とても久しぶりに大塚ボンカレー、沖縄バージョンを頂いた、スーパーで見かけて懐かしい思いで。パックの写真を飾る松山容子さん。女優往時の写真は60年を経ても変わらず。本人は既に年齢80代、でも不思議ね。1960年から62年にかけてテレビ放映された時代劇「琴姫七変化」、主役を努めて剣劇を見せてくれた。何故か?沖縄では松山容子バージョンのレトルトカレーが人気で、その歴史が長い。学生時代はキャンプに、行くたびにレトルトにお世話になった、お手軽でね。さて上映当時のテレビ番組で観た覚えがある、白黒画面でね。制作は日テレらしく、系列局の無い沖縄には番販で配給されたのね。大塚ボンカレー、松山容子バージョンは沖縄だけでの販売と聞いている。道理でほんどの観光客が沖縄土産に求めていくわけだ。
淡い紫、庭木として人気のニンニクカズラ、秋口が開花の時期なのか、11月、民家の庭先を彩ってきた。南米熱帯地方の原産なので亜熱帯の沖縄に適した植物かもしれない。昨年まで毎年のように同じ亜熱帯の奄美に11月から12月にかけてお邪魔していたが、ついぞ見掛けた試しがない。自生する類ではないから、持ち込むと意外に定着するかも。今の時期はツワブキが可憐な黄色い花開く頃。この花は沖縄でも奄美でもスタンダード。中城城跡はツワブキが城を彩る時期。
夜になり晩酌しながらテレビ番組「あげあげめし」を観ている、あら?奄美繋がりの川渕大樹兄が経営する「焼肉萬たく」でのロケの再放送だ。勤めを終えた夕刻に7色を空に見かけ、バイクを停めて写メした。ところで、何で「あげあげめし」は再放送してるの?ジョニーが出演している場面が観られて良いけど。
目の不自由な方へ音の出る信号機を贈ろう、ラジオ チャリティ ミュージックソン。今年もクリスマスイブの正午から24時間の特番編成で送ります。コロナ禍で拠点の設置などに往生しております。ですが、募金箱は県内各地に配布して浄財のご協力をお願いしております。オジサンは今回も募金箱の組み立てに励んでおりますよ。
沖縄県立北城ろう学校・・中城村に位置して、ろう者を受け入れている県立の学校。1964年から65年にかけて沖縄で風疹が流行、妊婦の感染で先天的に耳が不自由な子供たちが生まれた。ワクチンの接種など未だ実施されない時代の背景があって、およそ400人近い子供たちの進学先として県立学校が設立されたのだ。その後、風疹(三日はしか)禍を乗り越えて硬式野球部は高校野球大会への参加を得た。子供たちの健闘の道筋は映画「遥かなる甲子園」で公開された(YouTubeで確認出来ます)。オジサンが中学1年時の担任だった宮里孝三(こうぞう)先生は自ら希望してろう学校へ赴任した。子供たちに教えたのがバレーボール。その後、オジサンは高校に進学して2年時にバレーボール部に入部、当時の南部大会で孝三先生率いるチームのゲームを間近で拝見した。声が出ないので目や指先でプレーを指示して確認している。感無量の光景だった、今でもはっきり覚えている。後にチームは全国ろう者大会へ出場するまでに成長、ヨーロッパで開かれる世界大会へは数名が選手として出場、確か孝三先生は監督としてチームの指導に努めた筈だ。今年は風疹の流行から55年を経た、当時の子供たちは困難や苦難を乗り越えて既に大人となり、家庭を持ち、穏やかな日常を営んでいると思う、周囲の理解あってこそだ。孝三先生は既にお亡くなりになり、個人を偲ぶ縁がなかったが、先日、図書館で見かけた図書に本人の名前を確認。借りて読んでみたが、バレーボール、ろう教育に駆けた教員であったなぁと嘆息した。さて、先日借りた洋画のDVD2本。なんと、音声が見事に出ない。出ても聞き取れないのだ。幸い1本は字幕が出ているので何とか鑑賞、もう1本は日本語吹き替え版であったので早々とギブアップした。ろう者の気持ち、感覚が理解出来た出来事だった。