大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

十牛図 第5図「牧牛」

2021-10-31 06:41:00 | 神話・物語・本から

第5図「牧牛(ぼくぎゅう)」とは、「牛を飼いならす」という意味のようです。


 牛とは、自分自身のことでした。自分自身を飼いならすとは、自分のことを本当に知る、自分の知らない自分に気づく、という説明がありますし、その通りだと思います。


自分自身を、知っているようで実は知らない。他人のことはよくみえ、他人のことをあれこれいうヒトほど、自分が見えてなかったりするのかもです。無くて七癖。自分の七癖言えるかな?と考えるだけでも、自分のことってなかなか見えていないことわかります。


自分にあんなとこ、こんなとこあるって気づくと、人様を批判できるほどの自分では無いことにも気づきます。


同じ過ちを繰り返すパターンがあります。周りは何故?って気づいても、本人が頑として変えないこともあります。ヒトの過ちを直そうとして、自分の牛が暴れ回り、ヘトヘトになります。しかし、自分の過ちに気づいてない事に、実はヘトヘトになる原因があるのかもしれません。


ここで、飼い慣らすことが出来るのは自分の牛だけだと思いしります。他人の牛を飼い慣らすことはその人の役目ですね。自分だって、誰かに手綱を無理やり引っ張られると苦しいように、誰かの手綱を無理に引っ張ることはやめようと思います。


この図の段階は、自分の牛はおとなしくなってはいるもののまだ綱を手ばなすことはできないです。まだ自分が曖昧で色んなことに振り回される段階だからかもです。


どんな事も受け入れて動じないのはなかなか難しいですね。日頃は大人しく従順な牛でも、あることには決まって暴れ回るとすると、なくて七癖、自分の癖のひとつを知りなさいという事です。手綱を握りしめすぎて力む自分を反省しないとです。


同じ物事をみても、夫と、私では動じ方が違うんですね。心のフィルターというのか、目詰まりをしやすいのは物をあるがままに流さない私のフィルターのせいだと思ったりします。


牛の手綱をまだ心配で放せないうちは、放せない状態を経験し、いつか放せるようになる日がくると、放せなかった時が笑い話になるかもしれません。とにかく、ヒトの手綱を引っ張ることはしないと観念します。



 片手にムチを持ち、もう片手には手綱をにぎり、かたときも離してはならない。

 それは、牛が勝手に歩きだして、ふたたび草むらに入ったり、道に迷いこんだりしてしまいかねないからである。

 ところが、少しずつ飼いならしていくと、牛は次第におとなしくなってくる。

 こうなれば、もはや手綱でしばらなくても、牛のほうから後をついてくるようになるのである。




なんだか、人が独り立ちし大丈夫だとなる様子にも思えます。あるがままは、自分にも愛するひとにも、それぞれのペースで生きることを神様にお任せする心境になることの様にも思えてきます。



十牛図 第4図「得牛」

2021-10-30 07:04:00 | 神話・物語・本から

十牛図の第4図「得牛(とくぎゅう)」です。牛の全身が描かれているのは、初めてです。

旅人は、牛を探し、足あとを見つけ、牛の姿を見ることができました。牛は自分の心です。



その牛は、長いこと野外の草むらにかくれていて気づかなかったが、今になってようやく会うことができた。

 しかし、その喜びの心境は、「牛に出会えた」ということで満足してしまい、かえって牛に追いつくことを難しくするし、また牛のほうでも、すきをみては香りのよい草を求めて草むらに逃げていこうとしてしまう。


  牛(心)は自分なのに、肉体のある自分(旅人)とはまだ慣れていない段階ですね。牛を見つけたっていっても、また、いつでも牛が逃げてしまう段階のようです。


牛(心)を自分に溶け込ますのに時間がかかるのは、自分を覚信したり、様々なことに挑戦しても慣れて自分のものにするのに時間がかかるのと同じかもです。辛くなる時にムチや縄を使いたくはないですね。心のようなとりとめのないものをぎゅうぎゅうに縛ると、鬱血しそうですから、厳しさも時には大切かもですが、ゆる〜くありたいです。


自己理解や他者理解にもいえるかもですが、まずは自分を理解して見つめ見つける。そして他者も同じように理解しようと努め、見つめ認めることが出来るといいなぁと思います。

そして、辛そうなヒトがいたなら、優しく寄り添う。黙ってても寄り添う気持ちがあれば、それは伝わる。静かな中に優しさを感じ取ることができるといいですね。


瞑想や坐禅の中、静かな場所ですわっていると、いろんなことが次々と思い浮かんできますが、座禅は禅宗からですし、瞑想中の雑念は、あばれる牛にもたとえられているようです。

十牛図は色々なケースを想像させますから奥が深いです。


長い目でみる視点があればいいですね。今が良くない時も、「いつかはできるようになる、よくなる」と思い続けて生きながら、少しずつ乗り越えて行きながら、ふと振り返ると、随分遠くまできたもんだと心が鳴ればいいなと思います。


牛は心とすると、和する方が楽なのかもですね。やっと牛の姿を全て現して目の前に出てきてくれた暁月には、まずはニコッとして、その姿を現してくれたことに感謝を伝えよう思います。



昨日仕事に向かう朝、空をみると青空に白い半月の月が残っていました。日の光に照らされた部分だけが光り夜に様々な姿を見せる月が、朝の日に負けずに半分だけ白く残る姿が不思議と美しく感じました。





つづく


ねむの木

2021-10-29 07:40:00 | ひとりごと
十牛図のお話はまた明日。ちょっとブレイクです。

以前神社巡りを、妹と妹の親友とした際、1日妹の親友の家に泊まらせてもらいました。


昔から凄いおしゃれな友だちでしたが、お部屋も素敵でした。そして家には御神木のような大きなねむの木が飾ってました。大きく生い茂り、素敵なお部屋をさらに素敵にしていました。


私の家にも観葉植物が沢山あります。伸びると切って水につけると根が出るから、また土に戻す。すると、増えるんですね。家では大好きな植物に癒されています。そして、今年から、ねむの木を仲間入りさせました。


睡眠障害があったりして眠れないのは色々良くないみたいですね。ねむの木はその名前のとおり、睡眠にも良いみたいです。


ねむの木は、葉っぱに体内時計があるようで、夜になると、葉っぱを閉じるんです。そして、カーテンを開けていなくても、5時過ぎくらいからゆっくりと葉が開く。可愛いです。おはようと声かけます。

私は早起きな人間で、夜はしっかり寝ます。わたしの体内時計はねむの木ほどではないですが、ある時間になるとパタッと寝てしまいます。何かをやっていても、誰かと話していても睡魔が勝ってしまいます。


しかし、考え事をすると眠れなくなった事がありました。きまって、そんな時は良くない方へ思考がクルクルまわっていた時でした。


睡眠は人間の欲求なのに、睡眠のリズムも、人の良くない思考が掻き乱すのです。恐るべしヒトの思考。時間がたったら、なんて事ないと思い返して、またいつも通り寝るようになりましたが。


沢山の植物を育てていて、植物には日当たりの好き嫌いとか、性格があるのがわかります。ヒトにも性格があるように、生き物はみんな違いますね。ねむの木を側におき育てると、他の植物で葉っぱの様子を変えない植物でさえ寝たりしてるんだと思えます。夜は電気を消してあげないとと思います。


睡眠は大切です。眠れなくなったら、早めに病院に行ってお薬の力を借りてでも寝た方が良いようですね。運動して身体を疲れさせ休みたいと身体に思わせるのが薬よりは良いですけど。薬には副作用がありますからね。自己治癒力を出来るだけ活用したいです。


身体を快復させる作用が睡眠中にはあります。眠れなくなる程悩み過ぎない。悩んだって悩まなくたって変わらないから。自分を傷めるほどは悩まない。


体内時計のある眠るねむの木を育ててみるとよいかもですね。


ねむいねむの木

眠りの気

ねむるとスッキリ

悩みなし



ははは。



悩まない、悩まない、一休み、一休み。

ですね。







十牛図 第3図「見牛」

2021-10-28 06:12:00 | 神話・物語・本から

第3図は「見牛(けんぎゅう)」です。足あとを探していくと、ようやく牛を見つけました。しかし、牛はその姿の一部しかあらわしていません。



尻尾だけでじらされてる感じかな。笑

  

 牛の鳴き声が聞こえたので、その声を頼りにたどってみれば、ようやくその姿を見つけることができた。それは、旅人が一方的に探し求めていただけでなく、牛のほうからも近寄ってきたからである。牛も自分を探していた。



とあります。

求むよ、さらば与えられん。求めると牛(自分)も近寄ってくれるのですね。


また、こんな風にも書かれています。


 自分の目も耳も、鼻も舌も、体も心も、その感覚のひとつひとつが、牛を見つける手がかりとなった。日常の行動もまた、その一挙手・一投足が、やはり牛を見つけるために必要だった。

 だから、まるで海水に溶けこんでいる塩の味や、絵の具の中に含まれている「にかわ」のように、自分と牛も、同じように分けて考えることはできない。

 まゆ毛をさっと上げて、目をはっきり開いて見つめれば、まさに牛と自分は別のものではないことに気づくだろう。



もともと、牛の例えは自分だから、無くなるはずもなく、また、分けることも出来ないんですね。


自分の内なる声が、牛の鳴き声であり、小さな鳴き声でも自分が求めていたら、耳で聴こえるわけではなく、全身でわかる感じ、それを信じて歩んでって言っているのかなぁと思います。内鳴る声を微かでも感じる心を養いなさいと言われてるみたい


何が起こっても、誰に何と言われようとも、あなたはあなたで大丈夫。だから歩み続けなさいと。自分の中にも、皆んなの中にも、「その人だけの牛」がいて、足あとを残したり、微かに鳴いていたりしている感じがします。違う道の時は、暴れるのかも。


足は遅いけど、牛のしっぽを追っかけ、牛の微かな鳴き声を聞き逃すことなく、感じられる心で歩んで生きます。




つづく




十牛図 第2図「見跡」

2021-10-27 06:02:00 | 神話・物語・本から

第2図「見跡(けんせき)」では、牛の足あとを見つけたところが描かれています。


「足あと」ですから、まだ牛そのものではありません。

ようやく自分を知る手がかりをつかんだ、というところのようです。


自分が夜道に迷い込んでどっちに行けばわからない時、襲われてしまったらどうしようとか不安が広がり、方向さえわかればなんとかなると空を見上げたら、北極星を見つけて方向がわかるみたいな感じかなぁと想像してみたり。


生き方が悉く暗闇に迷い込む選択をしていた人が、正しい教えを見つけ、それを説く方に師事したり。

ただ、盲信は良くないですけどね。盲信は目を亡くし信じるわけだから。自分の目を無くさないで、自分の心の眼が澄みきったら、そこに善く映るものを信じるのは良いですね。



仏陀の教えは時代を超えて凄いなぁと思います。ブッダのお話を読んでそうかぁ!と理解したと喜ぶのも束の間、自分は目の前の事柄にオロオロするのです。眼が澄んでいなくて頭で考えるうちは、まだまだこの第2図の段階かな。


牛の足あとは、雨が降れば消えるかもとか、色んな事を気にして早く牛を探そうって焦ります。そうすると辛くなってきます。人生の苦労には無駄はないですから、辛い時は泣いて、涙の跡でもつけておいても良いですね。涙が乾くときには少し心が晴れて、足跡探しをまた焦らずに始められるかもです。


牛の足跡は見つけても牛そのものをまだ見つけていない段階が第2図。まだまだ先は遠いなぁ、と思います。


大切なひとが辛い時には、自分も辛くなります。自分の牛の足跡を辿り、自分をまずは見失わないようにしないとです。



「足あとをさがし、歩きまわって疲れが限界にきていた旅人は、自力で牛を探すことをやめました。そこで、お経を読み、いろいろな人から教えをうけて牛のゆくえを追いました。そのたびに、いったい、誰の言うことが正しいのか、何を信じればいいのか分からなくなってきました。なぜなら、お経に書かれたり教えられたりした牛は、自分の牛ではないからです。」



牛は誰の心にもいるので、アドバイスとか良い教えなんかのきっかけを大切にしながらも、「自分の牛」の足あとを見極めながら、横道に逸れないようにしないとです。


私は道草好きですから。




つづく