太った中年

日本男児たるもの

翼賛状況

2009-12-23 | weblog

Golden Sunset

 

安歩当車

節倹勤勉、富貴をむさぼらず、貧しくても心の満ち足りた人のこと。

「安歩当車」という言葉は、車で運ばれる代わりにゆっくりと歩くという意味だが、後人の口伝えで熟語となり、節倹勤勉で、富貴をむさぼらず、貧しくても心の満ち足りた人を喩えるようになった。

顔ショクは戦国の時代、齊国の賢人で、名利に無関心、博学多識で、人品と道徳が高尚で、日常生活は更に質朴であった。

ある日、顔ショクを慕ってきた齊宣王が、顔ショクを引見した。顔ショクを見た齊宣王が「顔ショク、前に出なさい」と言ったところ、思いがけず、顔ショクは同じ口調で「大王様、こちらにいらしてください。」と言い返した。

顔ショクの言葉に、齊宣王はとても腹を立てた。齊宣王の身辺の大臣も異口同音「王は主君で、あなたは臣。なぜそのような無礼なことを大王に言うのか」と顔ショクを叱責した。顔ショクは「もし私が、大王様のおっしゃる通りに進みでましたら、私は権勢と富貴をむさぼり求めて、へつらうにすぎませんが、逆に、王様がいらっしゃることができるなら、王様こそ賢者(学者)を礼遇した素晴らしい明君ではないでしょうか」と答えた。

顔ショクの話に怒りが治まらない齊宣王は、大声で「読書人が君主より尊いと言うのか」と問いた。顔ショクは落ち着きはらって次のように説明した。「読書人はおのずと尊いわけです。これには歴史的な根拠があるのです。昔の秦王は、齊国を攻撃する時、『賢者の柳下惠の墓地から50歩以内で柴を切る者は、すべて死刑に処する』と命じ、『齊王の首級を討ち取ってくる者は、諸侯に封じ、大金を与える』と命じたのです。つまり、君主の頭は、賢人の墓にも及ばないのです」

齊宣王は言い返せなくなり、栄耀栄華で顔ショクを引きとめようとしたが、顔ショクは婉曲に断った。「私は、質素な生活に慣れてきた者ですので、おいとまさせていただきますよう願います。私は、ゆっくりと歩くことで、車で運ばれているように感じ、空腹になってから食べることで、肉を食べているような気持ちになるもので、静かで心の満ち足りた生活を望んでおります。臣下として言うべきことは語り尽くしましたので、おいとまさせてください」と齊宣王に別れを告げて、その場を離れた。

その後、車で運ばれるよりゆっくりと歩くという意味の「安歩当車」という言葉は、後人により、節倹勤勉で、富貴をむさぼらず、貧しくても心の満ち足りた人を喩える熟語に派生していった。

節倹勤勉は昔から日本人の美徳とする価値観。

 

天皇は超法規的存在ではない - 池田信夫 blog

中国の習近平国家副主席と天皇の会見が、大きな政治問題に発展している。特に小沢一郎氏の記者会見が反発を呼び、「天皇の政治利用だ」とか「戦前の軍部と同じだ」といった批判が、産経から赤旗までそろって出てくるのには驚いた。特に週刊文春の見出しは、「小沢と鳩山は天皇に土下座して謝れ」。文藝春秋は、菊池寛が戦争協力の先頭に立った栄光ある歴史をもっているが、その反省もないのだろうか。

問題の「1ヶ月ルール」なるものは、法律でも政令でもなく、閣議決定さえ行なわれていない。このルールは法的拘束力のない慣例にすぎず、首相の指示がそれに違反したからといって、内閣の下部機関である宮内庁が指示を拒否することはできない。小沢氏がゴリ押ししたとかしないとかいう話は、手続き的な瑕疵がない限り、拒否の理由にはならない。法治国家とはそういうものだ。

過去にも1ヶ月ルールに反して会見が行なわれた前例があり、20分ぐらいの会見が天皇の健康に実質的な影響を与えることは考えられない。中国の国家副主席が天皇と会見するのは普通で、胡錦濤氏も1998年に副主席として来日したとき会見した。それを政治利用というなら、天皇の国事行為はすべて政治利用である。

むしろ私は、宮内庁の羽毛田長官の態度に軍部と共通するものを感じる。いったん面会を了解しておきながら、記者会見で首相を公然と批判するのは、他の官庁では考えられない。それは「天皇に関する慣例は憲法より上位にある」という戦前の感覚なのではないか。軍部はこのように天皇を超法規的存在にまつり上げ、「統帥権の干犯」を理由にして拒否権を発動し、陸軍大臣を引き上げるなどして内閣を倒し、暴走したのだ。

小沢氏の記者会見は、たしかに傲慢な印象を与えるが、その内容は論理的には間違っていない。首相が天皇の国事行為に「助言」することは、憲法にもとづく行為である。会見が国事行為ではないとしても、宮内庁は治外法権ではなく、天皇も法の支配に服すのだ。こんな当たり前のことを忘れて、すべてのメディアが「口のきき方が悪い」といった感情論で小沢氏をたたく翼賛状況は恐い。

 

噛みつき亀の池田センセのことだから小沢叩きに便乗して小沢さんに噛みつくのかと思ったら意外に冷静なコラムを書いていた。感情論に振り回され小沢叩きに執心した程度の低い右翼人間というのは、いつの時代も救い難い人たちだ。また、小沢叩きを翼賛、世論誘導をしたマスコミも同質である。

池田センセは奸臣羽毛田を戦前の軍部に擬えているが、天皇が超法規的存在ではなく憲法に規定されるつーのはまさに美濃部の天皇機関説だ。終戦までの明治憲法は天皇大権を有していた。しかし、昭和天皇は天皇機関説を支持し、天皇機関説を排撃した軍部、右翼の国体明徴声明を憂慮した。

右から左までの小沢叩き翼賛状況は何を生むのだろうか、暫くチェックしたほうがいい。

 

核密約文書、佐藤元首相邸に…初の存在確認(読売新聞) - goo ニュース

沖縄返還交渉を巡り、当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で交わされたとされる有事の際の核持ち込みに関する「密約」文書を佐藤氏の遺族が保管していたことが22日、明らかになった。

密約の存在を裏付ける決定的な証拠が発見されたことになる。

外務省はこれまで文書の存在を否定してきた。日米間の密約の存否の検証を行っている外務省の有識者委員会の判断にも大きな影響を与えるのは必至だ。

佐藤家で発見されたのは、ワシントンで行われた日米首脳会談で極秘に交わされた「合意議事録」の実物。読売新聞社が入手した「合意議事録」の写し(英文2枚)は、1969年11月19日付で、上下に「トップ・シークレット(極秘)」とある。文末には佐藤、ニクソン両首脳の署名がある。

文書では、米側が「日本を含む極東諸国防衛のため、重大な緊急事態が生じた際は、日本と事前協議を行ったうえで、核兵器を沖縄に再び持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする。米国政府は好意的回答を期待する」とし、有事の際の沖縄への核持ち込みを両首脳が合意したことが記録されている。日本側は「そうした事前協議があれば、遅滞なくその要求に応える」と明記されている。また、「米国政府は重大な緊急事態に備え、沖縄に現存する核兵器の貯蔵地、すなわち嘉手納、那覇、辺野古、及びナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用できる状態に維持しておく必要がある」と記している。

文書は2通作成され、1通は日本の首相官邸、もう1通は米国のホワイトハウスで保管するとしてある。佐藤氏は首相退陣後、自宅の書斎に私蔵していた。

佐藤氏が75年に死去した際、東京・代沢の自宅にあった遺品を遺族が整理していたところ、書斎机の引き出しから見つかった。

机は首相在任時、首相公邸に置かれ、退任後は、自宅に持ち運ばれた。関係者によると、元首相は生前、文書の存在について寛子夫人(故人)も含めて家族に漏らしたことはなかった。佐藤元首相の二男の佐藤信二元通産相は「(元首相は)外遊の際はアタッシェケースに書類を入れて持ち歩いていた。69年の訪米の際も、帰国してその文書をアタッシェケースから書斎机に移したのだと思う」と証言する。

密約の存在は、返還交渉で密使を務めたとされる若泉敬・京都産業大教授(故人)が1994年に著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文芸春秋刊)で暴露した。

沖縄への核持ち込みは公然の密約。日本側からの要請だった。

 

普天間、5月までに結論=日米首脳会談までに-平野官房長官(時事通信) - goo ニュース

平野博文官房長官は22日夜の記者会見で、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先を決める時期のめどについて「(来年)5月は一つの大きな判断(時期)かもしれない」と述べた。平野長官は、来年の日米首脳会談までに結論を出す必要があるとの認識を表明。来年6月にカナダで主要国首脳会議(サミット)が行われることを念頭に、その際の日米首脳会談までに移設先を決めるべきだとの考えを示した。

また、日米首脳会談までに結論を出すことに関しては「基本的には(与党3党の)共通認識だ」と強調。米側は早期結論を出すよう求めているが、日本側が結論を出すめどは「(5月で)変わらない」と強調した。

普天間移設問題はノラリクラリ先延ばしにしたほうが有利。