大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

キトラ古墳と古墳のあれこれ

2023-11-20 05:50:00 | 神仏について

明日香村には石舞台古墳がありました。近くには、キトラ古墳、高松塚古墳もあり、高松塚古墳は行ったことがありましたが、今回はキトラ古墳に初めて行きました。



高松塚古墳やキトラ古墳内には絵が描かれていて、古墳からも、日本が大陸からの影響を深く受けていることがわかります。4方を守ると信じられている神獣が描かれます。四方は、季節にも置き換えられます。


   青龍    青春



   朱雀    →朱夏



西   白虎    →白秋



   玄武    →玄冬


天井には天体図が描かれています。



仁徳天皇の陵墓かもしれない?巨大な前方後円墳の大仙古墳など、初期の古墳の時代は巨大な古墳が多く、次第に形も🔑🔶🟠のようになりました。





キトラ古墳は、飛鳥時代の頃だろうとされていますが、外観は簡素化され、外は丸い小山があるだけでした。




しかし、古墳の中の壁画はとても精巧なもので、よくぞ残っていたなぁと思いました。盗掘の被害に遭うも、朱雀の壁画は残っていました。壁画だけは守ろうと踏ん張ってくれたのかもですね😌。




近くにある高松塚古墳との対比もあります。




古墳壁画で調べていると、日本には凄い壁画があることがわかりました。古墳マニアではないですが、古墳の変遷した道にも美術史だけではなく小宇宙があるような気すらします。


福岡の珍敷塚古墳からは、エジプト文明のピラミッド内と同じような壁画もあります☟



エジプトピラミッド壁画との対比


また、同じく福岡の古畑古墳の壁画の模様は、朱と白で描いた3つの輪があるようで幾何学模様のような壁画です。



熊本のテプサン古墳はこちら☟

まるで、ペルシャの古いキリムやギャッベに見られる模様です


キリム(画像はお借りしました)

テプサンとは、乳房(チブサ)だとか、、


人は母なる大地のような宮(子宮)から生まれ、チブサから命を繋ぎ、その後、大地からの栄養を頂き、また老いて赤子のようになり大地に還ります。


初期の壁画に比べると、

後期に見られる高松塚古墳や、キトラ古墳の壁画は精巧に如実に描かれています。




初期のものはシンプルかつ直観で描かれているようにも感じます。

死後の世界が続き🔗、永遠の命を希求するからこその絵にも思えます。これらは、茨城などの東日本や、九州から発掘されているようです。



古代史で見ていくと、太古の信仰を守っていた地のものはシンプルなようにも感じます。


生きて、、よく死ぬこと。


いつの時代も、全ての人に課された命題なんだなぁと思いました。



石舞台古墳

2023-11-18 08:06:00 | 神仏について

 奈良の明日香村にあります石舞台古墳に行きました。こちらは、約25年前に一度自転車🚲できた事があります。その時は、近くにある鬼の俎(おにのまないた)・鬼の雪隠(おにのせっちん)などの巨石も一緒にみて周りましたが、今回は石舞台古墳だけに行きました。




 


  

聖徳太子の時代あたりにできたようです。6世紀の構造とありました。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳でその規模は日本最大級を誇るようです。日本の古墳は16万基もあり、まだみつかってないものもあると考えると、今あるコンビニより多いのが古墳ですね。故人のお墓ですから実は至る所古墳かも😌


この巨大古墳が誰の墓なのかは不明のようですが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説があるようです。


昔自転車できた時よりは、観光地化されていたように思いましたが、長閑な地にある芝生にドンと存在感を残しています。


石室の中はこんな感じです。











☝️一本で77トンもの巨石を持ち上げてます。笑。






京都の広隆寺に行った際、歩いて行ける場所に古墳があるのをみつけ、3月に行きました。

蛇塚古墳です。そこは、今では民家に囲まれて存在する古墳でした。京都府下最大の全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室の古墳です。


古墳時代後期の7世紀頃に築造され、蜂岡寺(広隆寺)の創建や、後の平安京造営に際してその一翼を担うほどの勢力をもっている秦氏一族の族長クラスの墓といわれています。聖徳太子をそばで補佐していたのは、秦河勝です。歩きながら感じたのは、秦氏の古京都での影響力の強さです。


聖徳太子は、厩戸皇子とよばれるように、キリストとイメージが重なります。ユダヤ系の秦氏の影響や、また、京都にあります月読神社で、聖徳太子は月信仰をしていたことを知りました。法隆寺のある当時の奈良は、新しい宗教である仏教が混じり合う時に生じる、火花のような争いもありつつ、どこか国際的な雰囲気があったように想像します。


様々な異文化も日本に入ってきて化学反応を起こしたあと融和していくような、悠久の時を経て今の時代にも目を見張るような建造物、巨石文化が作り出された時代だったように思います。


奈良の明日香村がある場所は、聖徳太子が摂政となった推古天皇の飛鳥時代、天平文化が華開いた地です。


法隆寺の夢殿救世観音に見られるような仏像も、どこか雰囲気が独特で、スリムです。のちに多くみられる丸みのある仏像とは少し違う感じがします。渡来系のもたらした仏教と仏師の作品が段々と日本独特のものへ時代の変遷と共にと変わっていくのも感じます。


「丸み」を帯びる仏像は、仏教と神道のたたかいの結末と、痛みを融和していく姿のようにも感じました。

無形の自然への祈り(神の道)が有形の物(仏の像、ご本尊)への信仰へと変わります。対象「物」があった方が人は祈りやすいのかもしれませんが、

対象物を含む全ての有形を包含するのは、実は無形の無為の、自然(🟰神)の「道」だと思っています。


巨大な古墳は、故人の生きた時代の力を誇示するものなのか、生きた時代から作らせていたのでしょうが、こんな重い巨石、運ぶの大変だったと思います。

お陰様ですね。「陰」で多くの汗水垂らした働きがあったからこそ、当時の故人の「陽」の権力を今なお垣間見れるのかもです。


自然にいきてひっそりと土に還る、そんなのが私はいいなと思ってます。


法隆寺 夢殿救世観音とフェノロサ

2023-11-17 07:25:00 | 神社仏閣

法隆寺に行きました。




法隆寺の仏像の中でも、739年に八角堂の夢殿に納められその後、封印された夢殿救世観音をいつかみてみたいなと思っていました。



春と秋の毎年411日から55日と、1022日から1122日の年2回がご開帳のようで、幸運にもみることができました。

救世観音の写真撮影は禁止のためお借りしています。


八角堂は通常、供養塔または仏塔などとして建てられるものだそうで、救世観音は、聖徳太子の供養を目的として祀られた像となります。


太子の死後、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなります。聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人は、太子が亡くなってから100年以上を経てから夢殿を建て、太子の等身である仏(像高は178.8cm)をつくり、供養をしたのではないかといわれています。太子は背が高いですね。


聖徳太子の死に纏わる隠された壮絶な権力闘争があったことが、この逸話からも想像できます。


『聖徳太子伝私記』によれば、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく原因不明の死を遂げたらしく、鎌倉時代には、これを模刻しようとした仏師が、像の完成を見ることなく亡くなったという話もあるようです。


これらからも、更に、夢殿の扉を閉ざし太子の等身像を白布で巻いて封印することに拍車をかけたのかもです。


法隆寺の僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊するという迷信を信じていたようです。


では、誰が封印を解いたのか?

それは、アメリカ人、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)です。




西洋化を推し進めた明治時代、沢山ある神社を統合しようと宮を壊し御神木を伐採する動きを止めようとしたのは南方熊楠でした。


日本人が西洋に追いつけ追い越せという風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向に警鐘を鳴らしたのはアメリカ人フェノロサでした。

明治時代、廃仏毀釈により日本人が捨て去ろうとした仏教美術の数々に価値を見出しました。様々な寺院を訪問する中、フェノロサはまた、何度も断られながらも遂に法隆寺夢殿救世観音の開扉に漕ぎつけました。僧侶は祟りを怖れ逃げたものもいたようです。

救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されています。


二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤード(450メートル以上)の木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。


450メートル以上のグルグル巻きで、太子像はまかれていたのです。相当辛い思いを持ってお亡くなりになられたのかもしれません。

ところで、フェノロサは日本画においても日本美術に真価を発表し、多大な影響を日本美術学会にあたえます。東京芸術大学の創建にも携わります。


日本を愛し、後に、滋賀県三井寺(園城寺)で受戒し、正式な仏教徒となります。

最期はロンドンの博物館で息をひきとりますが、火葬された後に、遺骨はフェノロサの希望で日本に送られ、滋賀県大津市法明院(受戒した三井寺の塔頭)に埋葬されているようです。


合掌




高野山金剛峯寺 奥の院 伽藍堂 参拝

2023-11-16 06:32:00 | 神社仏閣

高野山では、その日に泊まる宿坊に車をとめました。この時期は宿坊は混みます。海外の方も宿泊していました。









高野山金剛峯寺を参拝しました。
紅葉の時期、連休、とあってどこも混んでいました。




少し歩くと、秀吉の桜で有名な所がありました。




昼ごはんを食べてから、奥の院へ。歴史の教科書にでてくる方々の墓地が沢山ありました。






コートを車に置いてきたら奥の院で寒くなったので妹の旦那さんにセーターをかりました。

肉ジャンを着ているから大丈夫とか言って貸してくれました。笑。
ダボダボのセーターですが、暖かかったです。
妹は冷たくなった私の手を繋いで温めてくれました。❤️


夜は食事を済ませてから、ライトアップされた蛇腹道をとおり、伽藍堂へ。







がらんとした、、という言葉は、伽藍堂の中が空っぽだったことからだとか。夜は夜の風情がありました。






宿坊では、肉魚を使わない料理が御膳に並べられ、美味しくいただきました。


次の日の早朝は、朝の御勤めに参加しました。宿坊の朝は、ピンとした空気がありました。祈りの場にはストーブが置かれ、お坊さんのお話は、日本語だけでなく、宿泊された海外の方にもわかるようにと英語でも説明していました。日本人のオモテナシを感じます。


朝の御膳です。






夜の伽藍堂も良かったですが、朝も伽藍堂へ。



すると、夜は灯りがなくわからなかった境内にあります丹生都比賣神社を参拝することができました。






御夫婦で仲良く敬礼されています。



素敵な御夫婦に幸多かれ。