大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

ツヌガアラシトとの逸話と、神功皇后

2022-11-30 05:40:00 | 神話・物語・本から

角がつく御神名にツヌガアラシトは気比神宮内の角鹿神社の御祭神です。角があったから都怒我阿羅斯等、「角鹿(つぬが)」敦賀の語源となった方です。


都怒我阿羅斯等が帰国するとき、崇神天皇の諱である「みまな」(任那)を国名にするよう詔し、赤絹を下賜したところ、新羅人がこれを聞きつけて兵をあげ、それを全て奪ってしまい、このことで、その後の新羅と任那は、不和になったという話がありました。




赤絹とは、別名に賢者の石のことで、赤色硫化水銀丹砂朱砂のことであり、日本では古来「」と呼ばれていました。神社に塗る朱色の材料です。昔、不老不死の薬(丹薬)を求め日本に渡来した人たちがいた話がありました。水銀鉱脈とも関係がありました。




時代は日本では神話の時代ですが、任那は日本と結びつきが深く、任那が新羅に征服されたのは562年です。聖徳太子が生まれる少し前あたりですね。


聖徳太子の父、用明天皇については、炭焼き小五郎の話にでてきますが、用明天皇が愛した妻、聖徳太子の母?にあたる御方は、大分の姫島の比売語曽社に祀られておられる方かもしれません。


じつは、このツヌガアラシトの話にも比売語曽社に祀られている比売神様(アカルヒメ)がでてきます。


神話の時代は時系列を気にしていたら分からなくなりますし、そもそも色んな話をごちゃ混ぜで書いているように感じますから😅


都怒我阿羅斯等が加羅にいた時に白玉を得たところ童女と化したので交合しようとしたが、童女は日本の難波さらに姫島に逃げてしまい、それを追って渡来したとされる話があり、難波並びに豊国(大分県)の国前郡(クニサキ半島の先にある島)の比売語曽社の神になったといわれています。



姫島は黒曜石の産地です。


今回の夏の旅で大分で偶然炭焼き小五郎を思わせる跡地にいきました。健男社の近くで、それはそれは奥山にありました。


また、古事記には、次の話が紹介されています。


新羅国には「阿具沼(あぐぬま)」という名の沼のほとりで卑しい女が1人昼寝をしていたら、日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。


(卑しい女卑弥呼、日巫女かな?)


この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受けるが、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。


天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。


しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市比売許曾神社に比定)。


天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神が遮ったため入ることができなかった。


(浪速の渡の神大阪の生国魂神社の辺り。神武天皇上陸地の碑があるようです)


そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。


この多遅摩母呂須玖が、神功皇后の母方の祖先となります。神功皇后の祖先は天之日矛であり、葛城氏とありました。葛城といえば、鴨氏とかも関係あるのかもですね。


これらの話から、気比神宮摂社、角鹿神社の御祭神ツヌガアラシト🟰天之日矛は、神功皇后にも血縁がある御方かなと思われます。これ故に、息子である応神天皇をつれて気比神様と名前を交換したということでしょうか。


また、ツヌガアラシトから逃げた比売語曽神(アカルヒメ)については、


天津彦根命の娘の比売許曽命(息長大姫刀自命)

新羅王の子天之日矛の妻、

新羅王波沙寝錦の妃、

大己貴命の女である下照姫命

辛国息長大姫大目命、

真野の長者の娘の玉依姫(般若姫)

宇佐神宮の祭神のうちの比売大神を比売語曽神とする


など様々な説があり、それだけ沢山の説があるということは、非常に重要な御方のようです。


宇佐神宮に行った際に、比売神様が祀られていました。この姫は宗像三女心なのか、比売大神でくくられるヒメ神様がどなたかわからないままでした。


今もわかった訳ではありませんが、神功皇后という神格化された女性の象徴のような存在の御方であり、卑弥呼とかにも繋がっていたり?、日本の女性の祖霊そのもののような御方かもしれません。


また、比売語曽社の神様のような逸話をもつ複数のヒメ神様を織り交ぜているように思いました。


つづく



土公

2022-11-29 06:41:00 | 神話・物語・本から

昨日の続きです。


気比神宮のそばの土公。




越前一之宮である氣比神宮の主祭神は、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)でしたが、この神が降臨してきたのは、現在の気比神宮の社殿のある北側、敦賀北小学校(現在は廃校になっている)の校庭内にある「土公」と呼ばれる一画です。この神が最も記紀に登場するのは、第14代仲哀天皇の時代です。仲哀天皇の皇后が神功皇后です。


『気比宮社記』によれば、神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得ます。


神功皇后は海人族に縁があり、龍女なのでしょうか。または、安曇族などの海人族を恭順させたということでしょうか。


比咩大神を祀る九州の宇佐神宮や、元宮の大元神社、宇佐ノ妻垣神社などのがあった安心院(夫の祖母の実家)に住んでいたとされる海人族である安曇族などを思いました。


鼻がひしゃげたイルカが浦にたくさん寄せており、応神天皇は「神は私に御食膳の魚を下された」と言ったので、この神は御食津大神と呼ばれるようになった。そして今では気比大神と呼ばれるとあります。


そのイルカの鼻の血がものすごく臭かったため、その浦を血浦と言い、それが今の敦賀となったといわれています


この話で入鹿(イルカ)は血を流しており、さらに記紀では臭いとされます。入鹿は土公神と関係があり、気比の神様にも関係あり海の贄であり供物を意味していると言われています。


海人族の一部は、北陸に移動していることを宗像大社で説明されました。そこで聞いた福井に行った海人女の話も何故か印象深かったのです。長野の穂高神社の御祭神は、安曇族であり、出雲の国譲りで最後まで戦った建御名方神の母方のおじさんがホダカミでした。


長野の穂高あたりは安曇野。穂高神社の奥宮に参拝途中、砂浜のような土を感じ、ここは海?との錯覚に陥りました。太古海だった地が山深い長野なのです。


穂高神社奥宮へ - 大善人へ身魂磨き

穂高神社奥宮へ - 大善人へ身魂磨き

長野県安曇市にあります穂高神社の奥宮に行きました。上高地は、神降地。。言葉にならないほど美しい地でした。安曇にあります沢度バス停を出発してから30分、バスを降りて1...

goo blog

 


長野、九州の神社をこの一年、参拝しましたが、なぜか点と点を結びながら、気になったり、不思議に感じたり、神を感じる場所があったりさまざまでした。



一昨日の話より、気比あたりには、忍熊皇子や仲哀天皇の祟りを鎮めるために神宮寺が建立され、その建立に携わったのは、中臣鎌足の孫(藤原氏)であり、大化改新で蘇我氏をたおした一族です。


気比神宮で、応神天皇と名前を交換する際に沢山現れた入鹿は、大クーデターにより首をはねられた蘇我入鹿の暗示があるようにも感じます。


蘇我の蘇はよみがえり。太古から禁足地で絶対にはいってはイケナイ場所である土公、土の神様が坐しておられます。小学校は廃校になったようです。


相当強い神様が坐しておられるようですから、誤って小学生が入ってしまうと困りますから、廃校になって良かったのかもしれませんね。


神話や歴史の中で悪者のように描かれて、生きている人は悪者と信じこまされた御方がいます。しかし、色んな思い込みは誰か、または扇動しようとある意図をもって色付けされたものなのかもと思いました。歴史にも、史実と違うことはありそうです。


自分の心で感じ素直に生きたいですね。


ところで、妹がワクチン接種について書いています。


11月お詣り 一本の電話 - お山にお宮がたちました

11月お詣り 一本の電話 - お山にお宮がたちました

自分が病だった時、保険会社の補償が絡み、事故と病に因果関係なしと言われ続け、どれだけ苦しめられたことか。自分と関係のないことに、社会はとても冷たくて、無関心で、...

goo blog

 


ワクチン接種への最初の印象は得体が知れないものを身体に入れるのは嫌だなぁと正直思いました。しかし、家族が強くすすめるし、お年寄りや周りに迷惑かけたくない、仕事で迷惑をかけたくない思いから既に複数回うちました。


しかし、今はこの遺族の思いに心を寄せたい。失ってからでは遅いし他人事とは思えません。偏った報道は、人を盲進させます。様々な情報を自分の感覚に照らし合わせたいです。


悪と思われていた中に善があったり、善のようにみえて悪のことも。他人事は分離意識からきて、自分に起きると思えないから他人事。自分におきてから他人事は他人事でなくなります。


多数決に従わない場合は排除する社会があったり、そちら側が権力を持っていたらなおさらです。社会の多数意見には流されやすいけれど、少数であっても命に関わることを他人事にはしたくない。


話はそれましたが、悪と呼ばれるものや、歴史の中で祟りをおこすような背景に物凄い辛い何かがあったと想像します。


許せない思い、もし自分に降りかかってきたら、悶えるほどの怒りや悲しみを感じることを経験したヒトが過去にもいた。


簡単に手放すことの出来ない思いをもって亡くなった方を仏教用語をかりると成仏させるために建立された神社仏閣がありそうです。


神話は、史実とは違いますから、ある人物に色んな似た背景を織り交ぜながら語られています。


焚書された書物の中にあった話や、一大クーデターに関わった人物の背景などは、その当時を生きた人にしか分かりませんが、今信じられている、教わること以外の全く違うこともあるのかもしれません。


そういう意味で、神々の織りなした物語を語る神話は、神話といえどこか人間模様を感じ、また、時代は変われど、今を生きる私達の内側に問いかけるものがある気がしています。








乙巳の変(大化改新)

2022-11-28 06:02:00 | 神話・物語・本から
昨日からの続きです。

名前を交換した際に入鹿が沢山でてくる話があります。


イザサワケの献じた入鹿魚(イルカ🐬)により太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったとありました。


入鹿といえば、645年に乙巳の変(大化改新)により殺された蘇我入鹿を思います。蘇我氏は悪者のように歴史では習いましたが、役小角の生きた時代の本を読んでから、史実は違うのではないかと思いました。


大化改新後の世で、人民は悪政に非常に苦しめられた話がありました。蘇我氏の意見を聞き入れていたならば、「白村江の戦」のような民を苦しむるだけの無謀な海外派兵はしなくて済んだかもしれないし、中大兄皇子の冷徹さは凄まじく、親戚さえも殺します。


蘇我入鹿や大化改新に纏わる話は虚像を歴史で教わっていたとわかりました。


また、国津史や、天皇紀など、大化改新直後に、それまでの国史が焚書されています。

そして、大化改新をした中臣鎌足の子、藤原不比等らが今に伝わる、古事記、日本書紀の編纂に関わります。そして、多くの他の古代からの書物は偽書扱いになったりします。


ところで、藤原不比等の長男藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫するために、気比神宮近くに神宮寺を祀った話があります。


乙巳の変の立役者とされる中臣鎌足の孫が祟りを鎮めるために寺を次々に建立するわけですから、神話の中の話は、実は大化改新により殺害された蘇我氏の祟りとかまで織り交ぜているのではないかと思いました。


ところで、気比の主祭神イザサワケについて、もう少しみていきたいと思います。イザサワケは、祖霊信仰(鬼道、竈門神)との深い関連が指摘されており、太古縄文信仰に繋がるように感じます。春秋去来の神とも言われています。


都会では、土地の問題などからお墓は公園墓地など住まいから離れた所に設けたりしますが、古来日本では、死んだ祖先を屋敷近くの山林にまつりました。


母の実家などは、今も家の裏が墓地です。屋敷神は、そういう祖先が土地をまもり、また、ご神霊は一箇所に留まらず、特定の時期に特定の場所に来臨し、祭りを受けたのちは再び還る(甦る?)ものと信じられました。


また、人は結婚して名前がかわると、変わった先の家系の霊線に入るといわれます。「姓」のことを「苗字」といいますが、この苗に関して、東北地方などでは「苗印(なえじるし)」を田の神の依り代であると考え、それは家ごとに異なり、その点で祖霊の神を家々の神としたという話があります。


屋敷神の祭祀の時期も、農耕神(田の神)の祭祀と重なり、春と秋になされます。お彼岸に祖先へ祈りを捧げるということに繋がるのでしょうか。知らず知らずに、私達の生活には根ついています。


屋敷神・農耕神・祖霊神の三神は、穀霊神(年神様)と密接なかかわりをもつともいわれます。


春秋去来神の神である気比の神様、イザサワケについては、社伝に次のようにあります。


上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある『土公の地』に降臨したといわれています。


土公については、気比神宮の近くにあります今では廃校となった小学校に、昔から禁足地の場所があります。





土公とは土に関わる神様、以前書きました埴安神なども思います。真ん中を司る神様のイメージです。


ハニヤス神 土の神様は色んな神様


春夏秋冬を十字で結ぶ真ん中の交わる部分が土です。


また、土蜘蛛/土雲(つちぐも)は、上古の日本においてヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称ですが、それは各地に存在しており、単一の勢力の名ではないようです。


九州の竹田には誰も手を合わせないような場所に土蜘蛛塚があり、その近くには古代王朝を思わせる七つ森古墳がありました。


7つ森古墳群と土蜘蛛塚 


彼岸花の名所です。地獄でも赤い花をつけて浮かばれない霊を成仏させようとする場所。土公神は禍いをもたらす事もあることから、不吉な星として土(筒でもある)『土蜘蛛』が出来たといわれています。

つまり、土蜘蛛は土公神に通じことを知りました。


つづく



「名(な)と魚(な)の交換」

2022-11-27 05:34:00 | 神話・物語・本から

神功皇后は、三韓征伐帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産み、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛がありますが平定します。その後、太子は武内宿禰に連れられ禊ぎのため気比神参詣します。


武内宿禰に連れられた太子は、気比神イザサワケと名の交換を行いました。夜、夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げます


「私の名(気比の神様)を御子(応神天皇)の名と取り換えたいと思う」と言うと、建内宿禰は「それは畏れ多いことです。仰せのままに」と答えた。

そこで、「明日の朝、浜にお出でになるがよい。名を換えた贈り物を献上しよう」と言う。


翌朝、御子が浜に行くと、鼻がひしゃげたイルカが浦にたくさん寄せていた。御子は「神は私に御食膳の魚を下された」と言ったので、この神は御食津大神と呼ばれるようになった。そして今では気比大神と呼ばれる、という。


そのイルカの鼻の血がものすごく臭かったため、その浦を血浦と言い、それが今の敦賀となったという。



ここから、

「名(な)と魚(な)の交換」は「名の下賜」と「魚の献上」であり、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を表す説があるようです。


気比(越前)は、古代において強い勢力基盤があったことがうかがえます。気比、白山あたりに太古は王権があったのでしょうか。以前建御名方神の母、ヌナカワ姫を調べた際、白山あたりにいた一族の姫であり、大国主命との間に建御名方をうみ、出雲が白山の王朝と融和を悦ぶ話がありました。白山あたりは、女性が長となっていた話がありました。


神功皇后のお子様の応神天皇が名前を交換した、この気比の神様は、いったいどなたをさしているのか?


それに関して、応神天皇の異母兄である忍熊皇子と父、仲哀天皇(神功皇后の夫)が関係している話がありました。


気比神宮の御祭神の中の第14代仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていると言われています。仲哀天皇は、日本武尊の子で神功皇后の夫にあたります。仲哀天皇の子には、応神天皇の他に、麛坂皇子忍熊皇子がいます。


この2名の兄達は後継争いに負け、忍熊皇子は宇治川で遺体が発見されます。先日書きました菟道稚郎子と同じように、兄弟間での後継ぎ争いの後、同じ場所で亡くなっています。


菟道稚郎子は、応神天皇と角鹿(敦賀)の姫の間に生まれたお子様です。


角鹿や宇治に纏わる話が、神功皇后、武内宿禰、応神天皇、仁徳天皇、そして、悲しい最期をとげた忍熊皇子や菟道稚郎子には多くみられます。


その忍熊皇子と父、仲哀天皇(神功皇后の夫)に関しては、祟りを鎮めるために、気比神社の近くに神宮寺が建立されたようです。


廃仏毀釈により現在は廃寺になっていますが、その寺は霊亀元年(715年)建てられた気比神宮寺であり、建立は神宮寺の中で最古になります。また、近くには、劍神社も同年代に建立されます。


この建立に際しての話は、藤原不比等の長男藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩告げ、仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したようです。


この宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求めたのは、


敗者として「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊であり、慰撫する必要があったのです。


全ての八幡宮の総本山、宇佐神宮に行った時に唯一参拝をガイドさんが外した菟道稚郎子の眠る春宮。


その菟道稚郎子と非常に似た形で、宇治川でなくなり生涯を閉じた忍熊皇子。この二者の共通点が非常に悲しい感じで伝わってきます。


「神功皇后と太子(応神天皇)がヤマトへ戻る際に謀叛があったのを平定し、太子は武内宿禰に連れられ禊ぎのため気比神に参詣します。武内宿禰に連れられた太子は気比神イザサワケと名の交換を行いました。」


とある、謀叛は、忍熊皇子や菟道稚郎子に関係があるのではないかと感じました。


宇佐神宮にこの夏参拝しました。八幡神とは応神天皇のことです。元は太古白山神社だったものが、八幡神社におきかわったと聞いた事があります。


宇佐神宮の宇佐は、神武天皇東征の折、菟狭津彦・菟狭津媛、 菟狭川の川上に一柱騰宮を造営したことからはじまったとあることから、菟狭が宇佐になったものだと思います。また、ウサギを意味する菟の漢字があります。どこか月にまつわ奉斎氏族や、隠された月の神様を想起させます。


また、イルカが鼻血とは、鼻から生まれたとされる記紀神話の中で悪者のように描かれた素戔嗚尊の暗示すら感じます。


菟道稚郎子、忍熊皇子、応神天皇(仁徳天皇)あたりの話は、神話となっていますが、古墳時代あたりの政変が絡んでいると感じます。


また、それは諏訪に押し込められた建御名方神とか、出雲の国譲りや、白山古代王朝とか、神代の時代とされた話も絡んでいると思いました。



つづく


名前の交換

2022-11-26 07:33:00 | 神話・物語・本から

仁徳天皇と武内宿禰の子が同日に生まれ名前を交換した話がありました。


竹内神社と仁徳天皇誕生秘話


名の交換に関しては、仁徳天皇の父、応神天皇にも、氣比神宮の主祭神イザサワケ(伊奢沙別/去来紗別/御食津大神(みけつのおおかみ))と名前を交換する話があります。


名前の交換、名前を変える、モトの名前を忘れるなどは、ジブリアニメの千と千尋の神隠しや、新海誠監督の「君の名は」なんかでも出てきます。


神の世界で、千尋は千と名前を変えられます。そこで千尋を助けるハクが、名前を忘れてはいけない、もとの世界に帰れなくなる、と助言します。





名前を奪われ、宝石だらけの手で握りつぶされています。宝石は物欲の世界のようにも感じます。


ハク自身、饒速日コハクヌシという名前を奪われて、自分のもとにいた場所を忘れてしまっていたのでした。ハクは、コハク川の白龍神だったのです。





千尋を助け、最後は、千尋のおかげで名前を思い出します。




君の名は、では岐阜飛騨の田舎の神社の少女宮水みつは(水の神様のミツハノメガミを感じさせる名前をもつ少女)が都会の少年、瀧くんと身体が入れ替わります。






時空を超えたラブストーリーとファンタジー物語ですが、2人は一旦お互いの名前を忘れてしまいます。







宮崎駿監督も、新海誠監督も、神懸かった作品を作る御方だと思います。


現代においても、戦時中は日本は軍国主義に傾き名前を変えることを強要したり、また、ハンセン病の患者は強制的に先ず名前を変えさせられました。中学生で隔離された竪山勲さんは、今日からお前は田中だと、ハンセンの療養所では田中を名乗っていました。


名前を交換する、もとの名前を忘れてしまう、名前を変える、には何か言いしれぬものが太古からありそうです。


名前は人がつけます。バラがラッパと名付けられたら、私たちはラッパとバラを呼ぶでしょうし、同じ物も、海外ではローズなのです。

また、名声や名誉も、人の付加価値のように思われますが、それ自体がその人の本来の性質ではないです。


そういうものを取っ払った中に残る本質こそ、その人本来の貴い性だとは思います。

しかし、名前を奪われる行為により、本来戻るべき所にさえ戻れない、そんな深いテーマが映画にもあり、また、竪山さんの話を聞くと、名前が違うというのは、外の世界で住もうと思っても家さえ借りれない、現実問題としても、生きる術をもぎとられることがあるような、屈辱的なことに繋がるようにも思いました。



この夏に、九州を1週間旅をして、宗像や壱岐島の神社で、不思議と気比明神やら、気比の名前を見かけ、何故福井にある気比がここと関係があるんだろうと思っていました。そして、調べるリストにいれました。


調べながら感じた話があまりにも壮大で、何から書いたらいいのかと頭の整理がつかず、そんな状態のため、話が混乱しそうですが、とりとめなく書いておこうと思います。かなりマニアな話です。


まずは、応神天皇と名前を交換したこの気比独特の神様イザサワケの神様、古い神様はどなたなのかということについてです。


伊奢沙別命(気比神宮の主祭神)イザサワケは、仲哀天皇と、その妻、神功皇后、応神天皇と深い繋がりがありそうです。



その話を紹介します。


古事記、日本書紀に、

仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだ話がありましす。角鹿は、ツヌガ、敦賀=福井県のことです。


仲哀天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させた話もあります。福井の地は、恐竜の遺跡も沢山あり、また超古代から信仰された霊山白山のある地です。


白山神社参拝記(白山と黒龍 )


神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産みます。


皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛がありますが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられ禊ぎのため気比神に参詣します。


武内宿禰に連れられた太子(後の応神天皇)はイザサワケと名の交換を行います。それを易名説和というようです。



つづく