角がつく御神名にツヌガアラシトは気比神宮内の角鹿神社の御祭神です。角があったから都怒我阿羅斯等、「角鹿(つぬが)」→敦賀の語源となった方です。
都怒我阿羅斯等が帰国するとき、崇神天皇の諱である「みまな」(任那)を国名にするよう詔し、赤絹を下賜したところ、新羅人がこれを聞きつけて兵をあげ、それを全て奪ってしまい、このことで、その後の新羅と任那は、不和になったという話がありました。

赤絹とは、別名に賢者の石のことで、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂のことであり、日本では古来「丹」と呼ばれていました。神社⛩に塗る朱色の材料です。昔、不老不死の薬(丹薬)を求め日本に渡来した人たちがいた話がありました。水銀鉱脈とも関係がありました。
時代は日本では神話の時代ですが、任那は日本と結びつきが深く、任那が新羅に征服されたのは562年です。聖徳太子が生まれる少し前あたりですね。
聖徳太子の父、用明天皇については、炭焼き小五郎の話にでてきますが、用明天皇が愛した妻、聖徳太子の母?にあたる御方は、大分の姫島の比売語曽社に祀られておられる方かもしれません。
じつは、このツヌガアラシトの話にも比売語曽社に祀られている比売神様(アカルヒメ)がでてきます。
神話の時代は時系列を気にしていたら分からなくなりますし、そもそも色んな話をごちゃ混ぜで書いているように感じますから😅
都怒我阿羅斯等が加羅にいた時に白玉を得たところ童女と化したので交合しようとしたが、童女は日本の難波さらに姫島に逃げてしまい、それを追って渡来したとされる話があり、難波並びに豊国(大分県)の国前郡(クニサキ半島の先にある島)の比売語曽社の神になったといわれています。
今回の夏の旅で大分で偶然炭焼き小五郎を思わせる跡地にいきました。健男社の近くで、それはそれは奥山にありました。
また、古事記には、次の話が紹介されています。
新羅国には「阿具沼(あぐぬま)」という名の沼のほとりで卑しい女が1人昼寝をしていたら、日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。
(卑しい女→卑弥呼、日巫女かな?)
この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受けるが、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。
天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。
しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神であるという(大阪府大阪市の比売許曾神社に比定)。
天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神が遮ったため入ることができなかった。
(浪速の渡の神→大阪の生国魂神社の辺り。神武天皇上陸地の碑があるようです)
そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。
この多遅摩母呂須玖が、神功皇后の母方の祖先となります。神功皇后の祖先は天之日矛であり、葛城氏とありました。葛城といえば、鴨氏とかも関係あるのかもですね。
これらの話から、気比神宮摂社、角鹿神社の御祭神ツヌガアラシト🟰天之日矛は、神功皇后にも血縁がある御方かなと思われます。これ故に、息子である応神天皇をつれて気比神様と名前を交換したということでしょうか。
また、ツヌガアラシトから逃げた比売語曽神(アカルヒメ)については、
新羅王波沙寝錦の妃、
辛国息長大姫大目命、
など様々な説があり、それだけ沢山の説があるということは、非常に重要な御方のようです。
宇佐神宮に行った際に、比売神様が祀られていました。この姫は宗像三女心なのか、比売大神でくくられるヒメ神様がどなたかわからないままでした。
今もわかった訳ではありませんが、神功皇后という神格化された女性の象徴のような存在の御方であり、卑弥呼とかにも繋がっていたり?、日本の女性の祖霊そのもののような御方かもしれません。
また、比売語曽社の神様のような逸話をもつ複数のヒメ神様を織り交ぜているように思いました。
つづく