だいすき

基本的に自分の好きなものについて綴っていきます。嫌いなものやどうでもいいこと、さらに小説なんかもたまに書きます。

虹の男

2008年07月22日 20時38分25秒 | オリジナル小説
 志藤紫はあることが気になっていた。
 学校の廊下でちょくちょく見かける、少し目だった感じの男子生徒。
 背はちょっと高めで同じぐらい。ヒールを履けば紫が見下ろすことになる。
 顔はまぁ、悪くない。
 平均点以上ではあるが、如何せんよく並んで歩いている連れの男子が格好よすぎて、そこまで際立った印象を与えない。
 よく笑い、通る声をしているので、気にするつもりはなくてもついついそちらを見てしまうのだ。
 なにより、彼の名前が気になって仕方ない。
「お~い、トラー」
 最初は確かにそう呼ばれたはずだ。そして彼は、
「なんだ?」
 と普通に返していた。
 次のときは、
「かっちゃん」
 その次のときは、
「バッキー」
 いくらなんでも無節操すぎるだろ。
 聞く度に、紫はつっ込みたくなっていた。
 さらによくよく聞いてみると、
「椿君」
「影虎さん」
 と呼ぶ者までいる。
 この時点で、ようやく紫は理解した。
 彼の名前を。
 そして少し感心したりもした。
 ひとりで呼び名が五つもあるなんて凄いじゃないか。
 言葉を交わしたこともなく、知人ですらないのだけど、彼女の中で椿影虎の評価が少し上がった。
 そして少しした頃に、彼女の心を強く疼かせる出来事が起こる。
 それはほんの些細な一言。
 その場にいた誰の耳にも届きながら、誰の心にも響かなかった言葉。
 放課後、誰も彼もが解放感を満喫しようと、先を急いでいる校門で発せられた。
「椿影虎!」
 声の主はいまどき珍しい、見るからに不良とわかる格好をした他校の男子生徒だった。
 校門の外で腕を組み、仁王立ちで影虎を威嚇している。
 その後には、『ザ・取り巻き』といった感じの男子生徒が五、六人控えている。
 ひとり下校途中だった影虎は、特に気にする様子も見せずに彼等に近づいていった。
 校門付近にいた全員が、興味深げに事の成り行きを見守っている。
 紫もそのひとりだ。
 だが彼女には、このあとの展開に対する興味など少しもなかった。
 あるのはその呼び名。
 六つ目の呼び名。
 影虎は仁王立ちの男子と少しやり取りをした後で、急に足を振り回して、男子を蹴っ飛ばしていた。
 吹き飛ぶ男子と、それを支える格好となった取り巻きに目をくれることもなく、そのまま歩き去る。
 他の生徒も呆気なく終わった騒動に少ししらけながら、各々の足を動かし始めた。
 呼び名が六つ。
 騒動の間も、紫の頭の中にはそれしかなかった。
 気がつくと、彼の後を追っていた。
 足も長く運動神経も良い紫は、息を切らす間もなく彼に追いつき、容姿に負けない可憐な声でその背を叩く。
「影虎君」
 足を止め振り向いた影虎は、紫の姿を認めた途端、よく学校の廊下で皆にみせているような人懐っこい笑顔を浮かべた。
「あ、ゆかりちゃん」
 同級生とはいえ、言葉を交わすのは今日が初めて。それなのに、影虎の口調は古い馴染みに向けたそれみたいだ。
「うわっ、気安い」
 一歩引いた心の声が、思わず口をついて出る。
「だめ? ゆかりちゃんてそういうの気にする方」
 紫の態度に、しかし影虎は少しも臆する風がない。
「ううん。別に気にはしないけど」
 確かに紫も、どちらかといえば気安い方だ。影虎ほどではないにしても。
「で、なにか用? 恋人ならいないよ」
「そうなの? 残念ね」
 少しも残念そうでない口調で、さらっと流す。
「でも、いいんじゃない。あなたは他の人が持っていないものを、たくさん持っているんですもの」
「そうだっけ? お金もないよ」
「でも、あだ名はあるわ」
 影虎の顔から人懐っこい笑顔が消えた。代わって困惑気味の相が浮かび上がる。
「ああ、うん。あだ名ね。確かにあるね。嬉しくないけど」
 逆に紫の顔には満面の笑みが、まるで華を咲かせているかのよう。
「しかも六つよ、六つ。羨ましいわ」
「ああ、うん。人の話聞いてる?」
「もう一個増えたら七つよ、七つ。まさに虹の男だわ」
 他の全てを置き去りに、紫は至福の絶頂に辿り着こうとしていた。
 それを見ている影虎はなす術もなく、ひとり途方に暮れている。
「でも、七つ目はないし」
「作ればいいわ」
「誰が? ゆかりちゃんが?」
「もちろん」
 自信満々な態度。逆にそれが影虎の不安を煽る。
「なんて?」
 訊かれて少し間を置いた。勢いで応えたものの、それほどのものを紫は用意していなかった。
 素早く脳味噌をフル活動させる。思考能力が低い方ではなかったが、ネーミングセンスに自信があるというわけではない。
 期待と不安の入り混じった影虎の視線を重く感じながら、数秒後紫は自信なさ気に口を開いた。
「つ……つっつん」
 椿の『つ』から取った。まだそこの部分は使われていないから新鮮だと思うし、語感的にもそれ程変ではないと思う。
 とはいえ、紫にしても自信作というわけではない。
 恐る恐る影虎の様子を窺うと、目の前では好青年の表情が、みるみる無残なものに変化していく。
 その悲壮感漂う衝撃の受け方が、紫のつぼに嵌った。
 出来のわからないあだ名が、これしかない至高のニックネームに思えてきた。
「決定! 今日からあなたのあだ名はつっつんで」
 年頃の女子高生が大好きなアイドルを前にはしゃぐのと同じように、浮かれきった口調で紫が言い放った。
「いや、ちょっと待った!」
 ようやく我に返った影虎が大慌てで阻止に走る。
「それはどうだろうね、ゆかりちゃん。もうちょっとよく考えてみたら。そうだ。一晩じっくり考えてみる、なんていうのはどうだろう。その方が落ち着いてゆっくり考えられるし、きっともっといい案が浮かぶと思うな。だってさ、つっつんだよ。なにそれ。ちっとおしゃれじゃないし、かっこよくも」
「うるさいよ、つっつん。男が一度決まったことにがたがた文句云わないの」
 影虎の長台詞をズバッと切り裂くのも嬉しそうだ。
「いや、だからさ」
「つっつん、うるさい」
 問答無用。笑顔と態度で、紫はその四文字を体現している。
「もう決まったことだから。そういうことで、つっつん。明日からもよろしくね」
 なにをどう? と聞き返す余力は影虎にはなかった。
 茫然自失な影虎を残し、紫はそれこそ浮くような足取りでその場を後にする。
 今後彼と親しくする予定はない。そうしたいという思いも特にはない。
 けれどいいおもちゃが手に入った、と紫は思っていた。
 退屈ではなかった学園生活が、ますます面白くなっていくような気がする。
 そう思うと、紫は頬が緩むのを止めることが出来なかった。


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