迷狂私酔の日々(再)

明鏡止水とはあまりに遠いこの日々。

[各駅停車で南へ]その45・馬刺し

2007年04月13日 | 旅する。
4月13日

古仁屋からバスで名瀬まで戻ってきた。

夜はまたしても「炭や」へ行く。

ママチャリで奄美パーク往復の証拠写真を見せる。

隣りのおじさんと仲良くなり、焼酎をおごってもらう。

「どーせ、会社の金で落とすから! 飲んで飲んで!」

にいちゃんは、約束を守って1杯分をサービスしてくれた。

馬刺しは、舌の上でとろける。

明日はイノシシでも食べるとするか。




[各駅停車で南へ]その44・25分で2.5kmを歩く

2007年04月13日 | 旅する。
4月13日

呑の浦から瀬相(せそう)まで歩く。

途中、路線バスが後ろからクラクションを鳴らして止まってくれたが、まだ船の出航時刻まで余裕があると思っていたので、断って歩き続けた。

その時は、あと1kmくらいだと思っていたのだ。

さらに15分歩いて、標識を見て驚いた。

「瀬相まで2.5km」

出航時刻まで、あと25分。時速6kmで歩かないと、間に合わない。しかも、道は山の中の登り坂なのである。

自分でペースを決めて速歩。以前にも同じような事があったような気もするが、思い出せない。

出航5分前、港が見えた。さっきバスを止めてくれた運転手のおじさんが、ニコニコ笑っている。

汗まみれの顔をペコリと下げた。

船が汽笛を鳴らした。最後は走った。待ってくれている船への誠意のつもりなのだが。

船に文字通り、走り込むとすぐに船は出た。




[各駅停車で南へ]その43・震洋の見た海

2007年04月13日 | 旅する。
4月13日

呑の浦になぜ、島尾敏雄文学碑があるかといえば、ここに特攻艇・震洋の出撃基地があったからである。

いまは遊歩道が整備され、震洋も展示されている。

震洋の船首には、鉄のフレームのようなものが据え付けられていて、推察するには敵鑑に体当たりした際に爆薬を点火するトリガーの役割を果たす予定だったのだろう。

震洋の格納庫は岩山を穿った穴の天井から壁にかけてカマボコ型にコンクリートで補強され、入江に沿って並んでいる。

そのひとつから、海を眺めてみた。

エメラルド色は、あの時と同じ色なのだろうか?

あの時、ここから艇を海に浮かべる事は、すなわち死を意味した。




[各駅停車で南へ]その42・呑の浦

2007年04月13日 | 旅する。
4月13日

朝、生間まで車で送ってもらい、そこから路線バスに乗って呑の浦(のみのうら)を目指す。

バスは本来、手前の押勝(おしかつ)で時間調整をするらしいのだが、運転手のおじさんはわざわざ島尾敏雄文学碑への入り口まで、バスを回してくれた。

私が今回の旅に持参した僅かな本のうち、島尾敏雄『死の棘』は奄美に向かう船の中で、島尾伸三『月の家族』は昨日、読了した。

いずれも昔読んだ本の再読になる。ここに来ることは、今度の旅の(これも数少ない)目的のひとつだった。

たどり着いた文学碑には小川国夫の献辞も刻まれていて、「小川国夫を見いだした作家」として島尾敏雄を読み始めた、ややいびつな読書履歴をもつ私としては、ひとつの円環が閉じるような不思議な感慨に襲われた。