西尾城は明治初めに壊され、写真も図面もなく絵として、3枚目の写真のような
すごく簡単な絵しかないのです。4枚目の写真は西尾藩士の子孫で管 是敬氏が
いろいろな資料を基に描かれたものです。
だから正確には復元とは言えないかもしれません。
名古屋城は戦災で焼けるまで本ものがあったのでたっぷり資料はあるのですが、
鉄筋コンクリート造りで内部は全く実物と違うので、外観復元天守というんだそうです。
復興天守とか模擬天守とかいろいろな天守があって、最上階の窓をたくさん増やしたり、
高欄の付いた「ベランダ」を設けたり、場所をかえたり、もともと天守のなかった城に
天守を造っちゃったりしたところもあるようです。
天守台の石材は昔と同じく幡豆石を使用しています。重機のない時代にこんな大石を
使ったのかなという疑問もわきました。もちろん大阪城・無名古屋城などでもっともっと
大きな石を運んだ例はありますが、あれは豊臣、徳川の威信をかけてやったことで
西尾のような小さな城では大き過ぎはしないかという気がしたのです。
同時代の他の城の例と比べてみたい気もしますが、ここの天守台再建工事で旧天守台
の石積みの一部と基礎の胴木が発見され、この石を再建に利用しています。
風化していますが今回の再建工事の石と同じくらいの大きさです(写真)
すごく簡単な絵しかないのです。4枚目の写真は西尾藩士の子孫で管 是敬氏が
いろいろな資料を基に描かれたものです。
だから正確には復元とは言えないかもしれません。
名古屋城は戦災で焼けるまで本ものがあったのでたっぷり資料はあるのですが、
鉄筋コンクリート造りで内部は全く実物と違うので、外観復元天守というんだそうです。
復興天守とか模擬天守とかいろいろな天守があって、最上階の窓をたくさん増やしたり、
高欄の付いた「ベランダ」を設けたり、場所をかえたり、もともと天守のなかった城に
天守を造っちゃったりしたところもあるようです。
天守台の石材は昔と同じく幡豆石を使用しています。重機のない時代にこんな大石を
使ったのかなという疑問もわきました。もちろん大阪城・無名古屋城などでもっともっと
大きな石を運んだ例はありますが、あれは豊臣、徳川の威信をかけてやったことで
西尾のような小さな城では大き過ぎはしないかという気がしたのです。
同時代の他の城の例と比べてみたい気もしますが、ここの天守台再建工事で旧天守台
の石積みの一部と基礎の胴木が発見され、この石を再建に利用しています。
風化していますが今回の再建工事の石と同じくらいの大きさです(写真)