか、別の双子のお兄さんは冬がついたお名前でした。お子様の名はハルアキ様。双子をひとつにした自然そのままのお名前ですね。


とにかく、3年の間に双子✖️3の人の子宝に恵まれたのは驚きです。双子が生まれやすい家系って確かにあります。私の母方の家系は双子が多い。しかし、渡会家の双子オンパレードは、異例で凄すぎませんか😳。ギネスにのりそうな感じ。。


春彦様は成長した後、豊受大神宮の権禰宜を長く務めていますが、若い頃より頭髪が真っ白であったため「白太夫」と呼ばれていたようです。

ところで、道真公と白太夫との縁は、道真公の父の時代からです。道真公の父は、長男・次男を相次いで失ったことから伊勢豊受大神宮にいる白太夫に安産祈願をさせ、その結果、子宝に恵まれて道真を儲けます。


安産祈願した白太夫は、道真公の出生を大層喜んだ父により道真の養育係として京都に招かれ、以来数十年にわたって度々上洛して道真に仕えました。道真公はとても優秀でしたが、道真公の異例の出世を後ろで後押しした御方ともいえそうです。 


しかし、妬みというのはいつの世にもあります。冤罪も繰り返される。差別も、、、。

道真公が太宰府へ無実の罪で左遷されてしまいます。(昌泰の変)その際には、朝廷を憚って誰も道真の許を参る者がいない中、70を超えていたにもかかわらぜ、老齢ながら白太夫は、太宰府まで付き従い奉仕し続けました。


903年2月に道真公が筑紫にて薨去した後、白太夫は、父に連座して土佐に配流されていた道真の長男の高視のもとへ太宰府から向かい、道真が佩いていた御剣と御鏡を届けました。


高視がそれらを御霊代(みたましろ)として祭祀し始めたことが潮江天満宮創建の由来とされています。

白太夫さま。無実の罪にとわれた道真公を、最期までおまもりした御方です。


そして、精魂尽き果てお亡くなりになられた地、高知県の長岡郡大津。大津は、古書に「大角」との表記があります。長岡郡の大豊には、スサノオ神を祀る八坂神社に日本一の大すぎがあったり、龍王の瀧もあります。日本一の大杉、御神木。その木に宿る神とは、どれほどの大きさの神なのでしょうか。


その長岡の地で生き果てた白太夫様=渡会様。しかし、その御魂は、ずっと高く高く果てしなく舞い上がったことでしょう。



つづく


絵は草場さんの画像よりお借りしました。