友達が、数年前に若くして亡くなりました。子供達もまだまだお母さんが必要な年齢なのに、無念だったと思います。
癌が見つかったときには他の臓器に転移しており、ご主人によると余命宣告を受けていたようです。
私は入院したと聞いて、お見舞いに行ってよいかをたずねました。大丈夫とのことで、友人のお見舞いに行きました。コロナ禍の前です。
その時に、友人は私の前で○○が泣くんだよね。。。私の夢は可愛いおばあちゃんになることだからね。と言いました。私は友人の前では泣きませんでした。
友人は抗がん剤を頑張りました。余命は3ヶ月だったようですが、8ヶ月生きました。最後に病院であったときは、手を尽くしたけど、、とお医者さんにいわれちゃった、、と友人は言いました。
私はその時、言葉を発する事が出来ませんでした。
あんなに辛い抗がん剤治療をしたのに、髪も抜けて痩せて、しんどかっただろうし辛かったと思います。治ると一心で信じて、子供達のためにも生きなければと治療を頑張っていました。
入院中は、子供達の写真を眺めているんだとも言ってました。
もしかしたら、家族以外の私や他の友達と会うのも辛かったんじゃないかな、我慢して会ってくれてたのかも、色々思いました。
私はステージ4でも、彼女は治ると思って会っていました。でも厳しかった。
自分がもしそうなった時、自分はどういう態度をできるかわかりません。
私は自然でありたいと思います。
その時にならないと気持ちもわかりませんし、友人のように、人と会う心境でいられるかどうかもわかりません。
医療は発達して凄い治療も様々あるようです。しかし、自然界は、決して医学においても人がさわってはいけない部分があるとも思っています。
この部分を天の道理とすると、自然はそれに逆らわず自然に生きています。自然破壊がなされても、元に戻そうとしながらギリギリで今も踏ん張っている気がします。
人も生きていますから自然に逆らったら生きていくことはできないと思ったりします。治療も然りで、自然な治療と自然に反する無理な治療が今の医学には存在している気もします。
高齢化社会になり、寿命も伸びる社会ですが、人はいつか亡くなります。
だから、何かがおこって、自分の生き死にの選択を家族にゆだねられるような事が起きた時に、延命だけの為に管に繋がれる治療はしたくないです。自然に逝くならいきたい。
死は自然の道だと恐れていなくて、ただ不自然なことを自分に課すと、自然に還り辛くなりそうだから、それは避けたいなと思っています。
命の期限がいつかわからないからこそ、そういう大切な事は、自分の命の最期に主人公でいるために家族には伝えて置こうとも思っています。
まだまた生きたいし、生きるつもりですけどね。
いつかまたあちらで友達にあえると思っています。