平和の歌・核兵器絶滅へと戦った英雄の歌

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 続7

2013年08月06日 | Weblog
 NO7
 
戦争映画は青少年を戦争に夢を持たせる。暴力映画、暴力漫画も同じ。世の中そんな甘くはない。だまされてはつまらない。人間の生命はお金には変えられない価値がある。
 平和、幸福は人間の求めるものだ。笑顔の家庭、安心の世の中、天下泰平は万人が求めるものだ。その昔、中国では太平の時代があった。役人は汚職をやらず、青少年は年上を大事にする。人々の心も穏やかで道で拾ったお金は届けた。就職も困らず、齢をとっても困らず、話は飛んでしまったが、要するにだまされないことである。
 核兵器があれば国は安全と思い装備をするのであろうが、しかし、大量に人を害にする武器である。人間にもルールがある。常識ある社会生活してこそ世間が認める。戦争にもルールを設けるべきだ。大量殺人化学兵器や何十年も後遺症にする兵器は廃棄にすべきである。

 昭和の始め頃、第二次大戦の時、日本は軍部が力を持っていた。憲兵隊を使い言論を統制した。自由に発言したならば早速警察が身柄を押さえた。そして、ヤキを入れた。逆らうものはひどい仕打ちをした。
 青年らも軍隊へ。強制てきであった。軍隊では鍛える。言うこときかないにはバットにちかいものでヤキである。純粋な青年にもヤキである。
 ひどいものだ。戦争は。多大のひとが外地でなくなった。むしけらのように。夢、ロマンを、希望を持った青年は目を輝かせていた。しかし、平気で鍛えた。暴力で。日本国の名をもって逆らうものは弾圧した。青年はめの輝きは失せ、失意のドン底であった。
 そして、特攻隊の命令だ。逆らうのは反逆の名を持って弾圧。ひどいものだ戦争は。そして、武器を、無敵の武器開発に懸命になり各国はあらそう。核兵器はまた恐ろしい武器であった。
 しかし、戦争の時でも平和を求めていた人達は活動した。権力から弾圧されながらも平和活動した。中には、権力に拘束され絞られて我慢し時を待った人たちもいた。

                                 2010年08月10日 | Weblog

平和の特集   NO6

2013年08月06日 | Weblog
原爆の恐さ  広島爆心から1,2キロ地点 その日のうち 50%死亡

 45年12月末まで14万人死亡

 婦人の体験 (爆心から1,2にいた) ( 大勢の人が逃げてくる。顔が腫れはがり、男女の区別がつかない人が、バタバタと倒れていく。皮膚が指先に垂れ下がり、水をくれ!とうめく
 (体験者は父を原爆でなくす。本人も原爆症にかかり、せきたんで苦しめられ、ガンによる死亡の恐怖感になやまされる。しかし、立ち直り、現在は明るく生きている)


 解説 恐いものだ一発の原爆で多大の人が亡くなった。今年も、その後遺症で多くの方が亡くなった。しかし、体験者のはなしだと、原爆で、顔が男女の区別ができないというからひどいものだ、水くれはのぞが熱くて体があつくて、水がほしくてしょうがないじょうたいであったんだろう。恐ろしいものだ、将来の原爆の廃棄は当然だ。

                               2010年08月07日 | Weblog

平和の特集  NO5

2013年08月06日 | Weblog
核問題   戸田平和記念館
| Weblog

横浜 戸田平和記念館  (反戦 平和と生命尊厳の哲学を発信する拠点会館)
1979年オープン
来訪者100万人へ

 戸田城聖が1957年9月、原水爆禁止宣言を発表する。その弟子の池田大作が、恩師の精神を受け継ぎ、核兵器廃絶へと、世界を舞台に反核展示、提言とう行動されてきた。戸田平和記念館は平和への発信の拠点として誕生させた。記念館には、戸田城聖の貴重な草稿及び核兵器の恐さしる資料、パネル等展示されている。現在、来訪者は100万人近くに。

 交通 桜木町(JR)
からバス 石川町駅(JR)徒歩15分他あり


解説 原爆は広島、長崎で多大の人が亡くなった。一発で何十万人も。家、ビルの姿もない。赤ちゃん、年配者、青年も無差別に。その無残さを、創価学会会長の戸田城聖は悲しみ、原水爆禁止誓言をされた。その弟子の池田大作は、師の戸田の精神を受け継ぎ行動した。世界へ、国連へ、原子爆弾廃絶へと行動した。その発信の拠点が戸田平和記念館である。まもなく、100万人になる。会館には原爆の恐ろしさをわかり易く解説されている

                             2010年08月04日 作品

平和の特集  続4

2013年08月06日 | Weblog

    戦争の悲惨

     壮年 (南方へ戦争へ行く)

 壮年 米がない、ご飯がないんだよ。

 聞き手 御飯ないことは、戦が出来ないですね。腹がへって出来ないですね。

 壮年 ご飯がない。ひどいものだった。
                    
 
 解説 現在 映画など戦争はかっこいいと思っている青年もいるが、実際は悲しみの日々ですね。どうして、御飯や物質なものがなくて戦争が出来るだ。当時、日本は何もなかった。銃だってひどいもの。米軍の連発銃はすごかったが日本はぜんぜん駄目だった。物がなかったのだ。命令の違反者はびんた。
 
 南方ではたくさんの日本兵が飢えで亡くなっている。道路には飢えで亡くなった人が多数いたという。
                        次回へ
                               2007年08月26日 作品