少し歴史を遡ることにします。アラブの医学が西ヨーロッパに伝播した過程をもう少し丁寧に見ていこうと思います。
健康全書(Taqwim al-Sihhah)は1266年にシチリア島で、ラテン語のTacuinum Sanitatisというタイトルで翻訳されたのが始まりです。そこからヨーロッパに広まり人気を呼びました。、(イブン ブトーラン(Ibn Butlân; circa. 1001 - 1066)が書いたタクウィームッスィッハ(Taqwim al-Sihhah)がそれにあたり、健康の維持の為には6つの要素; 「健康的な飲食習慣、 運動と休息、 睡眠、 ユーモアのバランス、 喜び、怒り、恐れ、苦痛の節度を守ること。」が重要であると説いています。 イブン ブトーランはギリシャの医師で、ヒポクラテス ( Ἱπποκράτης、Hippocrates , BC460 – BC370、古代ギリシャの医者。医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、病気は4種類の体液の混合に変調が生じた時に起こるという四体液説を唱えました。人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液をもち、それらが調和していると健康ですが、どれかが過大、過小すると、その部位が病むとした)の理論を引き継いでTaqwim al-Sihhahを書きました。
ローマの南東約50 km、アナーニにあるアナグニ大聖堂(ラツィオ)の地下室のフレスコ画に描かれたガレノス(左)とヒポクラテス(右)12世紀。二人が並んでいる絵は、正にユナニ医学の象徴とも言えます。
サレルノで最も有名な教師であり、医学書の翻訳者でもあった、コンスタンティン アフリカヌス※1(Constantinus Africanus 若い時代、チュニジアに過ごした後、イタリアで暮らしサレルノ医学校の教授を務めた1018-1087)のような人物が、ノーマンとホーエンシュタウフェンの庇護の下で何人も現れます。医学は盛んになり、パリ、ボローニャ、オックスフォード、モンペリエへとその流れは広がり13世紀には大学組織へと引き継がれることになります。
尿を差し出す医師に診断を下すコンスタンティヌス 作者、制作年代不詳
アヴィセンナの医学典範に描かれたサレルノ医学校 Die Schule von Salerno in einer Darstellung in einer Ausgabe des Kanon des Avicenna
10世紀にはフランスやイギリスの王族が治療のためにサレルノを訪れました。当時はギリシャ、ローマの学説を伝統としていましたが、11世紀末にコンスタンティヌス アフリカヌスによってもたらされたアラビア医学の影響を受け、12世紀には名声が頂点に達します。サレルノを訪れたノルマンディー公ロベールⅡ世に献呈した『サレルノ養生訓』(Regimen sanitatis salernitanum)※2 は後になって、ヨーロッパ中に広まるほど有名になりました。
講義するコンスタンティヌス 作者不詳、1573発刊の表紙絵
※1コンスタンティンアフリカヌス( Constantinus Africanus、1017– 1087 )バグダードで医学、イスラム科学と外国語を学び、薬草の貿易に携わった。医学の知識を得て、カルタゴで医師として成功したが、1077年にサレルノ医学校の教師となった。翌年、さらに優れた医書を求めて、ギリシャ、アラブの各地を旅した。ローマ教皇ウィクトル3世の保護を受け、その後、ベネディクト会の モンテ カッシーノ修道院に定住し、ヒポクラテスやガレノスの著作を含む医書の翻訳を行った。キリスト教に改宗した。コンスタンティヌスによって、サレルノ医学校の評判は高まった。 コンスタンティヌスが翻訳したイスラム医書に アリー イブン アッバース アル マジュシ('Ali ibn al-'Abbas al-Majusi、マソウディ, masoudiとも呼ばれる)の 『王の書』やイブンアルジャザール(Ibn al-Jazzar)の『旅人の備え』などがあります。
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