三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

映画:悪魔祓い、聖なる儀式

2018年01月24日 12時05分36秒 | 映画
とても楽しみにしていた映画で、渋谷や横浜で公開されているときに行けなかったのが、新百合ヶ丘で今週だけ上映されるとのことで観に行ってきました。

シチリアの教会で実際に行われている「悪魔祓い」の儀式を、数名の信者とその家庭を取り上げながら描いています。

私に洗礼を授けてくれた司祭(既に亡くなっていますが)は、エクソシストの資格を持っていたと言っていました。

その関係で、実際の悪魔祓いの儀式についていくつか聞いたことがありますが、やはりこの映画にあるとおり、最初は必ず医学的、心理学的に問題はないかと詳細に調べるそうで、それでもなお悪魔憑きの疑いがある場合に儀式が行われると聞きました。

この映画でもその部分はやはり描かれていて、事実に基づいて作製されたドキュメンタリー映画であることがわかります。

また、同じカトリック教会内でも悪魔祓いに対し懐疑的な司祭とそうでない司祭もいるため、司祭が愚痴をこぼしていたり、反面、悪魔祓いの依頼が多くて負担がかかっている司祭なども描かれていて、なかなか興味深いものがありました。

ただ総合的には、悪魔祓いの儀式とはどんなものなのか、どういう場合に行われているのかなどを知らない人に知らせるという意味ではいい映画だと思いましたが、個人的には、取材したものをただつなぎ合わせて映画にしたような、仕上がりが雑な印象が否めませんでした。

映画の最後に、「悪魔祓いの依頼が急激に増加している」という内容をル・モンド紙から引用していましたが、事実に対し足すことも引くこともしない仕上がりは、どこか物足りなさを感じ、製作者の意図がどこにあるかすらわかりにくくなっているように感じました。

CATVなどでたまに超常現象を扱っている番組がありますが、まぁあれと同等かなという感じです。
期待していただけにガッカリ感が大きい作品でした。

『悪魔祓い、聖なる儀式』
原題:LIBERAMI
監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
2016年/イタリア、フランス

オレ様的評価:★☆☆☆☆

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映画:タイピスト

2014年04月05日 18時17分47秒 | 映画
久しぶりにDVDを借りてきました。

1950年代のフランスを舞台にした映画なのですが、タイピングコンテストがスポーツのようなイメージで描かれています。

ストーリー自体は「そんな上手いことないよなぁ」「ちょっとそこは行き過ぎ?」というような点もありましたが、気楽な娯楽として観るぶんにはOKかと思います。

突っ込みどころをあえて無視して面白がる、というのがこの映画を見るポイントのひとつかもしれません。

映画館にまで行って観るような映画でもないですが(笑)

【総合評価】★★☆☆☆(2点/5点満点)

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映画『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』

2013年11月09日 23時08分37秒 | 映画
エディット・ピアフの生涯がシャンソンと共に描かれています。

音楽界のトップに上り詰めた反面、その私生活は波乱に満ちていて、お世辞にも品がいいとは言えない人となりが伝わってきます。

たくさんのシャンソンが字幕付きで流れてくるのですが、どれもが人生の哀しみとそれを背負いながら生きる人間の逞しさが歌詞に込められていて、これを見ながら、もっと他の曲も聴きたくなりました。

映画の最後に、47歳のピアフが身体をモルヒネに蝕まれて死を迎える直前、砂浜で若いジャーナリストからのインタビューを受ける場面があるのですが、それまでの暗く辛い人生の末に、ようやく辿り着いた静けさを感じ、併せて流れる歌で胸が詰まりそうになりました。

副題に「愛の讃歌」と付いていますが、最後のステージで歌っていた歌(邦題:水に流して)が、ピアフの生涯にはぴったりだと思いました。

ちなみにこの曲の日本語タイトルなのですが、「過去は燃やしてしまった」という歌詞から取ったのだとは思いますが、ピアフの生き様を思うとき、曲の中で繰り返し歌われている「私は後悔しない」の部分を日本語タイトルに採用して欲しかったなぁと、個人的には思います。

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映画【砂の器:1974年製作】ネタバレあり

2013年11月02日 16時41分53秒 | 映画
松本清張原作で、丹波哲郎、加藤剛、森田健作、緒方拳などが出演しています。(チョイ役で渥美清!)

一種の推理ドラマとも言えますが、それ以上に人間の業というものを感じさせられる映画です。

国鉄蒲田駅操車場から発見された身元不明の被害者は、死後、顔を石で何度も殴られており、強い恨みによる犯行とされますが、捜査が進むにつれて、この被害者は誰からも好かれ、非常に思いやりがあり、恨みを買うことなど考えられないような人物として浮かび上がってきます。

一方、加害者は新進気鋭の作曲家。これからその地位を確たるものにしようとする時期でした。

事件は、被害者と加害者とが数十年ぶりに再会したことがきっかけでした。

消息がわからなかった加害者が東京にいることを知り、被害者はすぐに会いに行きます。
そして、ハンセン病のため国立療養所へ入所している(加害者の)父に、一目でいいから会ってあげて欲しいと懇願します。

加害者は幼い頃、ハンセン病を患い村を追われた父と1年間放浪の旅をし、最後に被害者に引き取られたのですが、療養所へ入るとき、父子は別れたくないため泣き叫んでいました。

物語の中では加害者の本当の殺人の動機は描かれていないため、そこは観る者の想像に任されています。

自分の暗い過去(出生)を知る被害者が突然目の前に現れ、保身のために殺害したという見方もあると思いますが、被害者の「善意」が加害者を追いつめ、殺人に至らせたようにも思えます。

被害者の行為のどれもが善意から出ているものであり、非難すべきことはどこにもないのかもしれません。
唯一、加害者が実父と会うことを拒んだとき、「首に縄をつけてでも引っ張っていってやる!」と言ったことは行き過ぎだったかもしれませんが・・・。

父と別れた幼い子供(加害者)が成人するまで、どんなことを毎日思い、自分の過去とどうやって対峙してきたのかは、本人のみが知りうることです。

でも被害者は「善意」の名のもとに、被害者の心にずかずかと土足で入り込んできたわけです。

映画の最後の部分で、二人の刑事のやりとりがありますが、そこで、

「でも、会いたかったでしょうね」「そりゃそうだろう。でも彼が父に会えるのは、音楽の中だけだったんだ」(会話は不正確かもしれません・・・)

とさり気なく言葉が挿入されています。

自分の中で、ようやく消化しようとしていたものを蒸し返され、これまでの自分の苦しさなどを無視するかのように、会うことを強要されたこと。それがきっかけで、心の中で鬱積していたものが殺意となって現れたこと。

あくまで想像ですが、なんだかそんな気がしました。


砂の器より「宿命」

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映画:冷血

2013年05月11日 17時02分06秒 | 映画
製作:1967年
製作国:アメリカ
原題:IN COLD BLOOD

カンサス州で起きた一家惨殺事件。犯人は犯罪歴のある2人の若者で、彼らの育った家庭環境を交えながら犯行の詳細が語られていきます。
この映画では「犯行の詳細」は語られますが、それは「動機」ではなく、何故犯行に至ったのかは観る者の想像に任せられています。

最近、私は「こちら側に属する人間」と「あちら側に属する人間」ということについて考えたりしています。

例えばこの映画において犯人の二人を「あちら側に属する人間」とするなら、警察官、被害者、被害者を取り巻く人々、陪審員や検察官などは「こちら側に属する人間」で、こちら側の人間には「なぜこんなに残酷な犯罪を犯したのか“理解できない”」のです。

一般的には、

「被害者心理を考えると許されるべきものではなく、極刑は当然」
「育った家庭環境から同情すべきものもあるかもしれないが、理由にはならない」
「正義によって裁かれるべき」

といった感じでしょうか。

通常「こちら側」の人間にとって「あちら側」の人間は忌むべき者であり、自分とは違う世界の人間だと「なんとなく」思っています。

・・・果たしてそうなのでしょうか。

映画の中で、犯人の二人が、偶然ヒッチハイクで乗せた老人と少年と楽しく過ごすシーンがあります。
普通の優しい心を持ちながら、凶悪な犯罪を犯す二人。
これを「犯人の持つ二面性」と断じていいのでしょうか。

目を背けたくなるほどの残虐性は、ごく一部の「あちら側」の人間にしか存在しないのでしょうか。

人間の世界では、正義に基づき、法によって裁かれることが当たり前であり、それ以外に方法はありません。
映画では、法廷で旧約聖書を引用して「正義によって裁かれるべきである」と声高に訴えているシーンが象徴するとおりです。

しかし一方で死刑執行の直前に「ここにも神はいるのか?」と問いかけたときの「神」は旧約聖書(ユダヤ教)の神ではなく新約聖書(キリスト教)の神であり、「律法によって罰する神」ではなく「死の直前に悔い改めることで魂は救われる神」です。

死刑台に上る前に、「謝りたいんだ。でも誰に謝ったらいいのかわからない」と言いますが、それは特定された「誰か」ではなく、自分自身を含め、自分の良心に反した行いをした全ての人・物事に対してのように思います。

人間は、人間の信じる「正義」によって、正当に裁かれます。それが人間のできる最大限のことです。

しかし、それは死後における神の審判とは全く異なるものであり、「本当の裁き」は、真実を全て知ることができる神のみができることと言えるでしょう。

自分の心の中にある残虐性、それを見ようとしない心理、物事を見る角度によって変わる判断、決して真実に到達できない人間の限界。
そんなことを考えさせられる映画でした。

死刑執行を待つ間、窓ガラスに滴り落ちる雨が犯人の顔に陰影を作り、あたかも涙のように見えるシーンは秀逸でした。



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