告白しよう。
僕は狂っている。
あるときを境にちょっとづつ狂いだし、いまもその過程にある。
いまも狂い続けている。
過去、最も大きく僕を狂わしたのはある年の7月12日で、今もはっきり覚えている。生まれて初めて一目惚れというものを経験したときだ。
愛は狂気、だなんて陳腐なことを云うつもりはないが、確かに僕はこの時に大きな狂いをその身に宿した。
ひとを愛すること。
そのことの意味を正確に理解し、僕は自分がまともでいられないことを自覚するようになった。
そして狂気に駆られながら、いくつかのものを切望するようになった。
そのうちのひとつが『優しさ』だ。
僕は優しい人間になりたい。
狂おしいほどに優しい人間になりたい。
優しさとはなに?
優しい人間ってなに?
そういう問いに対する答はいくつかあるのだけど、究極といえるもののひとつが、ある小説のラストに描かれている。
笠井潔先生の『オイディプス症候群』。
先生のライフワークになるのかな。矢吹駆シリーズ第5弾。このたび文庫化された本の帯には『本格ミステリの到達点』だなんて書かれていたけれど、その煽り文句にけちのつけようがないほど面白いミステリだ。
不思議なもので、ミステリと優しさとは切っても切れない縁があると思う。多くのミステリの根底には優しさが描かれており、なかには『優しさ』のあるべき形を僕に教えてくれたものもある。
これも有名な推理小説作家島田荘司先生が生み出した『御手洗潔』は、僕の目指すもののひとつ。
それはケーキ屋に友人の石岡和己と共に訪れたときのシーン。
小さな女の子が貯めたお小遣いでお母さんにケーキをプレゼントしようとやってくる。
しかし残念ながらお金が足りずに欲しいケーキが買えなくて、女の子はしょんぼりと店を出ようとする。そんな少女の足をさりげなく引っ掛け、御手洗潔はわざと少女の手から小銭が落ちるように仕向ける。
御手洗潔は子供も女性もあまり好きではないから、こういう嫌がらせが平気で出来るんだ。
ひどいことするな、と非難の目で見る石岡和己を無視して、自分でやっておきながら小銭を拾ってあげる御手洗潔。
そんな彼が拾い終えたときに云うんだ。
「なんだ、お金足りてるじゃないか」
少女が数えてみると確かにケーキの金額とピッタリだ。
少女は嬉しそうにケーキを買って帰り、御手洗潔はやれやれ子供は数もろくに数えられないと嘆く。
僕は『優しさ』とはこうあるべきだと思う。
それを他者に悟られてはダメなんだ。
少女は御手洗潔のことなんか、少しも記憶に留めないだろう。自分がどうして数え間違いをしたかなんて理解できるはずがない。
わからないのだから、当然そこに感謝はない。
それでいいんだ。
感謝が欲しくてする行為ではないのだから。
『優しさ』とはかくあるべきだ。
という結論を持つ僕が、それでもその『優しさ』に焦がれてしまう。読むたびに胸が締め付けられるように苦しくなる。そんなラストが『オイディプス症候群』にある。
長い物語の果て、ヒロインの女性があることに対して疚しさを感じ、眦に涙を滲ませている。
そんな彼女にカケルが低い声で囁く。
「責任を負えないことにまで責任を感じてしまうこと、いつも正義の側に身を置いてしまいたいと自堕落に願ってしまう精神的な弱さこそが『悪』なのだ」
そして彼女の涙を拭いながら最後に云う台詞。
ああ、僕もこうありたかった。
いまからでも、こうありたいと思っている。
どうすればいいのか。
いつになったら辿り着けるのか。
皆目見当もつかないけれど、それは人生をかける価値があると思う。
愛の意味を知ってしまったから。
自分が何者なのかを理解してしまったのだから。
長く、色々と書いてしまったけれども、『オイディプス症候群』はぜひ読んでもらいたいな。
ミステリとしても傑作だし、他の色々な側面でもあなたを満足させてくれると思うから。
ふと立ち止まったときに何度も読み返す。自分のあり方をいつだって教えてくれる。
笠井潔先生の『オイディプス症候群』が大好きです。
僕は狂っている。
あるときを境にちょっとづつ狂いだし、いまもその過程にある。
いまも狂い続けている。
過去、最も大きく僕を狂わしたのはある年の7月12日で、今もはっきり覚えている。生まれて初めて一目惚れというものを経験したときだ。
愛は狂気、だなんて陳腐なことを云うつもりはないが、確かに僕はこの時に大きな狂いをその身に宿した。
ひとを愛すること。
そのことの意味を正確に理解し、僕は自分がまともでいられないことを自覚するようになった。
そして狂気に駆られながら、いくつかのものを切望するようになった。
そのうちのひとつが『優しさ』だ。
僕は優しい人間になりたい。
狂おしいほどに優しい人間になりたい。
優しさとはなに?
優しい人間ってなに?
そういう問いに対する答はいくつかあるのだけど、究極といえるもののひとつが、ある小説のラストに描かれている。
笠井潔先生の『オイディプス症候群』。
先生のライフワークになるのかな。矢吹駆シリーズ第5弾。このたび文庫化された本の帯には『本格ミステリの到達点』だなんて書かれていたけれど、その煽り文句にけちのつけようがないほど面白いミステリだ。
不思議なもので、ミステリと優しさとは切っても切れない縁があると思う。多くのミステリの根底には優しさが描かれており、なかには『優しさ』のあるべき形を僕に教えてくれたものもある。
これも有名な推理小説作家島田荘司先生が生み出した『御手洗潔』は、僕の目指すもののひとつ。
それはケーキ屋に友人の石岡和己と共に訪れたときのシーン。
小さな女の子が貯めたお小遣いでお母さんにケーキをプレゼントしようとやってくる。
しかし残念ながらお金が足りずに欲しいケーキが買えなくて、女の子はしょんぼりと店を出ようとする。そんな少女の足をさりげなく引っ掛け、御手洗潔はわざと少女の手から小銭が落ちるように仕向ける。
御手洗潔は子供も女性もあまり好きではないから、こういう嫌がらせが平気で出来るんだ。
ひどいことするな、と非難の目で見る石岡和己を無視して、自分でやっておきながら小銭を拾ってあげる御手洗潔。
そんな彼が拾い終えたときに云うんだ。
「なんだ、お金足りてるじゃないか」
少女が数えてみると確かにケーキの金額とピッタリだ。
少女は嬉しそうにケーキを買って帰り、御手洗潔はやれやれ子供は数もろくに数えられないと嘆く。
僕は『優しさ』とはこうあるべきだと思う。
それを他者に悟られてはダメなんだ。
少女は御手洗潔のことなんか、少しも記憶に留めないだろう。自分がどうして数え間違いをしたかなんて理解できるはずがない。
わからないのだから、当然そこに感謝はない。
それでいいんだ。
感謝が欲しくてする行為ではないのだから。
『優しさ』とはかくあるべきだ。
という結論を持つ僕が、それでもその『優しさ』に焦がれてしまう。読むたびに胸が締め付けられるように苦しくなる。そんなラストが『オイディプス症候群』にある。
長い物語の果て、ヒロインの女性があることに対して疚しさを感じ、眦に涙を滲ませている。
そんな彼女にカケルが低い声で囁く。
「責任を負えないことにまで責任を感じてしまうこと、いつも正義の側に身を置いてしまいたいと自堕落に願ってしまう精神的な弱さこそが『悪』なのだ」
そして彼女の涙を拭いながら最後に云う台詞。
ああ、僕もこうありたかった。
いまからでも、こうありたいと思っている。
どうすればいいのか。
いつになったら辿り着けるのか。
皆目見当もつかないけれど、それは人生をかける価値があると思う。
愛の意味を知ってしまったから。
自分が何者なのかを理解してしまったのだから。
長く、色々と書いてしまったけれども、『オイディプス症候群』はぜひ読んでもらいたいな。
ミステリとしても傑作だし、他の色々な側面でもあなたを満足させてくれると思うから。
ふと立ち止まったときに何度も読み返す。自分のあり方をいつだって教えてくれる。
笠井潔先生の『オイディプス症候群』が大好きです。
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