のんのん太陽の下で

初めての一人暮らしが「住民がいるんだ・・・」と思ったラスベガス。
初めての会社勤めが「夢を売る」ショービジネス。

全制限解除

2011-09-12 | 右足不自由日記
 良く晴れたので洗濯をすると、病院へ行きました。様子を訊かれ、気になる可動域の制限がある方向をお伝えしました。それから、アキレス腱を診て頂く為にズボンの裾を膝まで上げた時に、膝の腫れのことをお聞きすると、丁寧に診て下さいました。膝を打ったり、膝で歩いたりするとこのような症状が出ることがあるようですが、膝で歩いたのはギプスやブーツをつけていた時ですから、随分と前のことです。水を抜くということも考えられるが、あまりお勧めはしないということなので、おっしゃる通り、もう少し様子をみることにしました。
 診察は、前回同様、両足のつま先立ち、片足つま先立ち。
「わあ。」
 先生は、驚いていらっしゃいました。
「仕事には戻ったの?」
 ジャンプをしてはいけないという制限があるので、戻れないことをお伝えすると、
「もう制限は無しでよいでしょう。」
 今までの流れからすると、例えば歩いてはいけないという制限があった時、次には一日三十分歩いて良いとか、そういう段階があったので、今回もそのようになると思っていましたが、一気に全制限が解除されました。土曜日から、私の思っているよりも早く事が進んでいきます。
 病院の後は、いつものようにゲイルとタイレストランでランチ。良く話しました。誘われてアウトレットモールへ。夕食は、焼き肉を食べに行きました。

プレゼンテーション行き

2011-08-10 | 右足不自由日記
 一ヶ月ぶりの病院でした。今日の診察で、復帰の日が一ヶ月先か、二カ月先か、上手く行けば数週間後に診察が入り、二、三週間で復帰が出来るのではと思いながら行きました。
 先生にお会いすると、先生の方にアキレス腱を向けて、両足でつま先立ちをするように言われました。ひょいひょいっと何度か行うと、先生は、
「ほう。」
 と感心され、
「まさか片足でつま先立ちは出来ないよね。」
 私は、一番高い位置まで行かないが、何とかできると言いながらお見せすると、
「普通は三カ月でそんなことできないよ。君はスーパーウーマンだね。」
 先生もそのように励まして下さっているのかと思いましたが、あまりにも驚かれるので、私は少しならジャンプも出来ますと、両足で跳んでみせると
「ああ、もういいからやめて。」
 と心配されていました。そして、
「ビデオを撮って僕のプレゼンテーションに使えるね。」
 と笑っていらしたので、先生の素晴らしい手術のお蔭ですと言って私も笑いました。
「ジャンプをしないで何かできる?ジャンプをしなくていいのなら、もう仕事に戻って良いよ。」
 私は、ビックリして、信じられずに、何度も訊き返しましたが、仕事に戻って良いと本当におっしゃって下さったようでした。次は一カ月後にまた診察に戻るように言われたので、予約を取るために並んでいると、先生が私の名前を呼ぶのが聞こえ振り返ると、先生は、カメラを持っていらっしゃいました。
「申し訳ないけれど、もう一度靴を脱いでやってくれる?ビデオ撮るから。」
 両足と片足のつま先立ちを終え、両足ジャンプもしましょうかと伺うと、
「お願いします。」
 私の順調な回復は、先生のプレゼンテーション行きとなるようです。
 思い掛けない仕事復帰の許可にビックリして、ドキドキしていました。今日のランチの約束をしていた、そして、怪我をしてから特にお世話になっているゲイルには、すぐに報告をしました。彼女もとても驚いて、言葉が思い浮かばないほどに喜んでくれました。幸いと言いますか、ゲイルはランチの都合がつかなくなったということなので、カイロプラクティックへ行くことにしました。今の右股関節の動きでは、良い演技が出来ません。今日許可を頂いても、誰も予想していなかったことなので、すぐに復帰することは出来ないと思います。この間に、右股関節もしっかり治しておきたいと思い、すぐに予約を入れることにました。こちらも幸い、すぐに診て頂けることになりました。
 アパートに戻ると、今日初めての食事をして、急いでフィジオに向かいました。私は仕事に戻って良いと許可が出たので、バトンを練習して良いものと思っていたのですが、
「バトンの練習をしようと思っているの?」
 バトンはいつものようにケースに入れて、目立たないように持って行ったのですが、ミランダに見つかってしまいました。私は、練習をしてはいけないことを何となく感じとっていたので、目立って練習をすることを避けていたのですが、本当に駄目だったようです。それも、仕事に戻って良いと言われても、まだ。すぐにまだ駄目なことを感じとったので、「はあ。」とか、「まあ。」とか答えていると、
「そうね…、リハビリテーションの一環ということにしておくわ。」
 本当に不自由です。
 アーティスティックコーディネイターにはお会いしたので、復帰の許可が出たことをご報告できました。とても驚いていらっしゃいました。ステージマネイジメントのステイシイには、ご報告に伺いました。そして、ジャンプをしてはいけないという制限が解除されるまで、復帰は無いということが分かりました。私は、ジャンプをしなくても舞台で何かをすることは出来ますが、完全に治っていないことも分かっていたので、それは素直に受け入れられました。今回の怪我は、大きな怪我です。自分で判断しない、人の意見をしっかり聞き入れる、自分で早期復帰の希望を訴えない、と最初から決めていました。自分が思っていた通り、少なくともあと一ヶ月を使って身体も心も舞台人に戻していけることになり、焦らずにすみます。話の中でステイシイは、
「あなたの姿は、怪我をした今でもみなに良い影響を与えているのよ。」
 とおっしゃって下さいました。私はそれで涙を流してしまったのですが、彼女は私が舞台に戻れないのを聞いて涙を流しているのかと思ってしまい、修正するのが大変でした。
「あなたが世界記録を作りたいと思っているのは知っているけれど……。」
 そんなことは全くありません。
 彼女との話が思いがけず長くなり、フィジオに遅れてしまいました。フィジオは、昨日いろいろなエクササイズをしたので、今日は、ストレッチと自転車だけでした。
 KAは八月の末から長期休暇があり、私も当然、その間はお休みを頂けると思っていたのですが、そうではないようです。本来は、他のショーに行って、エクササイズを続けなければならないようです。また、ラスベガスを離れる時は、自分でエクササイズをすればよいという前回頂いたお医者さまからの許可は、今日のお医者様までで無効となり、また、新たな許可が必要だったようです。こちらも何かと不自由です。
 いろいろと時間が掛かったので、少し待ってマッサージを受けることにしました。右股関節はとにかく早く治したいです。
 今日はお客様を迎えることになっていたので、その登録をしようとすると、
「あなたはショーに出ていないのだから、そんなことしてはいけないのよ。」
 こちらも全く知らないことでした。リハビリテーションの為という時間以外は、そこに居てはいけないのです。フィジオでその時間にエクササイズをすることにして頂いて、今日は何とかなりました。ということは、木札の販売など以ての外ということに気付きました。ショーとショーの間にKAに戻り、木札の販売をしてバトンの練習をしてお客様をバックステージにご案内しようとしていたのですが、どれもこれも駄目なようです。不自由です。
 帰り掛け、開演が遅れているという放送が入りました。たくさんのお客様にいらして頂いているようです。もしかすると、“O”がお休みなのかと思いました。
 一度アパートに戻り、食事をすると、再びフィジオに戻りました。ショーが終わる頃、劇場の客席に入ると、ショーを終えたアーティスト達に手を振り、お客様を待ちました。しかし、いくらお待ちしてもいらっしゃらないのです。お座りの方向を見ると、まだ席にいらっしゃるようでした。お客様が残り少なくなっても、まだそこにいらっしゃいました。きっと感動に浸っていらっしゃるのだろうと思い、その場でお待ちすることにしました。
 お会いすると、彼女はとても喜んで下さっていました。
「のんのん、ここまで本当によく頑張ったね。」
 と涙を浮かべながら、おっしゃって下さいました。アーティストにも、興奮状態で声を掛けて下さり、また、フィジオにご案内すると、そこにいらしたコーチも含め、裏で働いて下さっている方々がどれほどサポートして下さっているか、そこにも感謝の意を示して下さいました。みなさん同じように感動して下さるのですが、彼女は英語が堪能で、さらに表現力も豊かで、みなさんの心に深く響いたようです。
「ノリコさんがいつもお世話になり、ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。」
 その言葉に、涙が出そうになりました。彼女は、私が子供の頃華やかに輝いていたお姉さん。私は、バトンの歴史を振り返りました。まだまだマイナーであったバトンを、夢を持って続けられた先生方、先輩方。今の私があるのも、開拓して下さったみなさんがいらっしゃるからなのです。そして、みなさんが今もなお見守って下さっています。改めて感謝を致しました。
 中学生のお嬢様は、本当に良くショーをご覧になっていて、たくさんのことが見えているようでした。小学生のお嬢様は、本当に細かいことを質問して、みなでびっくりしました。ショーに感動し、舞台の上に立っているアーティストだけでなく、裏で働いて下さっている方々に本当に感謝して下さった私の先輩であるお母様。みなさんにお会いし、素晴らしいひと時を過ごすことが出来ました。また是非いらして下さい。

カードに笑って良い薬

2011-06-15 | 右足不自由日記
 シルク・デュ・ソレイユのアーティスト達によるショー、『Cabaret』が真夜中にあるので、それに合わせて遅めにMGMへ行きたいと思い、ジャニンに車を頼みました。遅れたことを謝りながら現れた彼女は、土曜日に遭った出来事を教えてくれました。そして、その時は何も持逃げされていないと思ったけれど、今日ネックレスを取り替えようと思い、ベッド横にいつも置く箱を取りに行くと、それがないことに気付き、しばらく何も出来なかったそうです。出しっ放しにしてあったコンピュータやカメラはそのままいつもの位置に置いてあったので、大丈夫かと思っていたそうですが、ネックレスや時計が入っていたというその箱だけ、盗られてしまったようなのです。こういう時の本番は、辛いものです。
 プロップスのみなさんより贈り物がありました。孔雀の羽が付いた大きな封筒を開けると、手作りのカードが入っていました。そしてそのカードを見ながら大きな声を出して笑ってしまいました。プロップスのみなさんの顔写真を私の身体にはめ込み、カードを作って下さっていたのです。
        
「あなたがKAに出られない間も心配しないでください。代わりが出来ました。」
     
「バトンのアクトは私達が出来ます。」
     
「写真撮影も問題ありません。」
     
「広報活動に向けても準備が出来ました。」
     
「練習をして控えている者もいます。」
     
 笑うことが何よりの薬になることでしょうと、一日も早い回復と復帰を願い、楽しいカードを作って下さっていました。みなさんのお心は元より、これだけのカードを作るのに費やした時間のことも考え、本当に有難く感謝致しました。とび出すように作られたそのカードは本当に良く出来ていて、なるべくたくさんの人に見て頂きたいと思ったのですが、プロップスの方は、私がこのカードのおもしろさを理解するか心配で、何人かの人にはすでに見せて確認をしていたようです。みんなにカードを見せる度に、また声を出して笑いました。
 トレーニングルームに居ると、パージェントと呼ばれるショーの始まりのシーンの練習が始まりました。昨日会った新しい中国人のアーティストは、もう衣装を着て練習をしていました。きっと彼は、KAの休暇が終わった後に来たのでしょうから、まだ練習を始めてから一週間ほどしか経っていないと思います。それなのに、もう舞台に立てそうな感じでした。思った通り存在感もあり、堂々としていて、とても期待が出来るアーティストな気がします。
 水曜日のマッサージ師は人気があって、いつも予約でいっぱいなのですが、今日は空きがあったので、私も受けさせて頂くことが出来ました。一人二十分のマッサージ時間ですが、余裕があるようなので腰もお願いすると、知らぬ間に相当かたくなっていたようです。「やり方を変えないとだめだな。」などとと言ってほぐしていって下さいました。ショーに出ない間は、水曜日のマッサージも受けられます。車に乗れるようになれば自分で通えるので、来るようにしようと思いました。
 昨日、エリカが企画しているチャリティショーから、バレエの演目を無くすかもしれないと言われていました。振付を頼まれていたものですが、時間もなく他にいろいろと整理しなくてはならないことがあるので、今から始めるより、無くした方が簡単だということでした。バレエダンサー達に連絡を取るということでしたが、まだ返事が来ていないそうです。
 時間に余裕があり、トレーニングルームでたくさんのことが出来ました。右脚付け根の調子が気になりますが、二本足で歩けるようになれば、変わってくることかとも思います。
 ピラーティスは予約がいっぱいで、今日は受けることが出来ないので、自分でしようと思いました。先生にお会いすると、「怪我のこと聞いたわよ。最後まで踊り切ったそうね。ヒーローだって聞いたわ。」と。誰がそういう風に伝えているのか。きちんと踊れたわけでも何でもないのに、どこかに私をヒーローに仕立ててくれている人が居るようです。
     
 今年の『Cabaret』は、ズーマニティの劇場で行われました。MGMからズーマニティの劇場があるニューヨーク・ニューヨークまで、松葉杖では時間が掛かると思い、KAが終わるとすぐに出掛けると、劇場を出たところにアーティストの彼女が二人居ました。少し話していると、二人は彼達を送るためにそこで待機していることが分かりました。私は、ニューヨーク・ニューヨークは歩いてすぐの所なので少しびっくりしていたのですが、私が歩いて行くことが分かると、乗せて行ってくれることになりました。
 会場には早目に着いたと思っていたのですが、すでにたくさんの人が集まっていました。今年の『Cabaret』は、楽しめました。KAに京劇のアーティストとして入ったサイモンは、三つのボールのジャグリングをしながらダンスをしていました。それも、ボールをただお手玉のようにジャグリングするだけではなく、腕を転がしたりいろいろな技術を取り入れて、ボールに表情が出ていておもしろかったです。“O”の日本人スイマー達は、二本の大きな輪が平行に繋がれた器具を使うジャーマン・ホイールをしたり、空中に吊り下げられた長く大きな布を使うエアリアル・ティシューをしたり、シンクロナイズド・スイミングとは全く違うことに挑戦をしていました。さらに驚いたのは、憧れのロスくんが途中からホスト役で入り、みなを笑わせていたことです。本当にみなさん多才です。KAのアーティスト、スペンサーのバラエティ・ラジオはいつ観ても何度観ても楽しめます。一番のお気に入りは、Viva Elvisのアーティストによるダンスだったでしょうか。しなやかで力強く、熟練されていて本当に素晴らしかったです。
 暑い一日で、午前三時過ぎでも摂氏三十度あったのではないかと思われます。この夏は、家に居る時間が多くなると思いますので、熱中症にならないように気をつけなければと思いました。

五月五日の手術の日

2011-05-05 | 右足不自由日記
 良く眠れました。途中二回ほど、右足がピクッとして一瞬起きましたが、あとはぐっすり眠りました。
 足の調子が良いように感じました。少し動かせます。どこにあるか分からないようになっていたアキレス腱が見え、触ることが出来、「もしかして、繋がったの!」などと思い、テストまでしてみましたが、動きません。もう一度、落ち着いてアキレス腱を触ると、窪んでいるところがありました。
 ゲイルとご主人のロビーさんに朝の挨拶をすると、アキレス腱を見て頂きました。「あなた健康だから、細胞が自分達で繋がろうと寄って来たのかしら!」残念ながら、そんなことは、有りません。凹んでいるところを触って頂きました。
 さて、出発です。気持ちの良い朝でした。
 病院ではすぐに受け付けをし、一つ分からなかった書類に対し質問をして、“遺書を持っていない”に印を入れ、著名をしました。そして、すぐに中に入って行きました。体重を量ると百ポンドありませんでした。食べ過ぎないように気を付けているからでしょうか、既に筋肉が落ちてしまったのでしょうか…。それから、妊娠の検査。もしも、怪我をして、長く休まないといけない時に、妊娠をしたら都合が良いと思ったことはあります。でも、今子供が欲しいとは全然思わないですし、第一、そう上手くいくものではありません。何の質問もなく、「はい、次は妊娠の検査です」。ちょっとびっくりしましたが、手順に従いました。
 ベットに脚を伸ばして座ると、看護婦さんが記入済みの書類を見、私は再確認の質問をいろいろと受けました。そこに今日の手術を担当して下さる先生がいらして、KAの仲間の話をしました。先生は、レイだけではなく、テイメンやテリラの手術もされたそうです。そして、右のアキレス腱に油性ペンで印を付けると、去っていきました。私の前にひとつ手術があるそうです。
 看護婦さんが戻ると、右足を見て、「あら、印付いているわね。」などと言いながらも、右足に“YES”、左足に“NO”と、確認として油性ペンでもう一度書き入れました。そして、洗い晒しのペラペラの衣服に着替え、帽子をかぶり、人生初の点滴を始めると、ゲイルを連れて来てくれました。手術は、自分ではどうすることも出来ないからでしょうか、不安もなく、そこにゲイルのエネルギーが溢れ、いろいろと楽しく話しました。珍しい私の姿を、写真に撮ってくれました。
 手術は九時からの予定でしたが、時計を見るとすでに四十五分が過ぎていました。私の前の手術に時間が掛かっているとのことでした。
 麻酔科の先生がいらっしゃいました。飲食のことを訊かれたので、昨晩十時前から食べていないのでお腹が空いていることを伝えると、麻酔と一緒にそれを解消するミルクのような液体を入れると教えて下さいました。ごつい顔の優しい先生でした。
 そこからは、早かったです。手術に付き添う看護婦と紹介されたと思うのですが、その方がいらして、まさか今座っていたベッドがそのまま動くとは思っていないところ、いつの間にかベッドは平らになって、私は横たわり、手術室へ運ばれて行きました。手術台の横に着くと、麻酔科の先生が、ショーのことでしたでしょうか、何かを質問して、私がそれに答えているうちに手早く段取りを付け、事前の説明と同じことを簡単に説明しながら麻酔薬を点滴をしていたところに入れ、「これがミルクの液体ですよ。」と私の目の前に見せると、私は意識が無くなっていく自分を感じていました。何か言わなくては、と思ったのは、無意識になる自分に恥ずかしさがあったような気がします。「眠りにつきます。」
 「… …ノリコ。…ノリコ。ノリコ。」遠くの方で声が聞こえました。バイグーやレイと話をしていた時、「そうそう、目を覚ますと、『ここどこだっけ。』って思って『ああ、手術してたんだ。』って気付くんだよね。」などと言っていたので、麻酔からは自分で目を覚ますのかと思っておりましたが、そうではなく、起こされて意識を戻していきました。手術より、麻酔の方が心配ではありましたから、起こされようが、自分で起きようが、目を覚ませたことは良かったことでした。何か質問をされましたが、何だったのでしょう、覚えていません。意識朦朧の内に答えました。まだ目が半分閉じている時に、自分の足を見るとオレンジ色で、ビックリして、もう少し目が覚めました。しばらくすると、全身が少し痙攣していました。看護婦さんが、少し休むか尋ねましたが、ゲイルが待っていると思い、大丈夫と言いました。もう一人看護婦さんがいらして、手早く着替えさせて下さり、車いすに乗せて頂き、別室へ行きました。丁度ゲイルがドアを開けて入ってきました。「今先生と話したけれど、順調だったそうよ。」と言っていました。私は、まだまだ眠りの中、今後のことについていろいろと説明を受け、それを聞いたという紙だったと思います、そこに著名をし、ゲイルの運転で彼女の家に帰りました。
 とても起きていられる状態ではなかったので、ゲイルのお誘いもお断りしてすぐに寝ました。約一時間で目を覚ますと、丁度ゲイルが様子を見にドアを開け、シリアルとヨーグルト、フルーツなどをきれいに並べて持って来てくれました。久しぶりの食事、とてもとても美味しく頂きました。
 四十八時間は足を上げた状態にし、渡された冷却機で冷やすそうです。冷却機から管が出ていて、足の周りに着けたサポーターの中を冷えた水が循環するようになっています。繋がれた身で、トイレに行くたびに着け外しをお願いするのも気が引けると思っていましたが、機械を良い位置に配置できて、管を外さずにトイレに行けるようになりました。今日は水を良く飲み、トイレには二十回位行きました。配置が上手く行き、本当に良かったです。
          
 麻酔の最後は局所麻酔にしているそうで、夜までは、鎮痛剤を飲まないで済むだろうということでしたが、抗生物質は飲まなくてはいけません。薬嫌いな私ですが、ここは従いました。鎮痛剤は、痛みがある時だけで良いということなので、出来るだけ飲まずに済ませたいと思いました。友人が言うには、意識が朦朧とするほど強いそうなので、怖いです。フィジオでもらったもう少し弱い薬もあり、それでも良いということでしたので、いざという時は、まずこれを飲もうと思います。
 足を上げて冷やしていても、冷たい感覚はありませんでした。でも外側を触ると、冷たい水が回っているのが分かります。ときどき足の指を動かすように言われ、気付くと動かすようにしながら、ゆっくりしました。
 七時を過ぎると、感覚が戻ってきました。つまり、痛みだしてきました。八時頃、抗生物質を飲む予定でしたので、ゲイルが作ってくれていたトマトやモツァレラチーズの入ったパスタサラダを、ロビーさんに頼んで、持って来て頂きました。とてもきれいに盛りつけられているそのサラダを、美味しく頂きました。
     
 夜は、手術前に自分で作り、食べきれなかった豆乳ゼリーを持って来ていたのでそれを食べて、薬を飲もうと思っていたのですが、ゲイルが仕事から帰ると、鱈のサラダを持って来て下さいました。ホウレンソウ、アルファルファの上に鱈がのり、グレープフルーツが散らしてありました。とても、おいしかったです。お二人に感謝をすると共に、食の力の大きさを改めて感じました。