足音が聞こえてくるのは、二つ手前の角を曲がった辺りからだ。
商店も露店も出ることのない裏通りだが、大通りと大通りを繋ぐ隠れた近道なので人通りは案外多い。大勢の足音の中からでも目当ての音を聞き分けられるのは、軽やかに跳ねるような足取りと規則正しい生活リズムのお陰である。
毎日決まった時刻に訪れるそれは、他の足音のように疲れているのでも急ぎすぎているのでもない。明日に希望を抱き、日々を楽しんでいる者の足音。
流れ行く足音の集団から逸れ、ひとつだけ角を曲がる足音が連れてくるのは、十代半ばの可愛らしい少女だった。
麗しきその名はアンナという。この近くの学校に通っている、十六歳になったばかりの少女である。
家から学校に向うには遠回りとなってしまうのに、まったくといっていいほど人気のない、寂れた細い路地を彼女が進むのには理由がある。突き当たりの人目につきにくい場所にちょっとした広場があり、そこに立つ一体の青銅像がその理由だ。
彼女が住むこのウェンリッタの都市は、様々な青銅像があることで知られている。その数なんと八十八体。なぜそれだけの像があるかといえば、語るに面倒な理由がある。
そもそもが宿場町として、さしたる賑わいも見せていなかった町だ。近くの湖で取れる魚が美味い、というのだけが取り柄であった。そんな町に転機が訪れたのは、嘆かわしい夜の到来と共にである。
三百年前に起きた夜魔大戦。次元の壁を突き破り、突如として人の住まうこの地を侵略し始めた常夜の種族――夜魔。夜の闇に棲み、人の魂を啜り喰らう彼等の大群を打ち破ったのが、この町で生まれ育った英雄ロイドだったのだ。
大戦を終わらせたのは彼ひとりの実力ではなかったが、その功績の大きさは誰もが認めるところだった。そして彼が生まれ育ち、一生を終わらせることとなるこの町を見ようと、大勢の人が押しかけることとなったのだ。
町は次第に発展を遂げ、百年が過ぎる頃には国家として独立を果たし、観光都市としての栄華を極めた。
その頃に立てられたのが、八十八体の青銅像だ。
夜魔大戦当時の実在の人物をモデルとし、街のいたるところに配置されたそれらの像はかなり出来がよく、中央広場の英雄ロイドはもとより、大戦を陰で支えていたという地味な人物の青銅像も人気があり、目当てで来る観光客は少なくなかった。
二百年たったいまではさすがにそれ程の人気はないが、住人達には長いこと暮らしを見守り続けてくれている過去の偉人達として、愛着を持たれていた。
たった一体を除いて。
その一体の名はアルキッツォ。ガリガリにやせ細った、厳しい顔をした老人だ。
大戦時にはロイドの留守を狙って攻めてきた夜魔の軍勢に対し、ひとりで剣を持って立ち向かい、後に続く少年騎士団に勇気を示した、として知られているが、なぜか青銅像建設を立ち上げた国王に好かれなかった為、街の最も目立たぬ場所に像を建てられる羽目になった。見つけた者には幸運が訪れる、なんて適当なキャッチコピーをつけられて。
当時はそれでも好奇心旺盛な者や、珍しい物好きが探し当て、歓声を上げてはくれていたものの、いまではまったく陽の目を見ることがなく、存在を知る者も僅かにしかいないだろう。
アンナは五年前に友人達とこの辺りを探索している最中に像を見つけ、感心なことに由来を調べ、さらには毎朝訪れて像を磨いているのだった。
たった一体の青銅像とはいえ、か弱い少女の細腕で磨くのは大仕事だ。それなのに彼女は嫌な顔することなく、むしろ嬉しそうに磨いてくれいる。
だから、アルケッツォは満足だった。訪れる観光客も絶え、近くに住む住民からも相手にされることのない日々が百数十年続いていたが、そんな辛い過去を忘却の彼方へ追いやってしまうほど満足していた。
なぜ、わかるのかって?
わしがアルケッツォ当人だからだ。
舞い戻って、初めに自分の顔を見たときは愕然とした。どこの誰だかなんてまったくわからなかった。激しい雨がふり、ようやく日が射してきたところで覗き込んだ水溜りに映った顔はそれ程、遠い記憶のものとかけ離れていたのだ。
止んだはずの雨音が、頭の内で再び聞こえていた。青銅の身体を打つ雨はないはずなのに、叩きつける雨のせいで心がやけに痛かった。
訪れる者達の笑いに含まれた嘲りの意味と、露骨にがっかりしてみせる者達の真意を、わしはそのとき理解したのだ。
それからは暗黒との戦いだ。そりゃあ人が来れば嬉しいが、彼等が見るわしは本当のわしではない。死した後に本物のわしもなにもないものだが、それでもやはり……。
嬉しかったり寂しかったり、否定したり納得したり。そんな日々を過ごし、それさえも忘れ、退屈と日陰を友にして毎日を過ごしていたところに、彼女は現われたのだ。
朝の陽の光もよく射し込まない薄暗い路地の奥で、アンナは今日もせっせとわしを磨いてくれている。
同世代の少女と比べやや背の低い彼女が、お情けで設置された小さな井戸から水を汲むのはさぞ大変だろうが、面積の小さなおでこに汗を浮かべながらもやめたりはしない。そこからさらに、家から持ってきたタオルでわしの全身を丁寧に拭いてくれる。
台座など大層なものを持たぬわしではあるが、それでもアンナがわしの頭を拭いてくれるときには、精一杯背伸びをしないと届かない。華奢な身体が触れるか触れないかの距離。熱い吐息は胸にかかり、肩の辺りでそろえられた金髪がまるで天女の愛撫のようにわしの身体をなでる。
わしはいつだって夢心地だ。青銅の身体に走る神経などは存在せず、その暖かさ、そのこそばゆさ、いずれもわからぬ感触ではあるが、遠い昔の記憶が刺激され、無機質で冷たい身体がマグマの如き熱を持ってしまうんじゃないか、と要らぬ心配をしてしまうほどに。
とはいえ、心に影が射さぬわけでもない。アンナの心理など理解できるはずもないからだ。何故、彼女はここまでしてくれてくれるのだろう。我が身に置き換えれば、決してすることのない献身的な行為だ。
幸運を与えるというキャッチコピーに惹かれてか。馬鹿な。あれはあくまでキャッチコピーで、さらに云えば、いまの世にそれを知る者がいるとも思えない。
学校の課題かなにかか。それも、ない。わしの存在を学校が認知しているとは思えないからだ。なにより、そんな無茶な課題を行う生徒がいるものか。
そう、学校でのこの娘の様子はどうなのだろう。こんな、わしにとっては嬉しい行為じゃが、他の子供達からしてみれば奇特な行為に精を出す少女は、周りの子達に受け入れられているのだろうか。仲間外れにされていやしないか。
好きな男子は。
アンナだって年頃の娘だ。好きな男の子や彼氏がいたって不思議ではない。
いつか彼氏との登下校の方が大事になって、わしが捨てられる日が来るんじゃないだろうか。誰の顔も見ることがなく、苔や汚れに塗れる日常が戻ってきやしないか。
大丈夫。いまだって彼女が来てくれるのは、優しき性根とわしの魅力のお陰。この身は人でないけれど、容姿も偽りであるけれど、内に宿りし魂の輝きは、きっと彼女の心を掴んではなさいはず。
そんな馬鹿な妄想を信じることが出来れば、不安など影も形もない。現実に目を向けることさえなければ、彼女の温もりから冷めて日陰で震えることもない。
だが、そんな心配をここ数日はすることもなかった。妄想に浸ることが出来たからではない。彼女の身に、なにかが起きているからだ。
そのことには最初から気づいていた。五年間聞き続けてきた足音である。身体の不調も心の不調も全て足音で聞き分けてきた。今日も心に問題があるみたいだった。
ただの心配事でないことは、いつもと変わらぬ日常を過ごそうとしている態度からもよくわかる。気のせい、で片付けたいのだ。だけど、出来ない。喉に引っかかった小骨のように気になって仕方がない。それがいつものアンナのハツラツさを奪っていた。そして症状は緩やかにだが、悪化している。
よほど親しい者でしか気づきえないだろう変化。わしはそれを敏感に感じ取っていた。故に、朝の楽しいひとときを堪能することが出来なかった。
「なにがあったんじゃろうなぁ」
真夜中――飽くことなく酒を求める酔客と、秘め事に精を出す者達ぐらいが起きている時刻。
わしは歓楽街の外れに建つ、グウェイン像に寄り掛かっていた。
グウェインはかつて、ウェンリッタ一の宿屋の主人だった。といっても、夜魔大戦が始まる前の話だから、それ程商売の腕がたつというわけではない。人柄の良さと生来の話し上手のお陰で、客足が絶えなかっただけだ。大戦後、宿を大きくしたのは息子達の功績なのだが、なぜか像が建てられた。わしが思うに、まず像の数ありきの企画だったのだろう。人名を次々とリストアップしていったが結局は数が足りず、名物主人としてこいつの像がたったに違いない。そんな理由で建てられたはずなのに、こいつの建てられた場所の方がわしの場所よりも全然よかった。中心地から少し離れているとはいえ、それなりに賑わいを見せる享楽通りの入り口に建てられたのだ。
幼い頃からの馴染みで、死ぬまで苦楽をともにしたといえる盟友だが、このことを知ったときは歯噛みして悔しがった。
もっともそれも長くは続かず、すぐに同情を抱くこととなった。八十八体ある像の中で、こやつ程修理の手が入った像はいまい。わしの知る限りで三十四回。本人曰く、そんな数を記憶できるようなぬるい回数じゃない、ということだ。
わしらと比べて造りが悪い、ということはなかったのだが、如何せん場所が悪かった。
享楽通りはその名が示すように快楽を売り物としている。しかも、同じ目的で作られたアンジェリカ通りと比べて、ずっと格安で手に入れることが出来る。お陰でここが繁盛していないときはなく、多くの人間がこの通りで破目を外していく。
昼の光の下では陽気な老人として観光客に人気のグウェイン像も、夜の街灯の下ではいい悪戯対象でしかない。どこから持ってきたのかわからぬ塗料で彩りを加えられたり、ゴミで過剰装飾されるなどまだ良い方で、大抵は観光客のたまりまくったストレスの発散対象として暴力の被害にあう。修復回数が多いのはそれが理由だ。
壊されては直し、直しては壊すのいたちごっこが三十年ばかり続いて、ようやく国は重い腰を上げた。そしていまの場所――通行人もさほど通らない通りの反対側に移されたのだ。ここから先は倉庫街とあって、享楽通りを抜ける者はおらず、街灯の灯も射さないここは、静謐なる夜を満喫するにうってつけの場所だ。
わしは夜に退屈するたびに――ほとんど毎日ではあるが――自分の住処を抜け出しては、ここに旧友を訊ねに来る。もちろん、青銅の二本の足を使って歩いてくる。
青銅像が歩くなんて……、などと思ったりはしてくれるな。魂があれば、像だって動きはするのだ。確かに動きは悪い。慣れぬ者では、まともに一歩踏み出すまでに半日はかかるだろう。慣れたとしても、人であったときの自在さは見る影もない。それでも、強い意思である程度のことはなんとかなるし、人であった頃に感じた疲れや、腰の痛みとは無縁になったのは嬉しいことだ。
この街に設置された像のほとんどは魂が宿っており、自分の意志で動くことが出来る。どうして魂が宿ったのか、正確に知る者はいないが、仲間内では悔いのせいじゃなかろうか、というのが定説になっている。みんな生前なんらかの遣り残しを抱え、写し身ともいえる青銅像が建てられたことによって、この世に舞い戻ってきたんじゃないだろうか。
それが正しいかどうかはわからないが、少なくともグウェインには気掛かりがあったらしい。自分の宿と息子達がどうなったかということを、やたらと気にしていた。
だがたぶん、そういうのは知らない方がいいのだ。知ったとしても、どうすることも出来ないのだから。
大手を振って歩くわけにはいかないから、情報収集には時間が掛かった。そして、結果も芳しくなかった。
宿屋は孫の代で他人の手に渡り、子孫達がどうしているかは結局わからなかったのだ。
青銅で出来たグウェインは青銅の涙を流すこともなく、それまでと変わることのない、けれど盟友であるわしにだけはわかる、少し寂しい表情で観光客の仕打ちに耐え続けていた。
そんな想い出を遥か彼方に残し、わしはグウェインの足元に腰を下ろして、昼間のアンナのことを相談していた。
「いや、そんなことを聞かれても……」
返ってくるのは困ったような声。こやつは昔からこうだった。客や他の者に対してはそんなことないのだが、わしと話すときはいつも言葉を濁す。幼いときからわしに振り回され、厄介な目に合い続けている身としては当然なのかもしれないが、わしにしてみれば鬱陶しいことこの上ない。
「聞かれてもなんだ? 親友の相談にそんな返事しかないとは、ずいぶんと薄情な話じゃないか」
「それは……。では、どうしろと? わかるはずがない。女の子の。それも人間の女の子の悩みなんて」
ちょっと声を荒げ、けれども周りを気にして音量には最大限の注意を払い、グウェインは云い返してきた。
青銅像であることを意識した話し方。人間でないことを諦めきった内容。どれを取っても正しいのは向こうの方だ。それがわかるから胸が少し、痛い。
「いい加減受け入るこった。とっくの昔に終わってしまった人間であることを」
諭すような声。
「それがなんじゃ。このような形をしても騎士は騎士だ。困っている者を。それもわしの為に毎朝尽くしてくれている者を、放って置くことはできん」
そう、わしもかつては騎士だった。とある王国の姫に仕え、姫を守るためにいくつもの困難を乗り越えてきた。いまだって、それは変わらないはずだ。
「昔騎士だったからなんだ。いまはただのしがない青銅像。動くところを人に見られたら、気味悪がられて壊されてしまう。彼女だって、毎朝磨いている青銅像が内心でスケベ笑いを浮かべていると知ったら、二度と近付きゃせん」
「スケベ笑いなぞ、浮かべておらんわ!」
失礼な物言いに、激昂して云い返す。
「だとしても同じこと。きっと彼女は拒絶する。彼女だけじゃない。人間はみんな同じだ。運良く見つからずに活動できるとして、それでやっぱりなにが出来る。剣も鎧もない。青銅になってかつての動きも失ってしまっている。それで、どんな力になるというのだ」
なぜかグウェインは剥きになっていた。剥きになって気になる発言をした。わしはそれを聞き逃さなかった。
「グウェイン、なにを云っている。剣と鎧がなぜ必要なんじゃ? まさか、彼女の身に起きていることはそういうことなのか? お前、なにか知っているのか?」
わしの質問に友は顔を背けた。
「い、いや、そういうわけでは……。ただ、無力な存在だ、ということを。生きていた頃どれだけ偉大な騎士だったとしてもそれは変わらない、ということが云いたかっただけで」
辛そうな口調に、親友の真意が見えた。
こやつの宿屋があった場所には、いまは別の宿屋が建っている。友のものとは比べ物にならないくらいに大きく、きらびやかで、多くの女性がそこで男性客をもてなしている。
あのとき隣に立っていたグウェインが、どんな思いでその宿屋を見ていたのかはわからないが、いまも心を占めているだろう無力感を、ようやく少し理解できた。
「ちぇっ、なんだかしらけちまった」
力ない声でわしは吐き捨てる。
「無理だろうとなんだろうと、辛そうに笑う娘がいる。そんな娘の力になれないだなんて、わしら一体なんの為に甦ったのじゃ」
永遠に消えることのない問い掛けに、夜は沈黙でもって応える。その静寂が嫌だから、友の所まで逃れてきたはずなのに、闇は常に共にある。
「諦め、そして受け入れること。出来ることといったらそれぐらいだ。魂が吹き込まれたとはいえ、しょせんは青銅像でしかないんだから」
そんなのはわかっている。それでもわしは、毎朝わしの身体を磨いてくれる少女の笑顔が好きだった。その少女の笑顔が少しでも曇っているのが許せなかった。なにかあるはずなのに、それを必死に隠そうとして、無理して浮かべる笑顔を見るのが嫌だった。
わしは重い腰を上げ、歩き出す。深い口を開け、全てを呑み込もうとする夜の闇に向けて。
「待て」
友の声はどこか辛そうだった。そんな心配をかけてしまうほど、わしの後姿は力なかったのかもしれない。だが、それでもわしは元気を取り戻すことも、足を止めることもなかった。
「わかった。教えるよ。確証はないけど」
「なにか知っているのか?」
現金なもので、その一言で足を止め、勢いよく振り返る。
「ミルヒが昨日やってきて、教えてくれた。この区画の学校で、奴等が召喚されたと」
「奴等って、まさか……」
夜気に含まれていた温もりが消失していく。世界が崩壊し、夜があらたに生まれ変わる。
「そう、夜魔だよ」
告げる言葉が新世界の門を開き、わしはそのとき確かに見た。遠い時代に終わったはずの終わらない夜が、再び訪れようとしているのを。
商店も露店も出ることのない裏通りだが、大通りと大通りを繋ぐ隠れた近道なので人通りは案外多い。大勢の足音の中からでも目当ての音を聞き分けられるのは、軽やかに跳ねるような足取りと規則正しい生活リズムのお陰である。
毎日決まった時刻に訪れるそれは、他の足音のように疲れているのでも急ぎすぎているのでもない。明日に希望を抱き、日々を楽しんでいる者の足音。
流れ行く足音の集団から逸れ、ひとつだけ角を曲がる足音が連れてくるのは、十代半ばの可愛らしい少女だった。
麗しきその名はアンナという。この近くの学校に通っている、十六歳になったばかりの少女である。
家から学校に向うには遠回りとなってしまうのに、まったくといっていいほど人気のない、寂れた細い路地を彼女が進むのには理由がある。突き当たりの人目につきにくい場所にちょっとした広場があり、そこに立つ一体の青銅像がその理由だ。
彼女が住むこのウェンリッタの都市は、様々な青銅像があることで知られている。その数なんと八十八体。なぜそれだけの像があるかといえば、語るに面倒な理由がある。
そもそもが宿場町として、さしたる賑わいも見せていなかった町だ。近くの湖で取れる魚が美味い、というのだけが取り柄であった。そんな町に転機が訪れたのは、嘆かわしい夜の到来と共にである。
三百年前に起きた夜魔大戦。次元の壁を突き破り、突如として人の住まうこの地を侵略し始めた常夜の種族――夜魔。夜の闇に棲み、人の魂を啜り喰らう彼等の大群を打ち破ったのが、この町で生まれ育った英雄ロイドだったのだ。
大戦を終わらせたのは彼ひとりの実力ではなかったが、その功績の大きさは誰もが認めるところだった。そして彼が生まれ育ち、一生を終わらせることとなるこの町を見ようと、大勢の人が押しかけることとなったのだ。
町は次第に発展を遂げ、百年が過ぎる頃には国家として独立を果たし、観光都市としての栄華を極めた。
その頃に立てられたのが、八十八体の青銅像だ。
夜魔大戦当時の実在の人物をモデルとし、街のいたるところに配置されたそれらの像はかなり出来がよく、中央広場の英雄ロイドはもとより、大戦を陰で支えていたという地味な人物の青銅像も人気があり、目当てで来る観光客は少なくなかった。
二百年たったいまではさすがにそれ程の人気はないが、住人達には長いこと暮らしを見守り続けてくれている過去の偉人達として、愛着を持たれていた。
たった一体を除いて。
その一体の名はアルキッツォ。ガリガリにやせ細った、厳しい顔をした老人だ。
大戦時にはロイドの留守を狙って攻めてきた夜魔の軍勢に対し、ひとりで剣を持って立ち向かい、後に続く少年騎士団に勇気を示した、として知られているが、なぜか青銅像建設を立ち上げた国王に好かれなかった為、街の最も目立たぬ場所に像を建てられる羽目になった。見つけた者には幸運が訪れる、なんて適当なキャッチコピーをつけられて。
当時はそれでも好奇心旺盛な者や、珍しい物好きが探し当て、歓声を上げてはくれていたものの、いまではまったく陽の目を見ることがなく、存在を知る者も僅かにしかいないだろう。
アンナは五年前に友人達とこの辺りを探索している最中に像を見つけ、感心なことに由来を調べ、さらには毎朝訪れて像を磨いているのだった。
たった一体の青銅像とはいえ、か弱い少女の細腕で磨くのは大仕事だ。それなのに彼女は嫌な顔することなく、むしろ嬉しそうに磨いてくれいる。
だから、アルケッツォは満足だった。訪れる観光客も絶え、近くに住む住民からも相手にされることのない日々が百数十年続いていたが、そんな辛い過去を忘却の彼方へ追いやってしまうほど満足していた。
なぜ、わかるのかって?
わしがアルケッツォ当人だからだ。
舞い戻って、初めに自分の顔を見たときは愕然とした。どこの誰だかなんてまったくわからなかった。激しい雨がふり、ようやく日が射してきたところで覗き込んだ水溜りに映った顔はそれ程、遠い記憶のものとかけ離れていたのだ。
止んだはずの雨音が、頭の内で再び聞こえていた。青銅の身体を打つ雨はないはずなのに、叩きつける雨のせいで心がやけに痛かった。
訪れる者達の笑いに含まれた嘲りの意味と、露骨にがっかりしてみせる者達の真意を、わしはそのとき理解したのだ。
それからは暗黒との戦いだ。そりゃあ人が来れば嬉しいが、彼等が見るわしは本当のわしではない。死した後に本物のわしもなにもないものだが、それでもやはり……。
嬉しかったり寂しかったり、否定したり納得したり。そんな日々を過ごし、それさえも忘れ、退屈と日陰を友にして毎日を過ごしていたところに、彼女は現われたのだ。
朝の陽の光もよく射し込まない薄暗い路地の奥で、アンナは今日もせっせとわしを磨いてくれている。
同世代の少女と比べやや背の低い彼女が、お情けで設置された小さな井戸から水を汲むのはさぞ大変だろうが、面積の小さなおでこに汗を浮かべながらもやめたりはしない。そこからさらに、家から持ってきたタオルでわしの全身を丁寧に拭いてくれる。
台座など大層なものを持たぬわしではあるが、それでもアンナがわしの頭を拭いてくれるときには、精一杯背伸びをしないと届かない。華奢な身体が触れるか触れないかの距離。熱い吐息は胸にかかり、肩の辺りでそろえられた金髪がまるで天女の愛撫のようにわしの身体をなでる。
わしはいつだって夢心地だ。青銅の身体に走る神経などは存在せず、その暖かさ、そのこそばゆさ、いずれもわからぬ感触ではあるが、遠い昔の記憶が刺激され、無機質で冷たい身体がマグマの如き熱を持ってしまうんじゃないか、と要らぬ心配をしてしまうほどに。
とはいえ、心に影が射さぬわけでもない。アンナの心理など理解できるはずもないからだ。何故、彼女はここまでしてくれてくれるのだろう。我が身に置き換えれば、決してすることのない献身的な行為だ。
幸運を与えるというキャッチコピーに惹かれてか。馬鹿な。あれはあくまでキャッチコピーで、さらに云えば、いまの世にそれを知る者がいるとも思えない。
学校の課題かなにかか。それも、ない。わしの存在を学校が認知しているとは思えないからだ。なにより、そんな無茶な課題を行う生徒がいるものか。
そう、学校でのこの娘の様子はどうなのだろう。こんな、わしにとっては嬉しい行為じゃが、他の子供達からしてみれば奇特な行為に精を出す少女は、周りの子達に受け入れられているのだろうか。仲間外れにされていやしないか。
好きな男子は。
アンナだって年頃の娘だ。好きな男の子や彼氏がいたって不思議ではない。
いつか彼氏との登下校の方が大事になって、わしが捨てられる日が来るんじゃないだろうか。誰の顔も見ることがなく、苔や汚れに塗れる日常が戻ってきやしないか。
大丈夫。いまだって彼女が来てくれるのは、優しき性根とわしの魅力のお陰。この身は人でないけれど、容姿も偽りであるけれど、内に宿りし魂の輝きは、きっと彼女の心を掴んではなさいはず。
そんな馬鹿な妄想を信じることが出来れば、不安など影も形もない。現実に目を向けることさえなければ、彼女の温もりから冷めて日陰で震えることもない。
だが、そんな心配をここ数日はすることもなかった。妄想に浸ることが出来たからではない。彼女の身に、なにかが起きているからだ。
そのことには最初から気づいていた。五年間聞き続けてきた足音である。身体の不調も心の不調も全て足音で聞き分けてきた。今日も心に問題があるみたいだった。
ただの心配事でないことは、いつもと変わらぬ日常を過ごそうとしている態度からもよくわかる。気のせい、で片付けたいのだ。だけど、出来ない。喉に引っかかった小骨のように気になって仕方がない。それがいつものアンナのハツラツさを奪っていた。そして症状は緩やかにだが、悪化している。
よほど親しい者でしか気づきえないだろう変化。わしはそれを敏感に感じ取っていた。故に、朝の楽しいひとときを堪能することが出来なかった。
「なにがあったんじゃろうなぁ」
真夜中――飽くことなく酒を求める酔客と、秘め事に精を出す者達ぐらいが起きている時刻。
わしは歓楽街の外れに建つ、グウェイン像に寄り掛かっていた。
グウェインはかつて、ウェンリッタ一の宿屋の主人だった。といっても、夜魔大戦が始まる前の話だから、それ程商売の腕がたつというわけではない。人柄の良さと生来の話し上手のお陰で、客足が絶えなかっただけだ。大戦後、宿を大きくしたのは息子達の功績なのだが、なぜか像が建てられた。わしが思うに、まず像の数ありきの企画だったのだろう。人名を次々とリストアップしていったが結局は数が足りず、名物主人としてこいつの像がたったに違いない。そんな理由で建てられたはずなのに、こいつの建てられた場所の方がわしの場所よりも全然よかった。中心地から少し離れているとはいえ、それなりに賑わいを見せる享楽通りの入り口に建てられたのだ。
幼い頃からの馴染みで、死ぬまで苦楽をともにしたといえる盟友だが、このことを知ったときは歯噛みして悔しがった。
もっともそれも長くは続かず、すぐに同情を抱くこととなった。八十八体ある像の中で、こやつ程修理の手が入った像はいまい。わしの知る限りで三十四回。本人曰く、そんな数を記憶できるようなぬるい回数じゃない、ということだ。
わしらと比べて造りが悪い、ということはなかったのだが、如何せん場所が悪かった。
享楽通りはその名が示すように快楽を売り物としている。しかも、同じ目的で作られたアンジェリカ通りと比べて、ずっと格安で手に入れることが出来る。お陰でここが繁盛していないときはなく、多くの人間がこの通りで破目を外していく。
昼の光の下では陽気な老人として観光客に人気のグウェイン像も、夜の街灯の下ではいい悪戯対象でしかない。どこから持ってきたのかわからぬ塗料で彩りを加えられたり、ゴミで過剰装飾されるなどまだ良い方で、大抵は観光客のたまりまくったストレスの発散対象として暴力の被害にあう。修復回数が多いのはそれが理由だ。
壊されては直し、直しては壊すのいたちごっこが三十年ばかり続いて、ようやく国は重い腰を上げた。そしていまの場所――通行人もさほど通らない通りの反対側に移されたのだ。ここから先は倉庫街とあって、享楽通りを抜ける者はおらず、街灯の灯も射さないここは、静謐なる夜を満喫するにうってつけの場所だ。
わしは夜に退屈するたびに――ほとんど毎日ではあるが――自分の住処を抜け出しては、ここに旧友を訊ねに来る。もちろん、青銅の二本の足を使って歩いてくる。
青銅像が歩くなんて……、などと思ったりはしてくれるな。魂があれば、像だって動きはするのだ。確かに動きは悪い。慣れぬ者では、まともに一歩踏み出すまでに半日はかかるだろう。慣れたとしても、人であったときの自在さは見る影もない。それでも、強い意思である程度のことはなんとかなるし、人であった頃に感じた疲れや、腰の痛みとは無縁になったのは嬉しいことだ。
この街に設置された像のほとんどは魂が宿っており、自分の意志で動くことが出来る。どうして魂が宿ったのか、正確に知る者はいないが、仲間内では悔いのせいじゃなかろうか、というのが定説になっている。みんな生前なんらかの遣り残しを抱え、写し身ともいえる青銅像が建てられたことによって、この世に舞い戻ってきたんじゃないだろうか。
それが正しいかどうかはわからないが、少なくともグウェインには気掛かりがあったらしい。自分の宿と息子達がどうなったかということを、やたらと気にしていた。
だがたぶん、そういうのは知らない方がいいのだ。知ったとしても、どうすることも出来ないのだから。
大手を振って歩くわけにはいかないから、情報収集には時間が掛かった。そして、結果も芳しくなかった。
宿屋は孫の代で他人の手に渡り、子孫達がどうしているかは結局わからなかったのだ。
青銅で出来たグウェインは青銅の涙を流すこともなく、それまでと変わることのない、けれど盟友であるわしにだけはわかる、少し寂しい表情で観光客の仕打ちに耐え続けていた。
そんな想い出を遥か彼方に残し、わしはグウェインの足元に腰を下ろして、昼間のアンナのことを相談していた。
「いや、そんなことを聞かれても……」
返ってくるのは困ったような声。こやつは昔からこうだった。客や他の者に対してはそんなことないのだが、わしと話すときはいつも言葉を濁す。幼いときからわしに振り回され、厄介な目に合い続けている身としては当然なのかもしれないが、わしにしてみれば鬱陶しいことこの上ない。
「聞かれてもなんだ? 親友の相談にそんな返事しかないとは、ずいぶんと薄情な話じゃないか」
「それは……。では、どうしろと? わかるはずがない。女の子の。それも人間の女の子の悩みなんて」
ちょっと声を荒げ、けれども周りを気にして音量には最大限の注意を払い、グウェインは云い返してきた。
青銅像であることを意識した話し方。人間でないことを諦めきった内容。どれを取っても正しいのは向こうの方だ。それがわかるから胸が少し、痛い。
「いい加減受け入るこった。とっくの昔に終わってしまった人間であることを」
諭すような声。
「それがなんじゃ。このような形をしても騎士は騎士だ。困っている者を。それもわしの為に毎朝尽くしてくれている者を、放って置くことはできん」
そう、わしもかつては騎士だった。とある王国の姫に仕え、姫を守るためにいくつもの困難を乗り越えてきた。いまだって、それは変わらないはずだ。
「昔騎士だったからなんだ。いまはただのしがない青銅像。動くところを人に見られたら、気味悪がられて壊されてしまう。彼女だって、毎朝磨いている青銅像が内心でスケベ笑いを浮かべていると知ったら、二度と近付きゃせん」
「スケベ笑いなぞ、浮かべておらんわ!」
失礼な物言いに、激昂して云い返す。
「だとしても同じこと。きっと彼女は拒絶する。彼女だけじゃない。人間はみんな同じだ。運良く見つからずに活動できるとして、それでやっぱりなにが出来る。剣も鎧もない。青銅になってかつての動きも失ってしまっている。それで、どんな力になるというのだ」
なぜかグウェインは剥きになっていた。剥きになって気になる発言をした。わしはそれを聞き逃さなかった。
「グウェイン、なにを云っている。剣と鎧がなぜ必要なんじゃ? まさか、彼女の身に起きていることはそういうことなのか? お前、なにか知っているのか?」
わしの質問に友は顔を背けた。
「い、いや、そういうわけでは……。ただ、無力な存在だ、ということを。生きていた頃どれだけ偉大な騎士だったとしてもそれは変わらない、ということが云いたかっただけで」
辛そうな口調に、親友の真意が見えた。
こやつの宿屋があった場所には、いまは別の宿屋が建っている。友のものとは比べ物にならないくらいに大きく、きらびやかで、多くの女性がそこで男性客をもてなしている。
あのとき隣に立っていたグウェインが、どんな思いでその宿屋を見ていたのかはわからないが、いまも心を占めているだろう無力感を、ようやく少し理解できた。
「ちぇっ、なんだかしらけちまった」
力ない声でわしは吐き捨てる。
「無理だろうとなんだろうと、辛そうに笑う娘がいる。そんな娘の力になれないだなんて、わしら一体なんの為に甦ったのじゃ」
永遠に消えることのない問い掛けに、夜は沈黙でもって応える。その静寂が嫌だから、友の所まで逃れてきたはずなのに、闇は常に共にある。
「諦め、そして受け入れること。出来ることといったらそれぐらいだ。魂が吹き込まれたとはいえ、しょせんは青銅像でしかないんだから」
そんなのはわかっている。それでもわしは、毎朝わしの身体を磨いてくれる少女の笑顔が好きだった。その少女の笑顔が少しでも曇っているのが許せなかった。なにかあるはずなのに、それを必死に隠そうとして、無理して浮かべる笑顔を見るのが嫌だった。
わしは重い腰を上げ、歩き出す。深い口を開け、全てを呑み込もうとする夜の闇に向けて。
「待て」
友の声はどこか辛そうだった。そんな心配をかけてしまうほど、わしの後姿は力なかったのかもしれない。だが、それでもわしは元気を取り戻すことも、足を止めることもなかった。
「わかった。教えるよ。確証はないけど」
「なにか知っているのか?」
現金なもので、その一言で足を止め、勢いよく振り返る。
「ミルヒが昨日やってきて、教えてくれた。この区画の学校で、奴等が召喚されたと」
「奴等って、まさか……」
夜気に含まれていた温もりが消失していく。世界が崩壊し、夜があらたに生まれ変わる。
「そう、夜魔だよ」
告げる言葉が新世界の門を開き、わしはそのとき確かに見た。遠い時代に終わったはずの終わらない夜が、再び訪れようとしているのを。
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