アプリコット プリンセス

チューリップ城には
とてもチャーミングなアプリコット姫がおりました

赤穂事件  綱吉の限りなき執着

2023-01-18 20:30:12 | 漫画
 
    赤穂事件  綱吉の限りなき執着


 酒井忠清に取り入っていた者に対する処罰は、その者の子や孫に至るまで、いつまでも綱吉が生きている限り永遠に続いてしまう。

越後騒動の顛末 
 先の裁定を行った幕府関係者も流罪などの処罰がされた。忠清は同年5月に死去していたが、大目付渡辺綱貞は同年6月27日改易となり、さらに八丈島へ島流しとされ、綱貞の三人の息子も他家へ預けられた。また、忠清の嫡男忠挙、三男忠寛、老中久世広之(延宝7年(1679年)死去)の三男重之は逼塞を命じられた。

 累はこの件の処理に奔走した越前松平家一門にも及び、直矩は15万石から8万石を削られ豊後国日田へ転封、また広瀬藩主松平近栄は3万石から1万5000石へ削られた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



渡辺 治綱(わたなべ はるつな)は、江戸時代前期の尾張藩家老。渡辺半蔵家3代当主。
略歴
慶長11年(1606年)、山城国伏見で徳川家家臣・渡辺重綱の四男として誕生。
元和6年(1620年)、尾張藩主・徳川義直に仕え、知行2000石を賜る。


渡辺 宣綱 (父、渡辺 治綱
天和元年(1681年)6月27日、幕府大目付を務める叔父・綱貞が、越後騒動に関連する取次行為を咎められ八丈島に流罪となり、その影響で将軍家への月次、年頭、歳暮の献上が途絶えた。

兄弟 勝綱、仲綱、忠綱、治綱、吉綱、
綱貞(三綱)、長綱、石川正光正室、
松平三左衛門室、稲葉正通室

 当時、大きな力を持っていた酒井忠清に仕えていた大目付渡辺綱貞は尾張藩主・徳川義直との関わりが大きい。御三家筆頭の尾張に対する警戒感は強く、大目付と結びつき、次期将軍の座を窺う尾張に対する警鐘として、大目付は島流しとなったのであろうか。


 忠清に与していた者としては、

松平綱近
財政が極度に悪化

松平基知 (父親の松平直矩は生涯で幾度も国替を重ねた結果、家中は多大な借財を負うことになり、「引越し大名」なるあだ名をつけられた)
 元禄17年/宝永元年(1704年)、湧井の清水において雨乞いの大祈祷を挙行する。宝永2年(1705年)には江戸本所での浚渫、宝永7年(1710年)には江戸城吹上御殿の手伝普請をそれぞれ命ぜられ、藩財政が逼迫した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

久世 重之
延宝7年(1679年)に関宿藩主となって以来、重之一代の間に下総関宿藩(千葉県野田市関宿三軒家)から備中国庭瀬藩(岡山県岡山市北区庭瀬)ついで丹波国亀山藩(京都府亀岡市)さらに三河国吉田藩(愛知県豊橋市)へとめまぐるしく転封を続け、宝永2年(1705年)に再び関宿に復帰する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

忠清の嫡男忠挙、
徳川綱吉から逼塞を命じられた。元禄13年(1700年)2月15日に病気で辞職した。大留守居については、家格の高い酒井氏に与えた閑職ではないかとされている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忠挙の子(頼子、柳沢吉里正室)を柳沢吉里に嫁がせる事で災厄を防いでいる。

 
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赤穂事件  拝領妻

2023-01-18 12:05:01 | 漫画

       赤穂事件  拝領妻

 柳沢吉保の生母・了本院の侍女で側室となった染子は綱吉からの拝領妻であるという俗説があり、彼女の出産した柳沢吉里は綱吉の落胤であるとの噂が当時からあった。綱吉は柳沢家に、松平姓を与えて特に連枝の待遇としたが、これがその事情を雄弁に物語っているという指摘もあるが、現在ではこの説は否定されている。


   保科正信(松平 正容)保科正之の六男
 元禄9年(1696年)、松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を許され、名実ともに徳川一門(御家門)として遇されることになる。

   拝領妻始末冒頭
 物頭の笹原伊三郎の家に側用人・高橋外記が訪ねてくる。藩主・正容(まさかた)の寵愛を一身に受け男子をもうけていた側室のお市の方に暇が出されることになり、笹原家嫡男・与五郎に妻として下賜するという。10年ほど前に、側室・お紋の方を拝領したものの、妻は藩主に愛されたかつての栄華を忘れられないばかりか夫を罵倒し、耐えかねた夫が返上を願い出て、お紋の方は呪詛の果てに悶死したという前例があり、息子に同じ轍を踏ませたくない伊三郎は、拝領妻の一件をひたすら平伏して辞退を願う。だが、そんな父親の様子を見ていた与五郎はこれ以上難儀をかけまいと申し出を受ける旨を伝える。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 松平正容は保科正之の六男ではあるが、兄弟はことごとく亡くなり残されたのは松平正容だけになる。兄弟は全て病弱であったとされている。
 
 保科正之の子、媛姫、摩須、も変な死に方をしている。

 
   また、吉良義央との関係からは、
 長姉にあたる媛姫の婿である米沢藩主上杉綱勝が一時危篤になり、井伊直孝らが正之に上杉家後継者として正純(保科正之の息子 享年20)を据える案を打診したが、正之は断ったとしている。その後、寛文4年閏5月7日(1664年6月30日)に綱勝が死去すると、吉良義央の長男・三之助(上杉綱憲)が上杉家を相続した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

 家を引き継いだ松平正容であるが、拝領妻での顛末が当時の御家事情を物語っている。
将軍綱吉は、松平正容が自らと同じ性分であることを見抜いて、殺さずに許したのではないか。
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