★ ★ ★ ★ ★
アンナは大きなため息をついた。
部屋にいるのはひとりだけ。さして広くはないが自分だけの部屋。壁に掛けてあるのは観光客相手に売られていた安物の、けれどもお気に入りの風景画。大好きな本が入っている小さな本棚と、愛用の勉強机はお父さんが作ってくれたもの。枕元に置いてある白い熊のぬいぐるみは、友達からの誕生日プレゼント。好きなもので囲まれた、心安らぐ空間。
だからつい、気が緩んでしまった。普段はため息なんてつかない。みんなに心配をかけたくないから。
みんなとは常に笑いあっていたい。どんな嫌なことがあっても、笑顔でいればいつか乗り越えられる、とアンナは信じている。
それなのに、気が緩んだ瞬間にため息が出てしまうのは、いまが夕暮れ刻だから。もうじき、夜が来てしまうから。
きっかけがなんであるか、アンナにはわからなかった。気づいたときに、それはいたのだ。
窓の外に。
鏡の中に。
天井の片隅に。
部屋の端に。
気づけばそれは佇んでいた。
夜の訪れとともに現われて、なにをするわけでもなくじっとこちらを見続けている。朱い、血の如く朱い双つの眼でただただこちらを見続けている。
始めはぼんやりとしていた。存在もはっきりしていなく、気がつけばいて、目を逸らした後に見ると消えてしまう。その程度でしかなかった。
それが徐々に濃度を増し、常にそこにあり、夜が明けるまで消えることがないようになった。そう、眠っている間も、アンナには感じられたのだ。見られ続けていることが。
気のせいだ、と思い込もうとしていたアンナも、いまでは自分を誤魔化すことが出来なくなっていた。それは幻なんかではないのだ。
では、一体どうすればいいのだろう。こんなこと、誰に話しても信じてもらえるわけがない。心配されるか、最悪笑われるか。
つかないようにしていたため息が、再び口をつく。
こういうとき、アンナはいつもあの青銅像のことを思い出す。
かつて、この国が国として成り立つ前、小さな宿場町だった頃。夜魔の大群にたったひとりで立ち向かおうとした勇気ある老騎士。その姿に心動かされ、多くの若者が後に続いたという。
そんな、みなの指針となり、暗闇を切り開き道を示してくれる人。見つけた者に幸運を与えてくれるという人。私にもそんな頼りになる人がいてくれればいいのに。その幸運で、現状を変えられればいいのに。
ベッドの上で、抱えた両膝に顔を埋めながらそんなことを思う。でもどうせ頼るなら、もっと若くて格好いい人の方がいいかな。
脳裏に浮かぶ面影。同じクラスの男の子。友人の紹介で知り合った彼。それ程親しくはないけれど、徐々に親しくなっていきたい。こんな夜に頼ってしまいたい。
いまはかなわぬ望み。けれど、未来に続く明るい希望。
その明るさで、闇が払えたらよかったのに。
無垢な笑顔が闇に染まっていく。
輝ける明日とともに。
いつも見ているあれは段々と近付いてきているような気がする。最初は遠くにいたはずなのに、いまでは手を伸ばせば届きそうな。それに、なかったはずの口まで見える。禍々しい白い牙と、眼と同様に真紅の口腔内までが見える。
私はいつかあれに食べられる。そのいつかは、今日かもしれない。
芽生えた不安は消えることがなく、漆黒の闇に心が侵食されていく。
そして、アンナの存在自体を呑み込もうとする夜が、今日もまた。
★ ★ ★ ★ ★
今朝のアンナはいつにも増してひどい有様だった。目の下には隈があるし、顔色も幾分蒼い。なかなか夜寝付けなくて、そのせいか食欲もないの。そんな言い訳をせずには周りの誰もが納得しないだろう、具合の悪さだ。
それでも彼女はここに来た。辛いだろうに、わしの身体を磨いてくれている。
幸運が目当てなのか。そんな、彼女にしてみれば大昔の国王が決めたいい加減なご利益を期待して磨いてくれるのか。それとも日常を変えてしまうとすぐに崩れ落ち、そのまま自分を保てなくなってしまいそうなほどに苦しんでいるのか。
だとしても、わしにはなにも出来ない。
幸運なんて与えられるわけもなく、苦しみを取り除く力にもなれない。わしはとうに死んだ人間で、いまはただの青銅像に過ぎないのだから。
……いや、それも違うか。わしに出来ることもある。それで解決するかどうかはわからんが、なにも出来ないわけではない。
グウェインの云った通り、剣と鎧があれば。
脳裏に浮かぶは過去の栄光。剣を手に取り、守るべき者の為に戦い続けた日々。
だが、それは幻でしかない。この青銅の身体では、剣を振り回すのもやっとだ。ここからグウェインの所に行くのだって足音を立てずに向うのは適わず、人目を気にしながら、年老いていたあの頃よりも遥かに時間をかけて向っているというのに。
そんな身体で夜魔相手の立ち回りなんて、とてもじゃないが出来るはずがない。若いときでさえ、人以外のものと戦ったことなんてないのだ。
なにかの間違いで対峙することがあったとしても、一秒と持たずに破壊されてしまうのがオチだ。こんな身体では、騎士を気取ることも出来ない。悔しいが、やはり諦めるほかはないのだ。
陽光も避けて通る陰気臭い場所に相応しく、わしは鬱蒼とした気分のまま、沸き起こる義侠心を捨てようと努めていた。
そこに思わぬ来訪者が現われた。
ミルヒだ。
先の大戦時に、町の長を勤めていた男。ただそれだけの理由で、彼の像は街の高級住宅街の一角に建てられた。日当たりもよく、立地的にも申し分ない場所だが、住民の数が多いというわけではなく、当然通行人もほとんどいない。それが寂しい、というわけではないだろうが、この老人は見回りと称して昼日中から街中をうろちょろしている。
当然見つかれば大問題だが、なぜか見つかっていない。噂にすらなったことがない。このわしでさえ、歩くのは通行人が途絶える真夜中のみ、としているのに。そうして周囲の目や人の気配にまで気を配って歩いていたとしても、静かな夜に人のものとは思えない足音が聞こえるだとか、通りで妖しげな影を見たとかで、街の七不思議のひとつに数えられているのだ。一体どうやって、ミルヒは誰にも気づかれることなく街を徘徊しているのやら。
「どうした、具合が悪そうじゃな?」
口元に人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて、ミルヒが話し掛けてきた。
「別に、なんともないわ」
吐き捨てるようにそう云い、
「なにしに来たんじゃ?」
と、わしは続けた。
「様子見じゃよ。偉大な騎士様が大人しくしておるかどうか、確かめに来たのじゃ」
嫌味たっぷりの口調。そうだ、こいつは昔からわしを信用していなかった。騎士を引退して町に戻ったわしは、周りの連中を集めては騎士時代の自慢話をしていたが、こいつだけはその話を聞いても感心などせず、わしの作り話じゃないかと疑っていた。
「お前さんは昔から自分勝手な奴じゃった。自分だけの理屈で動き、周りに多大な迷惑をかけてきた。そんな奴が立派な騎士になったなど、わしはいまも信じておらんよ。死んで像に閉じ込められても、嘘つき人間の性根は変わるわけじゃないだろうしな。定期的に様子を身に来るのは元町長として当然の責務じゃろう」
相変わらず腹の立つ奴だ。ただでさえ良い気分とはいえないところに現われて、こんな嫌味を云われるとは。これでは温厚なわしでなくても、噛み付きたくなって同然というものだ。
「いまも町長気分とはありがたい話じゃ。わしはこの通り大人しくしておる。気が済んだらとっととよそに行ってくれ」
「ああ、そうするさ。だが、この後も大人しくしていてくれよ。いまは夜魔騒動で街が大変なとき。お前さんみたいな厄介者にうろちょろされては、みなが迷惑するからな」
なに! いまなんと云った?
「夜魔騒動だと! グウェインから聞いた話はそこまで大きくなっておるのか?」
顔を見ているだけで気分が悪くなるからとっと追い払おうと思ったが、その話題が出てきてはそうはいかない。
出来ることはない。大人しく成り行きを見守るのみ、と無理やり納得したものの、気になるものは気になってしまう。
「グウェインから聞いたということは、勝手に歩き回っているということじゃな。そういうことをされると」
「うるさい! 説教はいいからとっとと聞かれたことに応えろ!」
表の通りを行く通行人に聞こえるかも、なんて心配も忘れてわしは大声を出した。
「ぬうぅ、静かにせんか。人が来たらどうする。騒動といっても、まだ夜魔の存在に気づいた人間はごく僅かじゃ。こっちに来た夜魔も一匹のようじゃしな。どんな因果で来たかは知らんが、いまは召喚者のいうことを聞いて大人しくしているようじゃ。もっとも、なにもしてないわけではないじゃろうし、すぐに人に害為すとは思うが、犠牲者が出るまでは人間達はなにもしないじゃろうな。わしらの時代と比べて、いまの奴等は驚くほど平和ボケしておる」
犠牲者だって。冗談じゃない。そのひとりにアンナか、彼女の大切な人がなってしまうかもしれんというのに。
「そもそもことの発端はなんじゃ。どうして夜魔がいまの時代に召喚されたのじゃ」
夜魔召喚術など、大戦終了と同時に全て破棄されたはずだ。それまでいた夜魔崇拝者達のほとんどが大戦で死に絶えたし、軽い気持ちで信仰していた者達も、現実に現われた夜魔を見て恐れをなして逃げ出したはずだ。
どんな間違いがあろうと、この時代に甦るはずがない。
「完全なことなどありはしない、という教訓じゃろうな。どうして、だとか、誰が、なんていうのは皆目見当もつかんよ。だが、ソウセキは気づいたのじゃ。自分のいる学校で夜魔が呼び出されたことを。大戦経験者であるわしらは、奴等の気配に敏感じゃからな」
ソウセキもわしらの仲間だ。あの時代の偉大な学問者で、夜魔学にも精通していた。いまでは後学の行く末が気になるらしく、学校の敷地内に建てられたことを良いことに、暖かな眼で彼等を見守り続けている。
「ソウセキは知っているのか? 呼び出した奴のことや、誰某が狙われているとか?」
「それがわかっていれば、わしらだってもう少しやりようはある。いまはそれとなくヒントを人間達に与えてやるので精一杯じゃ。それでさえ、どれだけの役に立っているか。さっきも云った通り、いまの奴等は本当にだらけきっておるからな」
現代の者は、なんて過去に生きる人間のお決まりの台詞を吐いた後、お前も歩き回って問題起こすなよ、と残してミルヒは去っていった。
だが、わしはそんな台詞を右から左に聞き流し、肝心要なことを考えていた。
ミルヒはなにもわからない、と云っていたが、最近のアンナの様子を見ているわしには、全てが一目瞭然だ。
彼女は事件の渦中にいる。それがどんな形かはわからないが、確実に侵食されている。
そして、わしはそれを救ってやることができない。
不安や不甲斐なさに責め立てられ、わしは鈍く光る愚鈍な身体が砕け散ってしまいそうな気分になっていった。
アンナは大きなため息をついた。
部屋にいるのはひとりだけ。さして広くはないが自分だけの部屋。壁に掛けてあるのは観光客相手に売られていた安物の、けれどもお気に入りの風景画。大好きな本が入っている小さな本棚と、愛用の勉強机はお父さんが作ってくれたもの。枕元に置いてある白い熊のぬいぐるみは、友達からの誕生日プレゼント。好きなもので囲まれた、心安らぐ空間。
だからつい、気が緩んでしまった。普段はため息なんてつかない。みんなに心配をかけたくないから。
みんなとは常に笑いあっていたい。どんな嫌なことがあっても、笑顔でいればいつか乗り越えられる、とアンナは信じている。
それなのに、気が緩んだ瞬間にため息が出てしまうのは、いまが夕暮れ刻だから。もうじき、夜が来てしまうから。
きっかけがなんであるか、アンナにはわからなかった。気づいたときに、それはいたのだ。
窓の外に。
鏡の中に。
天井の片隅に。
部屋の端に。
気づけばそれは佇んでいた。
夜の訪れとともに現われて、なにをするわけでもなくじっとこちらを見続けている。朱い、血の如く朱い双つの眼でただただこちらを見続けている。
始めはぼんやりとしていた。存在もはっきりしていなく、気がつけばいて、目を逸らした後に見ると消えてしまう。その程度でしかなかった。
それが徐々に濃度を増し、常にそこにあり、夜が明けるまで消えることがないようになった。そう、眠っている間も、アンナには感じられたのだ。見られ続けていることが。
気のせいだ、と思い込もうとしていたアンナも、いまでは自分を誤魔化すことが出来なくなっていた。それは幻なんかではないのだ。
では、一体どうすればいいのだろう。こんなこと、誰に話しても信じてもらえるわけがない。心配されるか、最悪笑われるか。
つかないようにしていたため息が、再び口をつく。
こういうとき、アンナはいつもあの青銅像のことを思い出す。
かつて、この国が国として成り立つ前、小さな宿場町だった頃。夜魔の大群にたったひとりで立ち向かおうとした勇気ある老騎士。その姿に心動かされ、多くの若者が後に続いたという。
そんな、みなの指針となり、暗闇を切り開き道を示してくれる人。見つけた者に幸運を与えてくれるという人。私にもそんな頼りになる人がいてくれればいいのに。その幸運で、現状を変えられればいいのに。
ベッドの上で、抱えた両膝に顔を埋めながらそんなことを思う。でもどうせ頼るなら、もっと若くて格好いい人の方がいいかな。
脳裏に浮かぶ面影。同じクラスの男の子。友人の紹介で知り合った彼。それ程親しくはないけれど、徐々に親しくなっていきたい。こんな夜に頼ってしまいたい。
いまはかなわぬ望み。けれど、未来に続く明るい希望。
その明るさで、闇が払えたらよかったのに。
無垢な笑顔が闇に染まっていく。
輝ける明日とともに。
いつも見ているあれは段々と近付いてきているような気がする。最初は遠くにいたはずなのに、いまでは手を伸ばせば届きそうな。それに、なかったはずの口まで見える。禍々しい白い牙と、眼と同様に真紅の口腔内までが見える。
私はいつかあれに食べられる。そのいつかは、今日かもしれない。
芽生えた不安は消えることがなく、漆黒の闇に心が侵食されていく。
そして、アンナの存在自体を呑み込もうとする夜が、今日もまた。
★ ★ ★ ★ ★
今朝のアンナはいつにも増してひどい有様だった。目の下には隈があるし、顔色も幾分蒼い。なかなか夜寝付けなくて、そのせいか食欲もないの。そんな言い訳をせずには周りの誰もが納得しないだろう、具合の悪さだ。
それでも彼女はここに来た。辛いだろうに、わしの身体を磨いてくれている。
幸運が目当てなのか。そんな、彼女にしてみれば大昔の国王が決めたいい加減なご利益を期待して磨いてくれるのか。それとも日常を変えてしまうとすぐに崩れ落ち、そのまま自分を保てなくなってしまいそうなほどに苦しんでいるのか。
だとしても、わしにはなにも出来ない。
幸運なんて与えられるわけもなく、苦しみを取り除く力にもなれない。わしはとうに死んだ人間で、いまはただの青銅像に過ぎないのだから。
……いや、それも違うか。わしに出来ることもある。それで解決するかどうかはわからんが、なにも出来ないわけではない。
グウェインの云った通り、剣と鎧があれば。
脳裏に浮かぶは過去の栄光。剣を手に取り、守るべき者の為に戦い続けた日々。
だが、それは幻でしかない。この青銅の身体では、剣を振り回すのもやっとだ。ここからグウェインの所に行くのだって足音を立てずに向うのは適わず、人目を気にしながら、年老いていたあの頃よりも遥かに時間をかけて向っているというのに。
そんな身体で夜魔相手の立ち回りなんて、とてもじゃないが出来るはずがない。若いときでさえ、人以外のものと戦ったことなんてないのだ。
なにかの間違いで対峙することがあったとしても、一秒と持たずに破壊されてしまうのがオチだ。こんな身体では、騎士を気取ることも出来ない。悔しいが、やはり諦めるほかはないのだ。
陽光も避けて通る陰気臭い場所に相応しく、わしは鬱蒼とした気分のまま、沸き起こる義侠心を捨てようと努めていた。
そこに思わぬ来訪者が現われた。
ミルヒだ。
先の大戦時に、町の長を勤めていた男。ただそれだけの理由で、彼の像は街の高級住宅街の一角に建てられた。日当たりもよく、立地的にも申し分ない場所だが、住民の数が多いというわけではなく、当然通行人もほとんどいない。それが寂しい、というわけではないだろうが、この老人は見回りと称して昼日中から街中をうろちょろしている。
当然見つかれば大問題だが、なぜか見つかっていない。噂にすらなったことがない。このわしでさえ、歩くのは通行人が途絶える真夜中のみ、としているのに。そうして周囲の目や人の気配にまで気を配って歩いていたとしても、静かな夜に人のものとは思えない足音が聞こえるだとか、通りで妖しげな影を見たとかで、街の七不思議のひとつに数えられているのだ。一体どうやって、ミルヒは誰にも気づかれることなく街を徘徊しているのやら。
「どうした、具合が悪そうじゃな?」
口元に人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて、ミルヒが話し掛けてきた。
「別に、なんともないわ」
吐き捨てるようにそう云い、
「なにしに来たんじゃ?」
と、わしは続けた。
「様子見じゃよ。偉大な騎士様が大人しくしておるかどうか、確かめに来たのじゃ」
嫌味たっぷりの口調。そうだ、こいつは昔からわしを信用していなかった。騎士を引退して町に戻ったわしは、周りの連中を集めては騎士時代の自慢話をしていたが、こいつだけはその話を聞いても感心などせず、わしの作り話じゃないかと疑っていた。
「お前さんは昔から自分勝手な奴じゃった。自分だけの理屈で動き、周りに多大な迷惑をかけてきた。そんな奴が立派な騎士になったなど、わしはいまも信じておらんよ。死んで像に閉じ込められても、嘘つき人間の性根は変わるわけじゃないだろうしな。定期的に様子を身に来るのは元町長として当然の責務じゃろう」
相変わらず腹の立つ奴だ。ただでさえ良い気分とはいえないところに現われて、こんな嫌味を云われるとは。これでは温厚なわしでなくても、噛み付きたくなって同然というものだ。
「いまも町長気分とはありがたい話じゃ。わしはこの通り大人しくしておる。気が済んだらとっととよそに行ってくれ」
「ああ、そうするさ。だが、この後も大人しくしていてくれよ。いまは夜魔騒動で街が大変なとき。お前さんみたいな厄介者にうろちょろされては、みなが迷惑するからな」
なに! いまなんと云った?
「夜魔騒動だと! グウェインから聞いた話はそこまで大きくなっておるのか?」
顔を見ているだけで気分が悪くなるからとっと追い払おうと思ったが、その話題が出てきてはそうはいかない。
出来ることはない。大人しく成り行きを見守るのみ、と無理やり納得したものの、気になるものは気になってしまう。
「グウェインから聞いたということは、勝手に歩き回っているということじゃな。そういうことをされると」
「うるさい! 説教はいいからとっとと聞かれたことに応えろ!」
表の通りを行く通行人に聞こえるかも、なんて心配も忘れてわしは大声を出した。
「ぬうぅ、静かにせんか。人が来たらどうする。騒動といっても、まだ夜魔の存在に気づいた人間はごく僅かじゃ。こっちに来た夜魔も一匹のようじゃしな。どんな因果で来たかは知らんが、いまは召喚者のいうことを聞いて大人しくしているようじゃ。もっとも、なにもしてないわけではないじゃろうし、すぐに人に害為すとは思うが、犠牲者が出るまでは人間達はなにもしないじゃろうな。わしらの時代と比べて、いまの奴等は驚くほど平和ボケしておる」
犠牲者だって。冗談じゃない。そのひとりにアンナか、彼女の大切な人がなってしまうかもしれんというのに。
「そもそもことの発端はなんじゃ。どうして夜魔がいまの時代に召喚されたのじゃ」
夜魔召喚術など、大戦終了と同時に全て破棄されたはずだ。それまでいた夜魔崇拝者達のほとんどが大戦で死に絶えたし、軽い気持ちで信仰していた者達も、現実に現われた夜魔を見て恐れをなして逃げ出したはずだ。
どんな間違いがあろうと、この時代に甦るはずがない。
「完全なことなどありはしない、という教訓じゃろうな。どうして、だとか、誰が、なんていうのは皆目見当もつかんよ。だが、ソウセキは気づいたのじゃ。自分のいる学校で夜魔が呼び出されたことを。大戦経験者であるわしらは、奴等の気配に敏感じゃからな」
ソウセキもわしらの仲間だ。あの時代の偉大な学問者で、夜魔学にも精通していた。いまでは後学の行く末が気になるらしく、学校の敷地内に建てられたことを良いことに、暖かな眼で彼等を見守り続けている。
「ソウセキは知っているのか? 呼び出した奴のことや、誰某が狙われているとか?」
「それがわかっていれば、わしらだってもう少しやりようはある。いまはそれとなくヒントを人間達に与えてやるので精一杯じゃ。それでさえ、どれだけの役に立っているか。さっきも云った通り、いまの奴等は本当にだらけきっておるからな」
現代の者は、なんて過去に生きる人間のお決まりの台詞を吐いた後、お前も歩き回って問題起こすなよ、と残してミルヒは去っていった。
だが、わしはそんな台詞を右から左に聞き流し、肝心要なことを考えていた。
ミルヒはなにもわからない、と云っていたが、最近のアンナの様子を見ているわしには、全てが一目瞭然だ。
彼女は事件の渦中にいる。それがどんな形かはわからないが、確実に侵食されている。
そして、わしはそれを救ってやることができない。
不安や不甲斐なさに責め立てられ、わしは鈍く光る愚鈍な身体が砕け散ってしまいそうな気分になっていった。
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