犠牲にする、犠牲になるは、英語ではsacrifyで、いけにえになる、自己を他者のために殺すとかいう意味もあります。
キリストの十字架は自己犠牲の精神の顕れだとかいったりします。
この自己犠牲の最初のsacriは、「神聖な」の英語sacredと語源が同じかどうかはわかりませんが、キリストの自己犠牲は、神聖なことに結びつきますので、語源は同じかなと思ったりします。
しかし、どうもこの自己「犠牲」という日本語には違和感を覚えます。
犠牲には、自分を殺すようなニュアンスを受けてしまうからです。
自分を殺すのは、自分の中にある大切な神様を殺すことで、それなら誰しも自己犠牲の無い世の中になればいいのになと思ったりします。神様を宿す自分の心を大切にする人が溢れる世の中です。他者の中にも、自分と同じ神様をみいだす世の中です。
自分で自分を殺す人がいなくなる世界が理想です。
宮沢賢治の小説、銀河鉄道の夜でジョバンニの友カンパネルラは友達を助けようとして水の事故に遭い還らぬ人になります。
周りからみたら、典型的な自己犠牲ですし、イエスキリストのような行為だとも思います。
しかし、カンパネルラからしたら、犠牲になろうと思っていたわけではなく、他者と自分に区別が無かっただけなのかなと思っています。相手の痛みがまるで自分のことだっただけ。
結果的にカンパネルラは犠牲になりましたが、他者を救うことが自分を救う、自分を救うことが他者救済。
なので、自己犠牲ではなく最大の自己発露🟰 revelationなのではないか、と感じています。revelationは顕現のようなニュアンスもあります。
犠牲にはどこか結果ありきのニュアンスがあります。
自己発露には、結果は関係ありません。ただ、その瞬間に魂を輝かせたか。
一瞬一瞬をきちんと輝かせたか。その一瞬は愛だったか。という、過程のみに重きが置かれている気がしています。
線路に轢かれそうになる人を見て、とっさに助け身代わりとなった方は、まさに、犠牲になろうとしたのではなく、魂の輝きが咄嗟に顕れて相手の痛み🟰自分の痛みとして、他者の痛みをとるために爆発するような光を放つ自己発露により最期を迎えた方だと思っています。
自己犠牲は他者からみた見方で、本人にとっては、自己発露(自己の魂の顕現)に過ぎないと思うと、
カンパネルネルラが、亡くなったあとに、ジョバンニに悲しそうに呟きます。
本当に良い事をしたのだから、お母さんは許してくれるだろうか、
その言葉の「本当に良い事」は、
「最大の神聖sacredな自己発露revelation」をしたのだから、
お母さんは、自分の行為を、受け入れて、自分をお母さんの中に生かしてくれるだろうかと読みかえます。
魂の顕現、それは、一瞬一瞬、一言一言にも刻まれている気がします。
残された者の無念な思い、それは故人への供養と共に時間をかけて溶かされるのかなとも思います。