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カール・レイドル

2024-09-09 01:22:30 | bass

カール・レイドル Carl Radle

【本 名】
  カール・ディーン・レイドル/Carl Dean Radle

【パート】
  ベース

【生没年月日】
  1942年6月18日~1980年5月30日(37歳没)

【出身地】
  アメリカ合衆国オクラホマ州タルサ

【経歴】
  
  ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ/Gary Lewis & the Playboys(1965~1967)
  カラーズ/Colourss(1968)
  デラニー&ボニー&フレンズ/Delaney & Bonnie & Friends(1969~1970)
  マッド・ドッグス&イングリッシュメン/Mad Dogs & Englishman(1970)
  デレク&ザ・ドミノス/Derek & The Dominos(1970~1971)
  エリック・クラプトン&ヒズ・バンド/Eric Clapton & His Band(1974~1979) 


 カール・レイドルは、アメリカ合衆国のベーシストである。
 1960年代後半から1970年代にかけて、セッション・ミュージシャンとして活躍。1970年代はデレク&ザ・ドミノスを含め、エリック・クラプトンのベーシストとして彼を支えたことでも知られている。


 レイドルはオクラホマ州タルサで生まれた。生年月日は1942年6月18日で、これはポール・マッカートニーと全く同じである。
 1960年代初頭に活動を始めたレイドルは、レオン・ラッセル、デヴィッド・ゲイツ、J. J. ケイルなど地元タルサのミュージシャンたちと親交を深めるようになった。やがてレオン・ラッセルはカリフォルニア州に移住し、ラッセルに声をかけられたレイドルもその後を追うようにしてカリフォルニアに移った。
 カリフォルニアでのレイドルはクラブなどで演奏していたが、その後タルサに戻ってオクラホマ州空軍所属の州兵となる。
 1965年に除隊すると、再びカリフォルニアに行き、同年ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズにベーシストとして加入。
 1967年にゲイリー・ルイスが徴兵されると、レイドルはセッション・ミュージシャンとして活動するようになり、ジョン・リー・フッカーのレコーディングに参加した。1968年にはまたサイケデリック系のカルト・バンド「カラーズ」のメンバーとなり、2枚のアルバムに参加している。


 1968年、レイドルはレオン・ラッセルの紹介でデラニーとボニー・ブラムレットに出会った。
 同年に行なわれたデラニー&ボニーのアルバム「ホーム」の録音に参加したレイドルは、デラニー&ボニーのツアー・バンドの一員となる。
 1969年11月、ブラインド・フェイスから離れたエリック・クラプトンがデラニー&ボニーに参加する。レイドルとクラプトンの長きにわたる関係はここから始まる。
 レイドルはさっそくクラプトンのファースト・ソロ・アルバム「エリック・クラプトン・ソロ」の録音に参加。またデラニー&ボニーの「Get Ourselves Together」と「Never Ending Song of Love」をクラプトンと共作している。
 クラプトンが加わったデラニー&ボニーは、1969年11月から1970年3月までヨーロッパ、およびアメリカ・ツアーを行っているが、この時のツアー・バンドのメンバーが、レイドルをはじめ、のちデレク&ザ・ドミノスのメンバーとなるボビー・ウィットロック、ジム・ゴードンらである。
 このツアーにおける1969年12月のサウス・ロンドンでのライヴは、1970年3月にデラニー&ボニー&フレンズ名義で「オン・ツアー・ウィズ・エリック・クラプトン」としてリリースされている。


 1970年、デラニー&ボニーのバンドが一時的に活動を停止したため、レイドルはバンドから離れてジョー・コッカーのバンド「マッド・ドッグス&イングリッシュメン」のツアー・メンバーとなった。1970年3月には、ニューヨークのフィルモア・イーストで行われたライヴ・レコーディングに参加している。





 1970年4月、クラプトンとウィットロックは、イギリスでジャム・セッションを行うようになった。クラプトンは新たなバンドを結成しようと考えるようになり、アメリカにいたレイドルとゴードンに連絡を取った。ちょうどこの時期(1970年5月)、レイドル、クラプトン、ウィットロック、ゴードンの4人は、そろってジョージ・ハリスンのアルバム「オール・シングス・マスト・パス」のレコーディングに参加していた。この後4人はクラプトンの家に同居し、作曲とセッションに打ち込むようになった。こうしてクラプトンの新バンド「デレク&ザ・ドミノス」結成への動きは加速し、一時期デイヴ・メイスンが加わって5人編成となったバンドは、1970年6月14日にロンドンのライシアム劇場で初ライヴ行った。
 デレク&ザ・ドミノスは、デュアン・オールマンがゲスト参加したファースト・アルバム「いとしのレイラ」を1970年11月に発表。トム・ダウドは「レイ・チャールズの「The Genius of Ray Charles」以来、自分が関わった中で最高のアルバムだ」と述べたほど音楽的には素晴らしい内容だったが、アルバムに対する評価は思わしいものではなかった。「レイラ」の商業的な失敗に加え、デュアン・オールマンの死がクラプトンを精神的に追い詰めた。バンド内の緊張感も途切れ、デレク&ザ・ドミノスは1971年に解散する。


 デレク&ザ・ドミノス解散前後の1970年から1972年頃にかけてのレイドルはセッション・ワークで多忙な日々を送る。デイヴ・メイスン、J. J.  ケイル、ジョージ・ハリスン、ジョー・コッカー、レオン・ラッセル、ボブ・ディラン、バディ・ガイ、アート・ガーファンクル、デュアン・オールマン、ジョン・リー・フッカー、ボビー・ウィットロック、リタ・クーリッジ、クリス・クリストファースンなど多くのミュージシャンのレコーディングやツアーに参加している。
 1970年8月1日には、レオン・ラッセルやエリック・クラプトンとともに、ジョージ・ハリスンとラヴィ・シャンカールがニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行った慈善コンサート「バングラディシュ難民救済コンサート」に出演している。


 1969年に始まったレイドルとエリック・クラプトンの交流は、クラプトンがデレク&ザ・ドミノス解散後の1971年から休養に入ったため、3年ほど表面上は中断していたが、その間もレイドルはクラプトンに、ともにレコーディングを行ったミュージシャン達の音源を提供している。
 1974年にアルバム「461 オーシャン・ブールヴァード」でクラプトンが再始動した際には、ベーシストとして録音に参加したほか、「マザーレス・チルドレン」など数曲ではアレンジャーを務め、単なるサイドマン以上の役割を果たした。またアルバム「ノー・リーズン・トゥ・クライ」では共同プロデューサーとしてクラプトンを支えている。
 レイドルは、1970年から1979年までのクラプトンの全てのソロ・アルバムに参加しているほか、1974年から1979年までは彼のツアー・バンドのベーシストを務めた。
 そのほか、デイヴ・メイスンのアルバム「アローン・トゥゲザー」のほか、セルジオ・メンデスとブラジル77、ドノヴァン、プラスチック・オノ・バンド、マーク・ベノ、ドクター・ジョンなど、多くのミュージシャンと共演している。
 1976年にはザ・バンドの解散コンサートに出演したが、その模様は1978年の映画「ラスト・ワルツ」で見ることができる。


 1979年、クラプトンは新しいサウンドを求めてバンドを解散した。その後レイドルはタルサに戻って暮らしていたが、1980年5月30日、アルコールと薬物の過剰摂取による腎不全のため、オクラホマ州クレアモアの自宅で、37歳の若さで死去した。
 そのキャリアを通じて、レイドルは数多くの名作の録音に参加した。レイドルは1970年代最高のベーシストのひとりに数えられており、彼のシンプルではあるが歌心に満ちたベース・ラインは常にサウンド全体を支え、曲をサポートすることを最優先とした堅実な演奏は、共演した多くのミュージシャンすべてから尊敬を集めた。
 2006年には、オクラホマ音楽の殿堂入りを果たしている。





【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーション・アルバム)

 <カラーズ>
  1968年 Colours

 <デレク&ザ・ドミノス>
  1970年 いとしのレイラ
/layla and Other Assorted Love Songs(US16位)
 ☆1973年 イン・コンサート/In Concert(US20位)
  1990年 レイラ・セッションズ/The Layla Sessions:20th Anniversary Edition(US157位)
 ☆1994年 ライヴ・アット・ザ・フィルモア/Live at the Fillmore ※録音1970年10月
 
 <エリック・クラプトン>
  1970年 エリック・クラプトン・ソロ/Eric Clapton
(US13位, UK14位)
  1974年 461 オーシャン・ブールヴァード/461 Ocean Boulevard(US1位, UK3位)
  1975年 安息の地を求めて/There's One in Every Crowd(US21位, UK15位)
 ☆1975年 エリック・クラプトン・ライヴ/E.C. Was Here(US20位, UK14位)
  1976年 ノー・リーズン・トゥ・クライ/No Reason to Cry(US15位, UK8位)
  1977年 スロウハンド/Slowhand(US2位, UK23位)
  1978年 バックレス/Backless(US8位, UK18位)

 <レコーディング・セッション>
  1970年 オール・シングス・マスト・パス(ジョージ・ハリスン)(US1位, UK1位)
  1970年 アローン・トゥゲザー/Alone Together(デイヴ・メイスン/Dave Mason)(US22位)
  1971年 レオン・ラッセル & ザ・シェルター・ピープル/Leon Russell and the Shelter People(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US17位, UK29位)
  1971年 Naturally(J. J. ケイル/J. J. Cale)(US51位)
  1972年 カーニー/Carney(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US2位)
  1972年 ザ・レディース・ノット・フォー・セール/The Lady's Not for Sale(リタ・クーリッジ/Rita Coolidge)(US46位)
  1973年 レオン・ライヴ!!/Leon Live(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US9位)
  1973年 ハンク・ウィルソンズ・バック/Hank Wilson's Back(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US28位)
  1973年 天使の歌声/Angel Clare(アート・ガーファンクル/Art Garfunkel)(US5位, UK14位)
  1973年 イッツ・ライク・ユー・ネヴァー・レフト/It's Like You Never Left(デイヴ・メイスン/Dave Mason)(US25位)
  1974年 ストップ・オール・ザット・ジャズ/Stop All That Jazz(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US34位)
  1975年 ジョージ・ハリスン帝国/Extra Texture(ジョージ・ハリスン)(US8位, UK16位)
 ☆1975年 ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan(レオン・ラッセル/Leon Russell)
  1975年 ウィル・オ・ザ・ウィスプ/Will O'the Wisp(レオン・ラッセル/Leon Russell)(US30位)
  1979年 5(J. J. ケイル/J. J. Cale)(US136位, UK40位)


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