三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

朝のカフェテリアにて

2013年03月22日 18時34分16秒 | 思い
ほぼ毎朝、会社のカフェテリアでコーヒーを飲みながら本を読むのが日課になっているのですが、窓際のカウンターの一番奥で、いつも何かの勉強をしている女性がいます。

同じフロアの、おそらくベンチャー系の企業にいらっしゃるかたです。
年の頃は50代半ばあたりでしょうか。

今朝も、いつものように私がコーヒーを持ってカウンターへ行くと、その女性と目が合ったので、軽く挨拶を交わしました。

私は遠慮がちに「何の勉強されているのか、聞いてもいいですか?」と尋ねると、その女性は、

「お花なんです。」
「・・・何の役にも立たないですけどね。」

と笑いながらおっしゃいました。

会計とか英語とか、「勉強」というとそういうものしか頭に浮かばなかった私はかなりの衝撃を受け、「スゴイ!!」と声を上げてしまいました。

ただ、「何の役にも・・・」の言葉に対しては、正直何と言っていいのかわかりませんでした。

決してそんなことはないし、むしろそういうものを持っているということはとても豊かなことなのだ、と思ってはいても、軽々しく口にするようなことじゃないようにも思ったのです。

「何の役にも立たない」とおっしゃったのは、ご自身がそう思っているからではなく、他の人から見たら何の役にも立たないことをやっているように見える、ということでしょう。

でも私は、自分の全く知らない世界のことを深く知っているこのかたに対して、無条件で「スゴイ」と思ってしまいました。

役に立つとか立たないとか、会社勤めをしているとつい考えてしまうけれど、そういう「効率」を優先する世界にはないものが、「役に立たない」世界にはあるんじゃないのかなぁと思います。

・・・なんというか・・・役に立たない世界のほうが断然面白いんですよ、たぶん。

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延命治療と尊厳死

2013年02月24日 14時04分57秒 | 思い
日曜日の朝に「ボクらの時代」という、色んな世界で活躍している3名のかたが雑談風に話をする番組があります。
今朝は立川談志、赤塚不二夫、団鬼六のそれぞれお三方の娘さんが対談していました。

その中で談志さんの晩年の話がでたときに娘さんが、あんな風に生きてきた人だから、寝たきりになっても延命治療なんか望まないのは分かっていたけれど、周りはそんなに簡単に割り切れるものじゃないんですよね、ということをおっしゃっていました。

そして、昨日読んだ「エンジェルフライト」の中にも似たような内容がありました。

「外国で亡くなったかたの遺族は、それがたとえ遺体であったとしても対面し、一緒に家に帰りたいと思うものだ。」

「生きている人間、まだ自分の目の前に温かく横たわっている人に対し、「胃ろう」をつけることで簡単に救える命に対し、あえて不作為を選択する理由がどうしても見つからなかった。」と。

「そこまでして生きていたくなんかない」
「みんなに迷惑をかけてまで延命処置などしてほしくない」

私もそう思っていました。
自分が動けなくなったとき、そう思う人は多いかもしれません。

でも自分の親しい人が延命治療をしなければならなくなったとき、自分はどういう決断をするんだろうと。

本人の意志を尊重して尊厳死を選ぶのか。

動けなくても、話せなくても、ただそこに居て欲しいと思い、延命治療を望むのか。

さまざまな感情を排除して考えると、本人の希望を尊重するとか、これから何年もこの状態が続くより自然に任せて亡くなることを選ぶほうがいいと思えるのかもしれません。

でもそんなに簡単に割り切れるのでしょうか・・・自分には自信がありません。

呼びかけても返事が返ってこなくても、もしかしたら聞こえてるんじゃないか?

口はきけなくても、こうやって触れていることはわかるんじゃないか?

そんなことを思ってしまいそうです。


やっぱり人間、ポックリいくのが双方にとって一番幸せなのかもしれませんね。。。



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