第5図「牧牛(ぼくぎゅう)」とは、「牛を飼いならす」という意味のようです。
牛とは、自分自身のことでした。自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、という説明がありますし、その通りだと思います。
自分自身を、知っているようで実は知らない。他人のことはよくみえ、他人のことをあれこれいうヒトほど、自分が見えてなかったりするのかもです。無くて七癖。自分の七癖言えるかな?と考えるだけでも、自分のことってなかなか見えていないことわかります。
自分にあんなとこ、こんなとこあるって気づくと、人様を批判できるほどの自分では無いことにも気づきます。
同じ過ちを繰り返すパターンがあります。周りは何故?って気づいても、本人が頑として変えないこともあります。ヒトの過ちを直そうとして、自分の牛が暴れ回り、ヘトヘトになります。しかし、自分の過ちに気づいてない事に、実はヘトヘトになる原因があるのかもしれません。
ここで、飼い慣らすことが出来るのは自分の牛だけだと思いしります。他人の牛を飼い慣らすことはその人の役目ですね。自分だって、誰かに手綱を無理やり引っ張られると苦しいように、誰かの手綱を無理に引っ張ることはやめようと思います。
この図の段階は、自分の牛はおとなしくなってはいるもののまだ綱を手ばなすことはできないです。まだ自分が曖昧で色んなことに振り回される段階だからかもです。
どんな事も受け入れて動じないのはなかなか難しいですね。日頃は大人しく従順な牛でも、あることには決まって暴れ回るとすると、なくて七癖、自分の癖のひとつを知りなさいという事です。手綱を握りしめすぎて力む自分を反省しないとです。
同じ物事をみても、夫と、私では動じ方が違うんですね。心のフィルターというのか、目詰まりをしやすいのは物をあるがままに流さない私のフィルターのせいだと思ったりします。
牛の手綱をまだ心配で放せないうちは、放せない状態を経験し、いつか放せるようになる日がくると、放せなかった時が笑い話になるかもしれません。とにかく、ヒトの手綱を引っ張ることはしないと観念します。
片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。
それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。
ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。
こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。
なんだか、人が独り立ちし大丈夫だとなる様子にも思えます。あるがままは、自分にも愛するひとにも、それぞれのペースで生きることを神様にお任せする心境になることの様にも思えてきます。