気の向くままに

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健康

2014-09-14 10:24:27 | 日記

 

 

 すべては健康であってこそ 9月14日 2014.9.14 06:30 [産経抄]

 作者不詳の詩から一節を引く。「より偉大なことができるようにと/健康を求めたのに/より良きことができるようにと/病弱を与えられた」。詩の由来は詳しく知らない。一説には、ニューヨークのある病院の一室で患者が壁に書き残したという。

 ▼およそ人が背負った境涯には意味がある、と詩は教える。「賢明であれ」と貧困を授かり「あらゆることを喜べ」と生命を授かった-と。そう達観できれば心はいくらか軽くなる。確かに、世を憂えても財布の目方が増えるわけでなし。まずは今の健康体を喜ぶか。

 ▼とはいえ世の中には重い疾患を抱え、現実的な救いを望む人もいる。目の難病を患う70代の女性に、人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作った網膜細胞の移植が行われた。「夢の医療」ともいわれる再生医療。その臨床応用は、患者にとって文字通り一条の光だ。

 ▼iPS細胞は体のさまざまな細胞に分化するという。打ってよし、投げてよしの万能型選手を連想すればよい。いずれ心臓や神経など、難度の高い領域で活躍する日も来るだろう。扉の向こうに広がる健康な世界へと、難病患者を導く「鍵」となることを祈りたい。

  ▼きのうの紙面には、100歳以上の高齢者が最多を更新したとの記事もあった。誰の手も借りない壮健達者な人ばかりではあるまい。医療の進歩は老いてからの先を伸ばしてはくれる。しかし、扉ひとつを隔てて、健康と病が背中合わせという現実に変わりはない。

 ▼健康な時間をいかに長く生きるか。胸に手を当てればそこに鍵がある。若さに任せて痛飲し、ストレスにかこつけて暴食に走っていないか。iPS細胞も、元だねは自分の細胞だ。資本となる体があってこそ、と思うにつけ冷や汗がにじむ。

 

 

 健康であるとか健康体であるとは、どの程度であればそういえるのか?その概念は100人100とおりであろう。強いて言えば、自己の目的を納得できるほどに達成できる、その程度の心身と社会的状況にあれば健康・健康体と言えるのではないだろうか。特に高齢者にとっては。

WHO憲章では、その前文の中で「健康」について、次のように定義している。

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.


健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう。(日本WHO協会訳)